V・ハヴェル『通達』あらすじと感想~官僚組織と人工言語をテーマに人間性の喪失を描いた傑作不条理劇!
V・ハヴェル『通達』あらすじと感想~官僚組織と人工言語をテーマに人間性の喪失を描いた傑作不条理劇!
今回ご紹介するのは1965年に初演されたヴァーツラフ・ハヴェル作『通達』という戯曲です。私が読んだのは松籟社より2022年に発行された阿部賢一、豊島美波訳『〈東欧の想像力〉20 通達/謁見』所収の『通達』です。
早速この本について見ていきましょう。
チェコスロヴァキアの民主化運動を牽引し、のちに大統領に就任したヴァーツラフ・ハヴェル。しかし彼の本領は、「言葉の力」を駆使した戯曲の執筆にあった。
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官僚組織に人工言語「プティデペ」が導入される顛末を描いた「通達」、ビール工場を舞台に上司が部下に奇妙な取引をもちかける「謁見」の二編を収め、「力なき者たちの力」を考究したこの特異な作家の、不条理かつユーモラスな作品世界へ誘う戯曲集。
作者ヴァーツラフ・ハヴェルについては当ブログでもこれまでもご紹介してきましたが改めてプロフィールを紹介したいと思います。
1936年、プラハ有数の富裕な家庭に生まれる。第二次大戦後にチェコスロヴァキアが社会主義体制になると生家は財産を没収され、ブルジョア家庭の出自のため進路にも掣肘が加えられた。
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兵役終了後にプラハのABC劇場に職を得、演劇の道に入る。のち欄干劇場に移り、「不条理演劇」の表現の多様性を追求する戯曲を執筆した。代表的作品に本書収録の二編のほか「ガーデン・パーティ」「ラルゴ・デゾーラート」などがある。
「プラハの春」挫折後の「正常化」時代には作品の発表を禁じられ、収監も経験したいっぽうで、体制側に異議申し立てをする「ディシデント」として活動。「ビロード革命」で民主化運動を主導した「市民フォーラム」でも中心的な役割を果たし、のちには大統領に就任している。
晩年、戯曲「サナトリウム」を執筆していたが、脱稿は叶わず、2011年12月に逝去した。
チェコ大統領を務めた劇作家というすさまじい経歴の持ち主がハヴェルになります。
私がこの人物に関心を持つようになったのは彼の主著『力なき者たちの力』がきっかけでした。
私は2019年にプラハを訪れたことがきっかけで1968年の「プラハの春」事件に興味を持つようになり、その流れでハヴェルの存在を知ることになりました。
そしてこの『力なき者たちの力』という作品に衝撃を受け、私はハヴェルの著作を読むようになったのでした。また、この作品を読むにあたり参考にしたのが阿部賢一著『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」という本でした。
阿部賢一先生の解説は非常にわかりやすく、「プラハの春」の流れやハヴェルの言葉の意味を味わうための最高の手引きとなっています。そしてその解説の中で言及されていたのが今回の記事で紹介している『通達』と次の記事で紹介する『謁見』という作品になります。
ではこの作品について見ていきましょう。
『通達』は、上演順では『ガーデン・パーティ』(一九六三)に次ぐ二作目にあたるが、本作の構想は同作より前に遡る。一九六〇年に第一稿ができ、ヴィスコチルが目を通したものの、当時の状況では理解されないだろうと判断され、いったんお蔵入りになる。戯曲家ハヴェルが本格的に取り組んだ初めての素材が『通達』だったのである。その後、数度にわたる加筆・修正を経て、一九六五年七月二十六日、プラハの欄干劇場でヤン・グロスマンの演出により初演を迎える。(中略)
十二場からなるこの作品は、誤解をもたらすことのない、きわめて精確な人工言語プティデぺがとある役所に導入されたことで翻弄される人びとの様子が描かれている。熱血漢のグロスは局長であるというのに、人工言語の導入を知らされていない。
導入を秘密裏に進めていた局長代理バラーシュは、無言のクプシュとともに、グロスの包囲網を張り巡らす。
かたや、極めて難解なプティデペの授業が行なわれたり、翻訳センターの面々も登場するが、前者では言語の構造についての疑似学問的な解説がなされ、後者では翻訳とは無関係な日常会話ばかりが披露される。グロスはバラーシュと役職を交代し、プティデぺの導入を阻止できたものの、今度はホルコルという新しい人工言語が導入される……
この作品では、前作に続き言語の問題が取り上げられているが、人工言語の導入という点により言語をめぐる意識がさらに先鋭化している。効率性を追求するには、自然言語から、多義語、感情表現といった「余剰」なものを排除し、意味を精確に伝える人工言語を導入するべきであるという効率主義的な発想が出発点にある。(中略)
ハヴェルの「プティデぺ」の特徴は、官僚制度におけるコミュニケーションを主眼に置いている点にある。誤解や多義性を避けるために余計に冗長になっていくという言語自体の問題に加え、精密かつ難解な言語を利用するために翻訳が必要となるが、事務的な承認が得られないと翻訳が認められないという逆説的な状況が生まれている。
そこから見えてくるのが、人間性の喪失というテーマである。官僚的な言語を使って話していると、言葉遣いだけではなく、振る舞いも思考もその言語に染まってしまい、人間らしさが失われてしまう。後半、グロスとバラーシュが役職を入れ替えるやいなや、振る舞い、言葉遣いまでも変わってしまう。言語の問題が、言語を使う人間の問題に直結するのである。(中略)
ハヴェルの評伝の著者ジャントフスキーが、この戯曲でハヴェルは初めて「悪への受動的な関与」を扱ったと述べているように、本作は、組織の一部として働いている人びとの消極性が孕む問題点を見事に射抜いている。
松籟社、ヴァーツラフ・ハヴェル、阿部賢一、豊島美波訳『〈東欧の想像力〉20 通達/謁見』P237-239
※一部改行しました
ここに出てきた『ガーデン・パーティ』は以前当ブログでも紹介しました。
『ガーデン・パーティ』も官僚組織と言語をテーマにした不条理劇なのですが、それをより先鋭化した形で構成したのが今作『通達』になります。
『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」ではこの二作を続けて紹介し、その意義が解説されていました。今回はその箇所の内、『通達』に関連するところを見ていきたいと思います。少し長くなりますが非常に重要なポイントですのでじっくり読んでいきます。
次に紹介したい作品が、一九六五年に書かれた『通達』です。これは、ある役所を舞台にした架空の人造言語「プティデぺー」を巡る不条理劇です。「プティデぺ」は合理的な文法と膨大な語彙を有する優れた人造言語で、この役所ではすべての重要な文書にプティデぺを使うことになります。ところが、プティデぺはあまりにも難しく、普通の人は理解できないため、翻訳が必須となります。ただし翻訳には許可が必要なのですが、その許可を得るために次のような会話が交わされます。
バラーシュ どうして、マシャートは翻訳しないんだ?
マシャート 翻訳するのはクンツの許可が出たときだけだ。
バラーシュ なら、クンツは許可を出すべきだろう。
クンツ できない、だって資料を持っているのはへレナだから。
バラーシュ 聞いたか、へレナ?資料を渡さないとだめだろ。
へレナ だって、翻訳しちゃだめなんですよ。
バラーシュ なら、どうして、マシャートは翻訳しないんだ。
マシャート 翻訳するのはクンツの許可が出たときだけだ。
バラーシュ なら、クンツは許可を出すべきだろう。
クンツ できない、だって資料を持っているのはへレナだから。
バラーシュ 聞いたか、へレナ?資料を渡さないとだめだろ。
へレナ だって、翻訳しちゃだめなんですよ。
バラーシュ なら、どうして、マシャートは翻訳しないんだ。
マシャート 翻訳するのはクンツの許可が出たときだけだ。
バラーシュ なら、クンツは許可を出すべきだろう。
クンツ できない、だって資料を持っているのはへレナだから。
バラーシュ 聞いたか、へレナ?資料を渡さないとだめだろ。
へレナ だって、翻訳しちゃだめなんですよ。
バラーシュ まったく、こんな魔法の円環を考え出したのは誰なんだ!
(『通達』一九六五年、著者訳)役所などで事務的な手続きをする際に、窓口をたらい回しにされた挙げ句、結局振り出しに戻る、という感覚は私たちにも分かります。それが極端にエスカレートした不条理な状況が表現されている場面です。『ガーデン・パーティ』も『通達』も、登場人物たちは一生懸命言葉を発しているにもかかわらず、言葉がかみ合うことなく、コミュニケーション不全に陥っています。こうした「言葉の上滑り」が、ハヴェルの初期の戯曲では大きな主題になっています。
『通達』を発表した一九六五年は、「プラハの春」の前で、少しずつ体制の内側からの変化が始まろうとしている時期でした。この年、チェコスロヴァキア作家同盟が主導して、党の政策に意見を述べる機会がありました。その会議でハヴェルは、次のような発言をしています。
なかでも―言語の儀式化というものが起きている。現実を示したり、現実を理解するための手段から、言葉それ自体が目的となったかのように、言語が変容したかのようである。(略)
例えば、何について話しているかよりも、どういう言葉を用いているかのほうが、今日、重要性を増していることがあるのに気づいてみるがいい。言葉―そのような言葉―は、カテゴリーのための記号であることをやめ、カテゴリーそのものになりつつある。ある現実を別の現実へと変えてしまう魔術的な力を獲得しつつあり、そこでは、思想を通して議論がなされるのではなく、概念を通して議論がなされる。
(「チェコスロヴァキア作家同盟会議での演説」一九六五年、著者訳)紹介した二つの戯曲でハヴェルが表現したのは、社会主義体制下の官僚制度における「言語の儀式化」であり、言葉の空虚さでした。言葉は力を持つこともあれば、空虚にもなりうる。そうした意識を、少なくとも一九六〇年代には持っていたことが分かります。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」よP99-102
「言語の儀式化」。これがこの作品において非常に重要なポイントになります。話す内容よりも、その言葉自体が重要視される。つまり話す内容よりも、その言葉を使うか使わないかが同志であるかどうかを見分ける装置になっているという状況がそこにあったのでした。
これは当時のチェコの時代背景を考えると非常にリアルな問題でした。ソ連式の官僚体制ではいつ密告されるかわかりません。内心で何を思っていようがソ連のイデオロギーに沿った言葉を発し続けなければなりませんでした。
このソ連のイデオロギーに沿った言葉がいかに意味を失った空虚な言葉であったか。
そのことを風刺したのがこの戯曲であり、後に発表される『力なき者たちの力』の大きなテーマになります。
硬直した官僚組織、そして意味を失った言葉がもたらす人間性の喪失。
それをこの戯曲で表現しています。
こう言うと「なんだか難しそうだな」というイメージを持たれるかもしれませんが、実際に読んでみると「難しい」という印象はあまり受けませんでした。
それよりも、「なんだこれは・・・!なんだかとんでもないものを見てしまったぞ・・・!」という何とも言葉では言い表しにくい衝撃を受けることになりました。作中の不条理で噛み合わないコミュニケーションの連続に、だんだん不気味さを感じるようになります。
「とんでもないものを見てしまった・・・!」
これが私の感じた一番の印象です。
もしこの戯曲を生で観たらどんなことになってしまうのか想像もつきません。
「とんでもない作品」です。
面白いのか面白くないのかそれすらわかりません。ただ、「とてつもない」のはすぐにわかります。
そんな作品です。
これはかなりの衝撃作でした。ぜひおすすめしたい作品です。「とてつもない作品」ですが阿部賢一先生の解説もありますのでその辺はご安心ください。楽しく読むことができる素晴らしい解説です。ぜひ解説を読んだ上でこの作品を楽しまれることをおすすめします。
以上、「V・ハヴェル『通達』あらすじと感想~官僚組織と人工言語をテーマに人間性の喪失を描いた傑作不条理劇!」でした。
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