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(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え―お釈迦様のことばに聴く
(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え―隠してある財宝のありかを告げてくれる人に従うように。そのような人につき従うならば、善いことがあり、悪いことは無い。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P21
自分の過ちを指摘してくれる人を大切にせよ。
これはお釈迦様に限らず多くの賢人が述べている言葉ですよね。
ただ、これがなんとも難しい。
私たちはやはり自分を褒めてくれる人を好んでしまいます。
「いいね!」、「あなたの言う通りです!」「素晴らしい!」
自分が何かをした時、そう言ってもらえたらやっぱり嬉しいものですよね。
ですが偉くなり力を持てば持つほど周囲にはイエスマンが増えていく。
「先生先生」とおだてられ、気付けば周りには自分を慕う(ように見える)多くの人が。
そんな環境に慣れてしまうとたまに自分を咎める人間の言葉が以前にも増して耳が痛い。
するとせっかく進言してくれた人を遠ざけてしまう。
そして残ったのは相変わらずのイエスマンばかり・・・
こうしていつか自分の過ちが見えなくなり、独りよがりの裸の王様となってしまう。
映画や舞台、小説でもよく見るパターンですよね。歴史上の人物もこうして没落していった人がどれほどいることか。
ですがこれは何も偉い人だけに起こるわけではありません。
私達ひとりひとりも全く同じです。
友人関係でも、本当にその人のことを思うからこそ「それはだめだよ」と怒ってくれたり、言いにくいことを言ってくれます。
仲が悪くなってしまうかもしれないリスクを犯してわざわざ言ってくれるということは、その人を本当に思ってくれるからこそです。
ほどほどの仲でよしとするならば、そんなことはまず言わないでしょう。
「(おのが)罪過を指摘し過ちを告げてくれる聡明な人に会ったならば、その賢い人につき従え―隠してある財宝のありかを告げてくれる人に従うように。」
お釈迦様がこう述べられるように、自分の過ちを指摘してくれる人は、隠してある財宝のありかを告げてくれる人のようにありがたい存在です。
「もし自分の良くないところを指摘してくれる人がいたならば、その人こそ大切にしましょう。イエスマンばかりでは危険ですよ。」
そうお釈迦様はここで述べられるのです。
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