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(34)親鸞、関東から京都へ帰郷。晩年の執筆生活の始まり

見返り橋
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【親鸞伝~悩み多き英雄の偉大なる生涯】(34)親鸞、関東から京都へ帰郷。晩年の執筆生活の始まり

親鸞の関東滞在は越後流罪生活と比べて明らかに実り多き日々だったことでしょう。

直弟子だけでも300人を超え、その直弟子たちを中心にした集団も各地に出来ていきました。そして以前もお話ししましたように、その直弟子のほとんどが武士、つまり領主階級です。となると事実上その領地に住む人々も親鸞教団へと組み込まれていくことになります。そう考えると、関東での親鸞教団の規模はもはや数千人にも達していたことでしょう。

そして主著である『教行信証』も一応の完成を迎え、親鸞は自らの布教生活にほっと一息つけるところまで来たのではないでしょうか。

そんな安定した生活を送っていた親鸞でありましたが、ここで彼の人生が再び動き始めます。

なんと、親鸞は関東を去り、京へと向かってしまったのです。正確な年代は不明ですが1232年頃、親鸞60歳の年ではないかとされています。

なぜ親鸞は順風満帆だった関東を去り、京へ向かったのでしょう。

実は、それは今も謎のままなのです。

なぜなら、例のごとく今回も一言も親鸞はその理由を記していないのです。親鸞という方は本当にプライベートなことを他人に知られたくないタイプのお人なのでしょう。

ですが後世を生きる私たちにとってはなぜ関東を去ったのかは喉から手が出るほど欲しい情報です。親鸞の身に何かあったのかと不思議に思わずにはいられません。

従来言われてきた説は3つあります。

それが、⑴『教行信証』完成のため説、⑵法然の書簡をまとめた『西方指南抄』を編纂するため説、⑶幕府の弾圧から逃れるため説になります。

しかし歴史学者今井雅晴氏によればこの3つとも成立しないとのこと。

前回の記事で見ていきましたように、『教行信証』は関東時代にすでにほぼ完成していますし、京都に行かなくとも関東で執筆を続けることは大いに可能です。なぜなら関東には大寺院、大神社が多数あり参照する経典には困らないからです。意外かと思いますが、寺院だけでなく神社にも経典が置かれていたのです。特に鹿島神宮クラスの大神社になると膨大な経典や論書が保管されていました。それに、そこまで行かなくとも親鸞が住んでいた稲田の草庵の近くの稲田神社は鹿島神宮と同格の大神社です。ここに経典があった可能性は極めて高いです。つまり、経典を求めて京都に向かう必然性がないのです。

鹿島神宮
稲田神社

そして次の『西方指南抄』編纂のために京都に行った説ですが、この書が親鸞によって編纂されたのは親鸞が帰郷してから20年近く経ってからのことでありました。なので時系列が合いません。

最後の弾圧から逃れた説ですが、親鸞が退去を迫られるほどの緊迫した状況ではなかったためこれも不適当です。

つまり、従来言われてきた3つの説が親鸞の帰郷理由ではないというのがはっきりしたわけです。

では、この3つ以外で何が考えられるのか。今井雅晴氏は親鸞の年齢に着目しました。

親鸞はすでに60歳を迎えていました。この時代の60歳といえばご長寿に当たります。

織田信長が「人間五十年~」と言っていた300年も前の時代ですから、平均寿命はさらに低いことでしょう。今井氏は当時の平均寿命は42、3歳だったと述べています。

後世を生きる私たちは親鸞が90歳まで生きたことを知っていますが、当の親鸞は自分が90歳まで生きるなどまさか想像もしていなかったことでしょう。60歳という老境を迎えて関東での布教も成功したことであるし、故郷である京に帰りたいと親鸞が思っても自然ではないかと今井氏は指摘します。

たしかにそう考えてみると親鸞の帰郷は自然ですよね。あのブッダも最晩年に自らの故郷に帰ろうとしています。詳しくは「(24)ブッダのクシナガラでの入滅~従者阿難と共に最後の旅へ出かけるブッダ。80年の生涯に幕を閉じる」でもお話ししましたが、やはり最後は故郷に帰りたいという思いが生まれるのは特に自然なことなのではないでしょうか。まして親鸞は流罪で強制退去させられています。越後・関東滞在を経てそのトラウマも癒え、いよいよ穏やかな気持ちで京を追憶する心持ちになっていたのかもしれません。

いずれにせよ、本当のところは親鸞が何も記録していませんのでわかりませんが、こうして親鸞は故郷へと旅立つことになりました。

そしてここから90歳で亡くなるまでのおよそ30年、特に82歳を過ぎてからの最晩年に著作が集中しているのには驚きです。以下の表は親鸞の年齢とその著作数を表したものです。このデータは浄土真宗本願寺派の『浄土真宗聖典全書(二)宗祖篇 上)を参考にしています。

年齢の区分けを不思議に思われた方もおられるかもしれませんが、1~28歳は比叡山時代まで、29~35歳は法然教団時代、36~60歳は越後・関東時代、61歳以降が京時代になります。

この表の著作には書簡は含まれていません。あくまで親鸞の著作や、親鸞の直筆が確認された写本、ノート類の数になります。

この表を見れば一目瞭然ですが、親鸞は最晩年に最も精力的に執筆活動をしていたのです。生涯の著作の8割弱を82歳以後で書いているという驚異のバイタリティーです。やはり親鸞は恐るべきお人です。

ですが、関東で大成功したはずの親鸞がなぜその勢いのまま60代70代で執筆をせず、80代半ばになって猛烈に筆を執るようになったのでしょうか。

これにはある理由があります。親鸞はその晩年、様々なトラブルに悩まされることになりました。その対処のために最晩年になっても精力的に活動せざるをえなかったのです。これから先の記事でその事件についてもお話ししていきますが、この時の精力的な活動があったからこそ私達後世の真宗門徒は親鸞の教えをより深く学ぶことができているのは間違いありません。そういう意味で親鸞が晩年に見舞われた様々なトラブルは私たちにも大きな意味があります。

では、ここから先そんな親鸞の晩年を見ていくのでありますが、次の記事ではその前に親鸞が京に帰る際に立ち寄ったあるお寺についてお話ししていくことにしましょう。

続く

この記事で特に参考にした書籍はこちら

平雅行『改訂 歴史のなかに見る親鸞』
今井雅晴『親鸞聖人の一生』

主要参考文献一覧はこちら

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見返り橋

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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