Learning about the Bosnian Conflict in Downtown Sarajevo - Days when even crossing a single alleyway was a life-threatening experience.

Bosnia Bosnia and Croatia

たった1本の路地を渡ることすら命がけ!サラエボ市街地にてボスニア紛争を学ぶ 僧侶上田隆弘の世界一周記―ボスニア編⑥

サラエボは1992年4月から1995年10月まで約3年半の間、セルビア人勢力に包囲され、攻撃を受け続けた。

セルビア人勢力のサラエボ包囲網

The number of victims during that period was approximately 12,000.

1990年生まれのぼくは当時2歳。

その頃の記憶は当然ない。

だが、平和に暮らしていたぼくの幼少期に、遠く離れたボスニアでは悲惨な紛争が続いていたのだ。

それも多様な民族や宗教が共存していたその国で。

Cultural diversity was supposed to be the good thing that the country had, but it quickly disintegrated.

一体、ここで何が起こったのだろうか。

今日のサラエボウォーキングツアーではサラエボの文化や歴史だけでなく、紛争時のことを学ぶことが大きなテーマでもある。

旧市街中心部から西へ10分ほど歩いて行くと新市街のエリアに入る。

このエリアは1878年のオーストリア支配の影響でモダンな建物が並んでいる。

アラブ街の雰囲気もなくなり、ここはすっかりヨーロッパ。

カフェもバーも、見慣れた近代的な姿で迎えてくれる。

新市街をしばらく歩く。

すると、ガイドのミルザさんは道路に面したとあるビルの中に進んで行った。

ここは一体何なのだろうか。

ビルを抜けるとアパートに囲まれた路地に出た。

建物も古く、薄暗くて少し不気味な雰囲気を感じる。

アパートを見上げると、その壁面に銃弾の痕のようなものが見えた。

―ミルザさん、あれって・・・

「そうです。ここにも弾はたくさん飛んできています。」

やはりそうか・・・。

―今でもこういう銃弾の痕ってかなり残っているものなのですか?

「現在は復興も進みほとんどの建物が壁をきれいに直しています。

しかし紛争後しばらくはそうではありませんでした。

まずは壁よりも家の中を直しました。

家の外を直すのは復興が進んできた最近だからできたことなのです。」

なるほど、そういうことだったのか・・・

そしてもう一つアパートメントを通り抜ける。

するとそこはアパートメントに囲まれた小さな広場になっていた。

その広場、いや通路と言ってもいい場所に四角いコンクリート片に蛇口がくっついているようなものがあった。

「これは紛争当時、私達が使っていた井戸の跡です。

紛争中、電気もガスも水道も使えません。

その中でも水がなければ致命的なことになります。

私達には水の確保が大切でした。

では、なぜここに井戸があると思いますか?

それはここがアパートに囲まれていてスナイパーに狙われる心配がなかったからです。

・・・ですが、砲弾は飛んでくるかもしれない。

セルビア軍は人が集まるところを狙います。

そうです。もしここの存在が見つかれば、真っ先に砲撃されるでしょう。

私達は命がけで水を汲みにきました。

水がないと生きられません。だから命の危険があったとしてもここに来るしかなかったのです。」

ミルザさんはこれを見せてくれるためにここまでぼくを連れてきてくれたのか・・・

アパート群に囲まれた小さなコンクリートブロックの井戸。

命をつなぐために、当時の人たちは死を覚悟でここに水を汲みに来ていたのだ。

井戸を見終えた後もウォーキングツアーは続く。

そこから少しと離れていないところでミルザさんは立ち止まる。

「この路地の向こう側に山が見えますね。

いいですか、山が見えるということは、スナイパーがいるということです。

この通りを渡るだけでも本当に危険だったのです。」

その路地まで行ってみる。

車1台しか通れないほどの狭い路地。

見たところここを渡るのにはせいぜい数秒しかかからないだろう。

しかしその数秒が生死を分かつことになってしまうのだ。

ミルザさんによると、セルビアのスナイパーは山の中腹、この写真の真ん中らへんの高さに潜んでいたそうなのだ。

ちょうどHOTELBOSNIAの看板の「H」の横に見える家の辺りだ。

こんな近くまでセルビア軍は迫っていた。

そしてそこから障害物のない見晴らしの良い道は、スナイパーにとって絶好の狙撃位置。

だからこの通りは非常に危険な通りだったそうだ。

ぼくはそれを聞いて絶句するしかなかった。

生で見ると写真よりずっと近いのだ。そこに見える山が・・・

そしてたったこれだけの小路を渡るだけで生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされる毎日・・・

考えるだけでもぞっとする・・・

だがここでぼくはふと疑問に思ったことがあった。

それにしてもなぜスナイパーはこんな細い路地を通る人を正確に狙えるのだろうかと。

走って渡ればたった一瞬で姿が消える標的をなぜ狙えるのだろうかと。

狙撃はそんなに簡単なものではないのでは?と素朴に思ってしまったのだ。

それに対しミルザさんはこう答えてくれた。

「当時のセルビア軍は世界でも有数の強さを誇る部隊でした。

さらに最新鋭の武器も持っています。1990年代の武器はかつての第二次世界大戦時の装備とは比べ物になりません。

そして正規軍だけでなく、彼らには傭兵も加わっています。

戦争を仕事にしている人間たちです。彼らの報酬はいかに多くの敵を倒したかで決まります。

彼らは容赦しません。非戦闘員たるサラエボ市民が狙われたのもそこに一つの要因があります。」

そうか・・・セルビア人勢力は戦闘のプロが最新鋭の武器で武装してサラエボを包囲していたのか。

だからスナイパーが山からの狙撃で確実に標的を狙うことができたと。

それほど圧倒的な戦力を持つ相手に包囲されていた3年半・・・

聞けば聞くほど紛争の恐ろしさを感じる。

そして次に向かったのが現在でも現地の人々の台所となっているマルカレ市場。

野菜や果物など、市民の食卓に並ぶ品々がたくさん売られている。

しかし紛争中、ここも砲撃を受け多くの犠牲者が出てしまったのだ。

トンネル博物館にもあった赤い印。

ここに1994年に砲弾が撃ち込まれ、68人が犠牲になった。

そして世界中にこのショッキングなニュースが報道され、これがきっかけでNATOがセルビア人勢力の拠点を空爆。ボスニア紛争の戦況が変わり始めたのだ。

市場の壁にはここで犠牲になった人の名前が記されている。

先程も述べたがセルビア軍が狙うのは人がたくさん集まる場所。

生きるために食料を調達するには、市場に行かなければならない。

当然、数少ない物資が集まる市場には人がたくさん集まることになる。

そこをセルビア軍は突いてくるのだ。

いかに多くの人を殺傷するかがこのサラエボ包囲の目的だった。

でも、ぼくはここでも疑問に思った。

そんなに強いなら包囲して時間をかけるより、一気に制圧した方がよかったのではないか?

なぜ非戦闘員までじわじわ攻撃する必要があったのかと。

ミルザさんにそのことを聞いてみると、セルビア側もこの紛争が長きにわたって続くとは考えていなかったそうだ。

そもそも、セルビア側の最終目的はボスニア領内にセルビア人の国を作ることにあった。

当初は短期間でボスニアを制圧することでそれは達成されると見込まれていたがそれは現実的に困難であることがわかってきた。

想像をはるかに超えてサラエボ市民の抵抗が強かったのだ。

そして戦闘が長引いてしまったが故に、政治的な解決をする必要が出て来てしまった。

そのためサラエボを包囲してボスニア側に圧力をかけ続けるという作戦が取られるようになったのだと。

これ以上はここでは説明できないが、この紛争はとても複雑な背景を持った紛争だった。

しかし、一般人の犠牲が膨らんでいったのは事実。

そして生きるために必要な物を買いに行くところを狙われる、あるいは子供たちが集まる学校まで砲撃される、そういう極限の状態をサラエボ市民は生き抜いていたのだった。

そしてミルザさんはこう続けた。

「まさかこれだけの紛争になるとは誰も予想していませんでした。

私達は突然暴力に見舞われたのです。

始めは誰もそのことを信じることができませんでした。

しかし、毎日誰かが傷付き、死んでいきました。

全ての人が日常を失っていきました。

生きている世界が急に変わってしまったのです。

暴力は起こりうるものなのです。

どんなに信じられなくても、それは誰の身にも起こりうるものなのです。

それは隆弘さん(筆者)も同じです。

平和は当たり前ではありません。

私達も平和を生きていたのです。ですが、それが突然失われてしまったのです。

だからこそ、しっかり学ばなければなりません。考えなければなりません。

それが大切なことです。」

マルカレ市場の砲弾跡を見ながら話してくれたミルザさん。

紛争を経験したミルザさんの言葉はあまりに真に迫ったものだった。

信じられなくても、暴力は誰の身にも降りかかりうる・・・

ぼくはその言葉が頭から離れなかった。

日本に生きていてそんな恐怖はまだ味わったこともなければ考えたこともなかった。

ここサラエボで紛争の傷跡を実際に見ながら、紛争経験者のお話を聞いてそのことについて考えざるをえなかった。

そしてこの時はまだその暴力が自分の身に迫ってきていることなどまったく予想だにもしていなかったのである。

be unbroken

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