日本と同じ妻帯する仏教の存在!ネパールの独特な仏教事情について
(76)日本と同じ妻帯する仏教の存在!ネパールの独特な仏教事情について
前回の記事「(75)ネパール仏教の象徴スワヤンブナート~こちらを見つめる目!目がそこにある!」ではネパール仏教の象徴スワヤンブナートを紹介したが、今回の記事ではそのネパールの独特な仏教事情についてお話ししていきたい。特に記事タイトルにあるように、日本と同じく妻帯する仏教がこの国に存在するという点に注目していきたいと思う。
では早速ネパールの仏教事情についてまずは田中公明、吉崎一美共著『ネパール仏教』の解説を見ていこう。
ネパールを訪れる観光客の大半は、ヒマラヤの前山に囲まれたカトマンドゥ盆地に降り立つ。そこで彼らは、世界に類を見ない木造の寺院建築や、町中狭しと立ち並ぶ土産物屋に置かれた仏教美術に目を見張ることになる。仏教の伝統が断絶してしまったインドと異なり、ネパールには今なお仏教が生きているという事実が、一般の日本人にも広く知られるようになってきた。
しかし観光案内書などには、いまだに「ネパールはヒンドゥー教国であるが、チべット仏教も行われている」、「ヒンドゥー教と仏教が混淆している」といった記述が目につく。学術的に正確を期さねばならない出版物にさえ、ネパール仏教とチベット仏教を混同したものが見られる。さらに一般のネパール人の仏教に対する無知も、ネパール仏教に対する誤解を増幅させている。
そして本書が「ネパール仏教」と呼ぶのは、カトマンドゥ盆地の原住民であるネワール族の伝統的仏教のみである。ヒマラヤ地域のチべット系少数民族の仏教や、近代になって伝えられた南伝仏教は、ネパール王国の仏教ではあるが、ネパール独自のものではなく、それぞれ「チべット仏教」「テーラヴァーダ仏教」(「小乗」という呼称は貶称である上、古代ネパールに存在したといわれる部派仏教と紛らわしいので用いない)と呼ぶべきであると考える。
これからの本篇で述べるように、ネパール仏教は、現代ネパールの仏教界においては多数派ではない。信徒数や資金力においては、チべット仏教が圧倒的な力をもっているし、布教活動や社会改革において最も活動的なのは、テーラヴァーダ仏教である。しかしそれにもかかわらず、われわれが「ネパール仏教」にこだわるのは、この宗教が世界に類を見ない独自の仏教であり、わが国だけでなく世界の仏教研究にも、重大な意味をもっているからなのである。
春秋社、田中公明、吉崎一美『ネパール仏教』P3-4
さて、一言でネパール仏教と言っても、そこには様々な宗派がある。ネパール内にはネパール仏教、チベット仏教、テーラヴァーダ仏教という3つの大きな枠組みが存在していて、それぞれに歴史がある。
そして上の解説にもあるように、ネパール独自の仏教は現在少数派となってしまっている。近年、チベット仏教やテーラヴァーダ(上座部)仏教がこの地に積極的に拠点を置いたためむしろこちらの勢力の方が大きくなっているのだ。
では、そのもはや少数派となってしまったネパール仏教とはどのようなものなのだろうか。引き続き解説を見ていこう。
それではネパール仏教とは、どのような仏教なのだろうか。ネパール仏教は、ネワール族の仏教徒セクションにより担われた、出家教団をもたない在家仏教と定義することができる。
ネワール族はカトマンドゥ盆地の原住民で、チべット・ビルマ系のネワール語を母語としている。彼らは、インドからヒンドゥー教、仏教、サンスクリット語をはじめとするインド文化を旺盛に摂取し、独自のネワール文化を創造した。
そして仏教がその故国インドで滅亡した後も、ヒマラヤの前山に囲まれたカトマンドゥ盆地では、ネワール仏教徒の篤い信仰心に支えられ、仏教が命脈を保ちつづけたのである。
ネワールの社会は、ヒンドゥー教徒と仏教徒のカーストが共存するという、世界に類を見ない構造をもっている。仏教は本来、カースト制度を否定してきたが、長きにわたるヒンドゥー法の支配のもとで、ネパール仏教はカースト制度を受容し、仏教徒をカースト化することで生き残ったのである。(中略)
ネパール仏教の現況は、ヒンドゥー社会の中で、大小乗の出家教団と在家密教が共存していた、中世インドの仏教を考える上で、またとないシミュレーション・モデルといえるのである。
春秋社、田中公明、吉崎一美『ネパール仏教』P5ー7
なるほど、これは独特である。出家教団をもたない在家仏教という定義は現在の日本仏教にもかなり重なる部分がある。
このネパール仏教についてさらに入門的な解説が中村元著『古代インド』に説かれていたのでこちらも引用したい。
ネパールの仏教は一般に大乗仏教と真言密教(金剛乗)との混じたものである。そこでは種々の仏・菩薩が信仰されているが、注目すべきものとして、文殊信仰がある。文殊は悪魔を殺したので人々の守護者となり、また学識をつかさどる菩薩である(文殊の智恵)。弁才天(サラスヴァティー)は彼の妻であるという。
ネパール仏教と日本仏教とのあいだには、不思議なほど多くの一致がある。たとえば、ネパールの仏教では「九つの教え」(Nava Dharma)といって、つぎの九つの経典をとくに尊重している。
1『八千頌般若』
2『華厳経』入法界品
3『十地経』
4『月燈三昧経』
5『楞伽経』
6『法華経』
7『一切如来金剛三業最上秘密大教王経』
8『ラリタ・ヴィスタラ』(『方広大荘厳経』にちかい、神話的な仏伝)
9『金光明経』そして、これらは日本の仏教でも大いに尊ばれている。
さらに宗教の現実面において興味ある一致または相似がある。ネパールの僧侶たちは金剛師(ヴァジラーチャーリヤ)とよばれ、寺院の建物のうちに住んでいるが、彼らはネパール服をまとい、ネパール帽をかぶっているのみならず、結婚して家庭をつくっている。カトマンズ最大の仏教霊場であるスヴァヤンブー寺院に参詣すると、寺院の建物の中からこどもたちが元気よく飛び出してくる。僧侶たちの子どもなのである。
このように世界に数多い仏教諸国のうちで僧職者たちがおおやけに独身生活を放棄してしまったのは、日本とネパールだけである。
僧侶が知っていなければならない唯一つのことは、儀礼をいかに実行するかということであるが、その中でもとくにホーマの儀礼が重要である(これは日本における「護摩をたく」ことと同じである)。特別につくられた炉の中にもえ立っている炎の中にバターや穀物を供たる儀式がインドのバラモン教で古くから行なわれていたが、それを仏教徒がとりいれたのである。
講談社、中村元『古代インド』2018年第17刷版P407-409
中村先生が『古代インド』の底本となる『ガンジスの文明』を著したのが1977年のこと。そこからほぼ50年近く経った今でもスワヤンブナートはそうなのだろうか。私はここから出てくる子供達を目にすることはなかったが、妻帯して家族を持ちながら仏教を護持するという仕組みは変わっていないことだろう。
そして中村先生はここから実に興味深い問題を提起してくれる。「なぜネパールと日本は同じような仏教になったのか」という問題である。引き続き解説を見ていこう。
ところで、ネパール仏教がとくに日本仏教と類似した特徴を示すようになったのはなぜであろうか。それは、風土的歴史的に条件づけられた社会生活という視点から解明されるように思われる。
インドは地域が広いので、ある場所で住みづらくなると、仏教の修行僧らは他の土地に逃げることができた。イスラーム教徒の軍隊が攻めてきたときに、仏教僧らは、東べンガルやアッサム・オリッサ・ネパール・チベットなどに逃げこんだ。しかし、ネバールは山々に固まれた限られた渓谷である。僧院の僧侶たちはヒンドゥー教的な心情と習俗をもつ民衆にとり固まれている。
さらに、カトマンズやパータンの僧院は、隠棲の場所ではなくて、民衆の真中に位置している。そこで修行僧らは社会に適応せざるをえなかった。彼らはバラモンと同様に、社会の「尊敬さるべき人々」(banra)とみなされ、最高のカーストに属させられた。このおおやけのカースト所属は十四世紀中葉になされたことであるが、それとともに古風な仏教は死んでしまったのである。
仏教徒たちがカースト制度に従属するとともに、古い僧院制度は死滅してしまった。そしてついに、社会に対する最後の譲歩として、彼らは独身生活をすててしまった。そのためにはタントラ仏教の理論がその道をひらいたのであろう。そこで僧侶たちはバラモンと同じ特権を享受し、またそれを要求するようになった。僧職は世襲となり、寺院は彼らによって保護された。
講談社、中村元『古代インド』2018年第17刷版P409-410
中村先生は宗教を単に宗教とだけ見るのではなく、時代背景を含めた大きな視点から語って下さる。このネパールの独特な仏教もネパール特有の地理風土や時代背景に大きな影響を受けていたのだ。
私はこの解説を読んでスリランカ仏教のことを想像せずにはいられなかった。
「(49)なぜスリランカで大乗仏教は滅びてしまったのか~密教の中心地でもあったスリランカ仏教界に何があったのか」の記事でもお話ししたように、スリランカ仏教は王権の庇護によって成り立っていた仏教だった。そしてその王権が崩壊すると仏教教団も同じように消滅してしまうのである。厳密に戒を守る出家教団は王権の保護がなければ成立しないのだ。
それに対しネパールのように、全く保護を受けられない中仏教を維持しようとすると在家仏教化せざるを得ないということが起こって来る。現地の風習や制度に順応する中で仏教の形も変わっていくのである。
そして次の解説も非常に興味深い。私もこれには度肝を抜かれた。
ネパール仏教を現世的なものとさせた他の一つの理由は、ネパール人の生活における勤労の尊重の精神ではないかと思われる。ネパールには渓谷はあるが平野はない。ネパール最大のカトマンズの飛行場でさえも、丘陵の中腹につくられている。ジェット機を飛ばす飛行場をつくることは困難であろう。こういう風土においては水田も畑も階段状につくらざるをえない。
ところで、このような土地に水田や畑をつくることは、平地よりはるかに多くの労力を要する。そこでは自然に対して積極的にはたらきかける必要が生じる。ネパール人はおっとりしているが、しかし働くのをそれほどいとわない。霊場には乞食がいるが、その他の場所には見当たらない。
こういう環境においては、ヒマラヤに住む聖者というようなものは、宗教的理想としてはあこがれの的にはなるが、一般にはしたがいにくいものである。独身の隠遁生活よりも、むしろ人間を産み育てることのほうが尊ばれるのは当然であろう。現実的な真言密教が尊ばれるにいたったゆえんである。
講談社、中村元『古代インド』2018年第17刷版P410-411
まさに「働かざる者食うべからず」である。これは中国仏教でも顕著である。中国で生まれた禅仏教が説いたこの「働かざる者食うべからず」という格言はまさにネパールでも当てはまったのではないだろうか。そして災害や飢饉が多かった日本でもこうした「勤労の尊重」精神が重視されたのもうなづける。
ここが私達北方の仏教とインドやスリランカが決定的に異なる点なのである。
スリランカではご覧の通り、植物にとって最高の土地である。年中温暖でウエットゾーンは水にも困らないため1年を通して果物や作物を収穫できる。特に果物に関してはそこら中にバナナやマンゴーの木が生えており、スリランカではまず食べ物には困らないとガイドさんも言っていた。
「(25)スリランカの気候は如何?気候と宗教の関係について考えてみた。日本仏教についても一言」の記事でもお話ししたがブッダの活動域は中インドと言われる地域である。この地域も果物や農産物が豊富で食糧事情が非常に安定していたと言われている。
そして興味深いのはこうしたインドやスリランカでは、食物をたくさん作って残ってしまってもそれを捨てることにあまり抵抗がないというのである。たしかに食物が豊富にある地域ではそうなる傾向もあり得るというのは理解できるが、私も初めてそのことを聞いた時はぎょっとしたものである。それほど食糧事情が違ったのだ。そしてそれが宗教の形にも大きな影響を与えることになるのである。
中村先生の解説は実に興味深いものがあった。私達の日本仏教とは何かを考える上でもこれは大きな示唆を与えてくれるものであろう。
ちなみにであるが、カトマンズ周辺にはスワヤンブナートの他にもうひとつ巨大な仏塔がある。
こちらはボードナートと呼ばれる仏塔で、世界最大級の仏塔として知られ、世界遺産に登録されている。
前回の記事でお話したスワヤンブナートはネパール仏教の聖地であったが、このボードナートはチベット仏教の仏塔だ。そしてスワヤンブナートよりも大きな作りとなっている点からも、ネパールにおけるチベット仏教の強さを感じることができる。
私達日本にも様々な宗派があるように、ネパールにもいくつもの宗派がある。妻帯を認め在家仏教化したネパール仏教と、チベット仏教、上座部仏教はその教えも異なる。一般的な観光客にはその違いを感じることはなかなか難しいかもしれないが、よく見てみるとやはりその雰囲気は異なるものがあるのである。
こちらはカトマンドゥ市内の仏教寺院だ。バーザールの建物をくぐったその先にひっそりとあるこのお寺。ガイドさんすらその名を知らない寺院だった。私が何度もカトマンドゥの仏教寺院を見せてくださいと頼んでようやく見つけてくれたお寺である。ガイドさんもピンとこないほど、もはや仏教っぽくないのである。つまり、まさにネパールヒンドゥー教世界に組み込まれた存在としてのネパール仏教なのだ。
私がカトマンドゥに滞在できたのはほんの数日だ。しかし、その中でも様々なネパールの仏教の姿を見ることができたのは非常に刺激的であった。
こうして私はカトマンドゥでの滞在を終え、ルンビニーへと帰還した。
私はこの旅の前、インド、ネパールを経験した僧侶の方から「インドの仏跡を巡るならその途中でネパールも行った方がいいよ。インドは長くいると疲れるから」とアドバイスを頂いていたのだがまさにその通りだった。
ネパールでの日々はインドで疲れ果てた私の心と身体を癒した。
のどかな景色、ゆったりとした空気感、クラクションの鳴らない道路、おいしい食事・・・。
そして何より、コーヒーが美味しかったのが嬉しかった。
Himalayan Java Coffee(ヒマラヤン ジャワ コーヒー)
こちらはHimalayan Java Coffee(ヒマラヤン ジャワ コーヒー)というコーヒー店なのだが、ここはネパールのスターバックスと言われるほど有名なチェーン店で、カトマンズ市内に多くの店舗がある。
このお店はネパールで最初のスペシャリティコーヒー店だそうで、高品質なコーヒーを手頃な価格で楽しめるということで人気なのだそうだ。
それにそもそもネパールで高品質なコーヒー豆が栽培されているということすら私は知らなかった。このお店はそうしたネパールの高品質な豆を国内のみならず世界中にプロモーションすることを目指しているとHPにもあった。
上の写真のようにコーヒーも丁寧にドリップされて提供される。海外でこうしたドリップ方式でコーヒーを飲めるというのはほとんどない。ヨーロッパ圏ではほとんどエスプレッソであるし、インドではチャイのように必ずミルクが入って来る。ブラックではとてもじゃないが飲めない味だ。(ミルクが入ってもインスタントの苦い味がする)
しかもこのコーヒーが本当に美味しかったのである!正直、泣きそうになった。ネパールでこんなにおいしいコーヒーが飲めるのかと私はぐっと来てしまったのである。インドで疲れていた私の体にコーヒーが染み渡った。
さて、話は少し反れてしまったがこうして私はルンビニーに戻って来た。ここから再び陸路でインドに入国し次の目的地クシナガラを目指す。
さあ、ここからインド仏跡巡りの再開だ。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
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