(22)イギリスの労働運動「チャーティスト運動」を間近で見るエンゲルス~エンゲルスはそこで何を学んだのか
イギリスの労働運動「チャーティスト運動」を間近で見るエンゲルス「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(22)
上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。
これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。
この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。
当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。
そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。
この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。
一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。
その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。
では、早速始めていきましょう。
オーエン派の衰退とチャーティスト運動のはじまり
前回の記事でも紹介しましたが、1830年代まで根強い人気のあったオーエン派の活動も最後には衰退していってしまいます。
その大きな原因となったのがイギリスの新たな政治運動である「チャーティスト運動」でした。
今回の記事ではそんなイギリスの歴史に非常に大きな影響を与えたチャーティスト運動についてお話ししていきます。
マンチェスター内では間違いなく勢いがあったにもかかわらず、一八三〇年代末になると、オーエン派は全国的な労働者階級の政治では勢力を失いつつあった。
彼らの地位は、わかりやすい六カ条の要求を突きつけたチャーティストによって取って代わられた。その要求とは、青年男子普通選挙、秘密投票、毎年の選挙、同等の人口規模の選挙区、議員への歳費支給と、議員になるための最低財産資格の廃止(それによって労働者階級の代表も選出されるようにすること)であった。
オーエン派の空想的野心とは対照的に、彼らが掲げた憲章は、労働者階級が置かれた状態への政治的解決策を見いだすための実際的な試みだった。これはランカシャー州でどこよりも熱烈に受け入れられ、マンチェスター政治連合が松明を掲げた行進や、カーサル・ムーア―いわゆるチャーティスト運動の聖なる山―での「巨大集会」が組織された。一八三八年九月には三万人ほどがそれぞれの労働組合の旗のもとに集まり、チャーティスト運動の指導者ファーガス・オコナーの熱弁を聞いた。
「普通選挙権こそが、流血の事態を食い止められる唯一の原則である……。それ〔普通選挙権〕を誰もが委ねられるまでは、真の代表を送ったことには決してならない。これは自然がすべての人の胸に刻んだもの、すなわち自衛の力であり、個々人が投じる票となって表わされたものだ」。
だが、民衆によるそのようなカの誇示は、支配者層の不安を高めるばかりだった。一八三九年および一八四二年に再び、チャーティストの請願は下院で否決された。そうしたあからさまな侮辱はチャーティスト側の見解を過激化させ、中流階級の同盟から離脱させ、道徳に訴えるべきか実力行使すべきかをめぐる内部の激しい論争に発疑した。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P123
※一部改行しました
チャーティスト運動の過激な活動家と接触するエンゲルス
現代の解釈では、政治的透明性と道徳経済の要求を予測した十八世紀の急進派政治の副産物として、チャーティスト運動を再評価する傾向があるが、エンゲルスの目には、この運動は労働者階級の「集団的意識」が要約された「階級運動」そのものとして映った。
彼はそこから、できるだけ多くを学びたいと考え、この運動への二通りの導入口を見つけた。
彼の第一の入口は、チャーテイスト運動の恐るべき子供、ジョージ・ジュリアン・ハーニーを通じてである。
ハーニーはこの運動の実力行使派としての立場を貫き、集会で赤い自由の帽子を見せびらかすことで、保守的な仲間を苛立たせて喜んだ。
ロべスピエールを尊敬するハーニーは入獄と出獄を繰り返し、仲間のチャーティストたちと際限なく争い、最終的に党から除名されたが、人民憲章の要求を実現させるための最も確実な道は反乱だと確信しつづけた。数十年後、彼はエンゲルス―「少年のような若さにあふれた顔つきの背の高いハンサムな若者」―がリーズの事務所に自分を訪ねてきたときのことを述懐している。「彼は『ノーザン・スター』[チャーティストの新聞]を定期購読し、チャーティスト運動に強い関心をもっていると語った。こうしてわれわれの友情は始まった」。
マルクスとエンゲルスには毎度のことだが、この友情も不安定なものとなった。それでも半世紀にわたって―断続的な手紙のやりとりを通して―ハーニーとの友情はつづき、その間にハーニーはマンチェスターの状況にたいして忘れがたい評価をしている。「きみがマンチェスターへの嫌悪の念を表わすのを見て、驚きはしない」と、彼は一八五〇年にエンゲルスに書いた。「あそこは蛆虫どもの忌まわしく汚い住処だ。マンチェスターで自然死を遂げるくらいなら、ロンドンで絞首刑になったほうがマシだ」
※一部改行しました
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P124-125
チャーティスト運動は労働者の待遇の改善を求める労働者運動でした。その重要な目的が、
青年男子普通選挙、秘密投票、毎年の選挙、同等の人口規模の選挙区、議員への歳費支給と、議員になるための最低財産資格の廃止(それによって労働者階級の代表も選出されるようにすること)
というものでした。
ですので、後のマルクス・エンゲルスのように革命を求めるようなものではありませんでした。
ですが、チャーティスト運動も全員が全員一枚岩だったわけではありません。後に改めて紹介しますが、この運動には様々な思惑を持った人たちのグループの集合体であり、圧政をする政府という共通の敵がいるからこその共闘でした。
その中でもエンゲルスが親交を結んだのはやはり過激派のハーニーという男だったのです。
チャーテイスト運動の恐るべき子供、ジョージ・ジュリアン・ハーニー。
こうした人物と語り合っていた若きエンゲルス。
彼の中で革命家への道が少しずつ定まり始めていったのかもしれません。
活動家ジェームズ・リーチとの接触
エンゲルスのもう一人の主要な運動内のコンタクト先は、マンチェスターの手織り織工からチャーティストの活動家になったジェームズ・リーチだった。
エンゲルスによれば、サウス・ランカシャーから全国憲章協会の代表に選ばれる以前、リーチは「産業のさまざまな分野で、工場や炭鉱で何年間も働いており、信頼に足る有能な男として私は個人的に知っていた」。
彼もやはり、「綿業王たちだけでなく、その他すべての詐欺師どもに手に負えない厄介者」と見なされていた。一八四四年に彼が匿名で書いた問題の書、『工場からの動かしがたい事実』からすれば当然の評判である。
「労働者階級」に捧げられた同書は、工場主による非道な慣習をじかに告発したものだった。そこには職場での些細な違反にたいする賃金の差し引きから、座り込んだ妊婦に罰金を科すことや、時計の操作、「年端もいかない未成年者」の雇用、さらには女性労働者の強制的な売春までが含まれていた。
こうした証拠の多くはエンゲルスの本にも登場することになるほか、近代国家はブルジョワ階級の利益のための隠れ蓑に過ぎないという洞察にもつながった。
「労働者階級はこれ(国家)をいつまでも盗賊の制度と変わりないものと見なし、それゆえ雇用者は法律を超えた権利を有することができ、その非道な企みにより、まずは彼らが喜んで違反と名づけるものを生みだし、その後それを処罰する。彼らは立法者であると同時に、裁判官であり、陪審員なのだ」。
マルクスとエンゲルスがのちに『共産主義者宣言』のなかで述べたように、「近代の国家権力は、ブルジョワ階級全体の庶務を管理する委員会に過ぎない」
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P125-126
※一部改行しました
エンゲルスはアンファン・テリブル、ハーニーだけではなく、ジェームズ・リーチという活動家ともコンタクトを取っています。
彼も運動の中では過激な人物で、彼の著作からもエンゲルスは大きな影響を受けています。
エンゲルスがイギリスに来たのは1842年のことです。つまり、彼が21歳の年です。
若きエンゲルスはドイツからイギリスにやって来て、仕事の傍らこうした活動家たちから多くのことを学び取っていたのでありました。
チャーティスト運動にエンゲルスは何を思ったのか
こうした親しい交友関係や労働者階級のチャーティスト運動にたいする個人的な熱意があったにもかかわらず、エンゲルスはイギリスの危機にたいする解決策が六カ条にあるとは考えなかった。
第一に、彼らの社会主義は大陸ヨーロッパの進んだ考え(フーリエ主義やサン=シモン主義、あるいはへスの関係者など)とは異なり、「ほとんど発達していない」ばかりか、より重要なこととして、「社会悪は人民憲章では改善されない」からである。民主的な小細工よりもっと抜本的なものが必要だった。
これはエンゲルス青年がイギリスで助言を受けたもう一人の恩師、トマス・カーライルも大いに主張していた意見だった。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P126
※一部改行しました
エンゲルスはチャーティスト運動に対して共感するところはありつつも、これではうまくいくまいと冷静に観察してもいました。
「これではぬるい。『改善』では足りないのだ。もっと抜本的に体制をひっくり返さなければ世界は変わらない」
こうした思いがエンゲルスの中で強まっていったのかもしれません。
次の記事ではこの文の最後に出てきたイギリスの歴史家トマス・カーライルについてお話ししていきます。
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