山﨑努『俳優のノート』あらすじと感想~リア王と向き合い続けた壮絶な演劇日記!作品への深い愛、ストイックさに驚愕!
山﨑努『俳優のノート』概要と感想~リア王と向き合い続けた山﨑努さんの壮絶な演劇日記!作品への深い愛、ストイックさに驚愕!
今回ご紹介するのは2013年に文藝春秋より発行された山﨑努著『俳優のノート』です。
早速この本について見ていきましょう。
戯曲『リア王』を演ずるにあたり、山崎努が綴ったノートは八冊にも及ぶ。演技とは?死とは?血縁とは?身につけた技術に甘んじることなく、思索を深める日々。その果てに結実する、独創的な演劇論。いつしか我が身に流れ出す、リアの血潮―。凄烈なプロフェッショナル魂が万人の胸を打つ、日記文学の傑作。黒澤明、伊丹十三、岸田今日子ら、多彩な交遊とともに綴られる迫真の記録。
Amazon商品紹介ページより
私がこの作品を手に取ったのはシェイクスピアの翻訳で有名な松岡和子さんの『深読みシェイクスピア』がきっかけでした。
この本を読み、超一流の役者さんたちの凄まじさに私は驚きました。私は以前から役者さんに対する憧れ、尊敬の念があったのですがこの本を読んでますますその思いが強くなりました。
そしてこの本の中で山﨑努さんの『リア王』に関するエピソードが書かれていて、そこで紹介されていたのが本書『俳優のノート』だったのです。
山﨑努さんといえば、私の中では映画『おくりびと』のイメージが強烈にあります。
『おくりびと』は私にとって最も心を動かされた映画のひとつです。私も僧侶として「お見送り」に携わる仕事をして生きています。そんな私にとって「死者、そして遺された人とどう向き合うか」ということを問いかけるこの映画は私の原点のひとつとなっています。
この映画の山﨑努さんの演技が忘れられません。
プロフェッショナルとして淡々と仕事をこなすベテラン納棺師。特に仕事後、遺族からもらった食べ物を車内で食べるシーン。この場面が私の中で最も心に刻まれたシーンです。食べる姿ひとつにこの納棺師の生き様が込められているように感じられたのです。私はその姿を一生忘れることはできないでしょう。私の僧侶としての道に大きな光を投げかけてくれたのが山﨑努さんの姿だったのです。
そんな山﨑努さんの役者としての生き様、演技への向き合い方を知れるのが本書『俳優のノート』になります。
この本は日記形式で語られていて、『リア王』の公演に向けて奮闘する山﨑努さんの日々を知ることができます。まるでドキュメンタリー番組を観ているかのような臨場感があります。
山﨑さんがいかに『リア王』を深く理解しようとしていたのか、その日々の思索、演技への追求は恐るべきものがあります。まさに求道者。
『リア王』への役作りだけの話ではなくもはや「人生とは何か」という問いまで深く掘り下げられていきます。
その中でも特に印象に残った箇所をここでいくつか紹介しましょう。
この劇を自身の問題として追求すること。
四十年も俳優業をやっているのだから、笑わせたり泣かせたりすることはもう充分に出来るはずだ。どのキーを押してどんな音を出すか、充分に知ったはずだ。肝心なことは、何のために演技をするかなのだ。
演技すること、芝居を作ることは、自分を知るための探索の旅をすることだと思う。役の人物を掘り返すことは、自分の内を掘り返すことでもある。そして、役の人物を見つけ、その人物を生きること。演技を見せるのではなくその人物に滑り込むこと。役を生きることで、自分という始末に負えない化けものの正体を、その一部を発見すること。
効果を狙って安心を得るのではなく、勇気を持って危険な冒険の旅に出て行かなくてはならない。手に入れた獲物はすぐに腐る。習得した表現術はどんどん捨てて行くこと。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P52
我々が生を享けたということは、ある役割りを課せられたということでもあるのだ。自分は選んでこんな容姿その他諸々を得たわけでもない。しかしながら、ともかく、いや、せっかく生まれてきたのだから、ありがたくそれを拝受し、何とか与えられた役割りを全うするよう努力しようと思うわけで、これが積極的に生きるということなのだろう(俳優にとっての「役」も同じことだ。天から降ってきたように、あるいは事故のように、突然、役を与えられるところが俳優業の面白さだ。自分は、自分からこの役を演りたいと申し出たことは一度もない。決められた枠の中でしこしこと生きる工夫をすることが楽しいからだ。決められた役という枠があるから面白いのだ。役を自分で選んでしまったら、その面白さは味わえない)。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P87
まさに人生論。演技を究極まで追求し、ストイックに向き合い続ける山﨑さんだからこその言葉。これ以上ここで私が何を言う必要があるでしょうか。
そして演劇に関しても次のような言葉が印象に残っています。
さらけ出すこと。内臓までさらけ出すこと。骨の髄まで見せる覚悟をすること。だが力んではだめだ。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P258
登場人物に自分の身体を貸すというイリュージョンを持ったのは一人芝居『ダミアン神父』(初演)の初日幕開き前のことだった。
開演の一分前、突然猛烈な恐怖に襲われた。これから二時間、自分一人で芝居を背負わなければならない。どんな事故が起きても助けてくれる人は誰もいないのだ。相棒のテリーは客席に行ってしまった。足ががくがくする。最初のせりふが思い出せない。幕開き三十秒前、演出補の宮ちゃん(宮永雄平氏)と握手し、暗闇の中、袖幕の後ろにスタンバイする。緊張した美由(アシスタント)の震えるような深呼吸が微かに聞える。もうだめだ、公演は中止だ。パニック。十秒前、突然閃いた。これは百年前に死んだダミアン神父の話なのだ。ダミアンが喋るのだ。お喋りのダミアンがまだ喋り足りなくて今ここに降りてきて喋りたがっているのだ。―よし、おまえに身体を貸そう。勝手に何でも喋ってくれ。パニックはぴたりと治まった。照明が入り、自分はうきうきした気分で舞台に出た。
不思議な経験だった。パニック状態の中の苦しまぎれの対応だったのかもしれない。しかし役の人物に自分の身体を貸すというイリュージョンが生まれたことは実に刺激的だった。貴重な経験として今でも大切にしている。
あのパニックはダミアンの悪戯だったのだろう。ダミアンは陽気で悪戯好きなキャラクターだ。公演の間、何か事故が起きると自分とテリーは宙に向って叫んだ。おい、ダミアン、悪戯するな!
要は役の人物の存在を信じることなのだ。リアに自分が滑り込む。リアに身体を貸す。それはどちらでもよい。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P264-265
成功したいか?したい。ならば失敗も覚悟しろ。大成功したければ大失敗も覚悟しろ。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P294
この本を読んでいて驚くのは、リア王を演じる山﨑さんの恐怖の感情です。舞台に立つということの恐さを山﨑さんは率直に記しています。40年以上も俳優としてキャリアを積んだ超一流の役者さんでもこれほど舞台に立つというのは恐いのだということ。いや、経験を積んだからこそ、真剣に向き合っているからこそ見えてくる恐さというものがあるのだということをこの本で知ることになります。
また、本書の終盤では山﨑さんの俳優論、演技論も語られていてこれも興味深かったです。
当初から目指していた演技のダイナミズムが実現しつつあるように思う。感情のアクロバット。日常ではあり得ない感情や意識の飛躍を楽しむのだ。しかし、基本にあるのはあくまでも日常の感情だ。日常の感情を煮つめ、圧縮し拡大したものが舞台上の感情なのである。
従来の所謂新劇の演技といわれる代物は、実に空疎でリアリティがなかった。タモリがよくテレビのコントで新劇俳優の真似をしていたが、あの嘘っぱちのパターン演技は今やもうパロディになってしまうのだ。
何故あんな空疎な演技になってしまったのか。それは、演技を作り上げる材料はあくまで日常にある、ということを忘れてしまったからだと思う。演技の修練は舞台上では出来ないのだ。優れた演技や演出を見て、技術を学ぼうとしても駄目なのだ。その演技は演出はその人独自のものなのである。大切なものは自分の日常にある。
俳優たちは熱心に稽古をし、舞台に立つ。そしてせっせと劇場に通い他人の芝居を見て勉強する。戯曲を持ち歩く。芝居芝居。芝居のことしか頭にない。いつも演劇に接していないと俳優でなくなってしまうという不安があるのだろう。芝居に係わっている時間以外の日常の時間は全て不本意な時間、というわけだ。
映画やテレビの撮影現場で芝居の話ばかりしている新劇俳優たちがよくいる。あなた『桜の園』みた?うんみたみた、あれは演出が一寸甘かったね、俺、今度べケットやろうと思ってるんだよ。あら楽しみ。うんざりしてしまう。こういう連中に限って、テレビの脚本を読み解くことも出来ず、とんちんかんな演技をする。いや、演技ではない。演技もどきだ。映画やテレビの仕事は生活費を稼ぐためで、不本意な時間、ということなのだろう。
撮影現場で芝居の話などやめるがいい。目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。彼らはカメラの前で精彩がない。疲れきっている。不本意な時間が苦痛なのだ。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P332-333
私は最近、シェイクスピア演劇を学ぶ流れで蜷川幸雄さんの本を読むことになりました。その蜷川さんが語ることとここで山﨑さんが語ることが重なるように私には思えました。
蜷川さんも俳優に自分をさらけ出し、単なる口先だけの演技だけでなくもっと先のことを厳しく要求した演出家でした。頭でっかちで言葉、言葉、言葉になった演劇人に厳しい言葉を投げかけています。山﨑さんが蜷川さんをどう思うかはこの本で書かれていませんので私には実際のところはわかりませんが、演劇をとことん追求した2人の言葉に私はやはり「超一流の職人の共通点」と言えるようなものを感じたのでありました。
また、最後の「撮影現場で芝居の話などやめるがいい。目の前にいる人、今起きている事に興味を持つことだ。面白いことがたくさんあるじゃないか。日常に背を向けてはいけない。彼らはカメラの前で精彩がない。疲れきっている。不本意な時間が苦痛なのだ。」という言葉は私も肝に銘じたいと思います。別の箇所ではこのことをさらに言い換えて、「やはり、人は皆、己れの身の丈にあった感動を持つべきなのだ。読みかじったり聞きかじったりした知識ではなく、自分の日常の中に劇のエキスはある。我々はそのことをもっと信じなければならない。日常を見据えること。(336頁)」と述べています。あぁ、なんと重い言葉か・・・
そして最後に演劇と映像について語られた箇所を紹介したいと思います。これを読んで私は「おっ!」と思わずにはいられませんでした。この箇所は初演直前の稽古中に取られたビデオにまつわるお話です。では見ていきましょう。ここで出て来る「鵜山」はこの舞台の演出家の鵜山仁さんのことです。
きのう丈樹が撮ったビデオを見る。
愕然。全く成立していない。何だこれは!?こんなはずはない!
こんなはずはない。鵜山が見ているのだから。そうだ、これはビデオが悪いのだ。ビデオなんぞに演技が写るもんか!
鵜山に電話するがまだ帰っていない。
十二時、鵜山より電話入る。途中、雪で電車が止り、今タクシーを待っているところだと言う。
午前一時過ぎ鵜山より再び電話、やっと家に着いたという。ビデオのことを話す。鵜山も、ビデオに芝居は写りませんよ、ビデオなんか撮るからいけないんです、と言う。そうだよな、ビデオに芝居が写るわけないよな。寝る。
一月九日金曜日
晴れ。休日。
ビデオに芝居が写ってたまるか。
それでもまた不安になり、夜、女房にビデオを見せる。女房、何が何だかさっぱり分らない、と言う。どうしてこんなことになっちまったんだろう。終日ごろごろして過す。
芝居はビデオには写らない。ビデオに写し込むためにはビデオのための(映像のための)演技をしなければならないのだ。
我々は『ダミアン神父』をビデオ化した時、舞台中継でなく、撮影所のステージを借りて、新たに映像用のドラマ作りをした。演技も変えて。
文藝春秋、山﨑努『俳優のノート』P280ー281
この舞台の初演は1998年ということで、当時はDVDですらなくビデオの状態。しかもカメラや音響の質も今とはとてつもなく違うことでしょう。ですが、だとしても芝居がまったく成立しなくなるほど映っていないというのは衝撃ですよね。
実は私は今蜷川幸雄さん演出の「彩の国シェイクスピア・シリーズ」の舞台DVDを観ているのですが、この山﨑さんの言葉を聞いてドキッとするものがありました。
今私が見ているDVDも、その本来の魅力が全く映っていないのではないか。もしそうだとしたら・・・
いや、でも正直、私にはそうとは思えません。このDVDでの観劇もものすごく楽しく観させて頂いてます。全くわからないとかそういうことはありません。素晴らしいシェイクスピア舞台をこのDVDで楽しんでいます。
去年観劇した『ヘンリー八世』もDVD化されていたので早速私も観ています。生で観た時の感動を思い出しながらこのDVDを観たのでありました。
たしかに生で観た衝撃と比べれば、テレビ画面上での体験は違ったものになってしまいます。やはり演劇は生で観てこそというのは本当にそうだなと思います。演劇に関わらず音楽にしろ何にせよ全てそうだと思います。
ただ、山﨑さんの舞台が全く成立しないほど映らなかったというエピソードは演劇の何たるかというものをあまりに強烈に示した一件だったのではないかと思います。
たしかに私も蜷川さん演出のシェイクスピアを一度でも生で観れていたらなあと思わずにはいられません。映像ですらこんなにも感動したなら実際に観劇したらどんなことになっていたか。
やはり「自分の身を運んで全身で感じる」という営みは人間にとって大きな意味があるのだということを感じたのでありました。
さて、ここまで長々とこの本についてお話してきましたが、この本は名著中の名著です。俳優という職業とはいかなるものなのか、そして俳優という一つの仕事の枠組みを超えてあらゆる職業におけるプロフェッショナリズムというものも考えさせられる作品です。超一流の人というのはこういう生き方をしているのかと圧倒される一冊です。
私はシェイクスピアとの関わりからこの本を手に取りました。そしてこの本では『リア王』と真摯に向き合った山﨑さんの姿を知ることができました。山﨑さんの『リア王』理解の深さには驚くしかありません。単に頭で考えて理論を組み立てるのではなく、生活すべてをかけて全身でリア王にぶつかる!そうして生まれてきた深い思索がこの本で語られます。これには驚くしかありません。シェイクスピアを学ぶ上でも非常にありがたい作品でした。
これはぜひぜひおすすめしたい名著です。学校の教科書にしてほしいくらいです。仕事をするとはどういうことか。生きるとは何か。そういうところまで深めていける素晴らしい作品です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「山﨑努『俳優のノート』~リア王と向き合い続けた山﨑努さんの壮絶な演劇日記!作品への深い愛、ストイックさに驚愕!」でした。
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