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(27)いざトルストイも歩いたコーカサス山脈へ!雄大な軍用道路に圧倒される!

目次

【ジョージア旅行記】(27)いざコーカサス山脈へ!雄大な軍用道路に圧倒される!

アルメニア滞在を終えトビリシに戻ってきた私は1日の休息の後、いよいよこの旅の最大の目的地コーカサス山脈へと出発した。

ジョージア北部にあるコーカサス山脈。この山を堪能するにはステパンツミンダ、通称カズベキという町が拠点になる。

トビリシからはおよそ3時間半の道のりだ。

高速道路でひたすら北上。そしてある地点からは軍用道路という道を行くことになる。

ここでその軍用道路について少しお話ししたい。

ジョージアの軍用道路

ジョージア軍用道路は、1799年に帝政ロシア軍が古来の街道を軍用車用に整備した道路で、大コーカサス山脈を越えてロシアのウラジカフカス(「コーカサスを征服せよ」という意味)とトビリシの約200kmを結んでいる。ときに貿易の道として、またときに侵略者の道として、地域の歴史に重要な役割を果たしてきた。同時に風光明媚なことでも知られ、プーシキンやレールモントフといったロシアの詩人たちを魅了してきた。

そんな軍用道路も、今はすっかり観光道路となって世界各国の観光客を魅了している。カズべギまで全行程が舗装され、道中も快適だ。途中のグダウリや終点のカズベギにはホテルやゲストハウスも多く、泊まりがけで行ってもいいだろう。

ちなみにカズべギの町の名は、近年革命前の「ステパンツミンダ」に戻されたが、いまだにカズベキと呼ばれるほうが一般的なので、ここでもそのようにする。

ダイヤモンド・ビッグ社『地球の歩き方A31 ロシア ウクライナ ベラルーシ コーカサスの国々 2018~2019年版』P422

なんと、トルストイやプーシキンが歩いた行程が今や人気の観光名所となっているのだ!コーカサス山脈を見たい私にとってもこれはありがたいことである。

トルストイが訪れた1850年代にはすでにロシアとカフカース(コーカサス山脈一体の地域)は戦争状態だった。そしてその時から続く歴史は現代のチェチェン戦争とも繋がってくる。ロシア帝国、ソ連、現代ロシアという歴史の流れを知る上でもカフカースの歴史を知ることは大きな意味がある。

トルストイが訪れたカフカースを知るためにもその歴史をここで振り返ってみたい。

カフカース問題

チェチェン戦争について説明するためには、カフカース全体の状況について説明しなければならず、そのためにはカフカースの歴史から説き起こさなければならない。それはとても私の手には負えないので、最近出た本『カフカース』(木村崇ほか編、彩流社、ニ〇〇六年)から引用させてもらうことにしよう。

「カフカースのを歴史についての文献をひもとけば、そこにはいつも巨大な国家が顔を覗かせる。古くはアケメネス朝、ローマ帝国、さらにセルジューク朝、モンゴル帝国、ティムール朝、サファヴィー朝、ロシア帝国、そして二〇世紀にはソヴィエト連邦。

地理的に東のカスピ海、西の黒海にはさまれたこの地域は、南北をみれば北ユーラシアと中東を結ぶ通路であり、また東西を見れば、二つの海を船で運ばれる物資の通り道であった。

さらに、山がちな地形と複雑な住民構成は、この地にまとまった強い権力を生み出すことを妨げ、常に小国分立状態をもたらしてきた。地政学的にも通商上も重要であり、天然資源や人的資源も豊富で、しかも地元の強力な国家の存在しないこの地域に、先に挙げたような巨大な国々が支配を及ぼそうとしたのも当然の成り行きだった。そのためカフカースは絶えず周辺の大国の進出を受け、しばしば複数の大国の勢力争いの場となった」(この本は数人の共著。引用部分は〔一ハぺージ〕の筆者は黛秋津)。
※一部改行した

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P145

カフカースが歴史的に大国に狙われる理由はこういうところにあったのだ。

そして次の箇所ではそんなカフカースを狙うロシアの動きが語られる。

ロシアのカフカース進出

Wikipediaより

ロシアのカフカース進出は十六世紀にさかのぼる。十六世紀にモスクワを盟主として中央集権を成立させたロシアはまもなく、かつてのモンゴル帝国に勝るとも劣らないユーラシア大帝国に発展し、海への出口として、黒海とカスピ海の間にある絶好の地、カフカースの制圧に乗り出した。

最初はドン川、ヴォルガ川下流にすでに住みついていて、元来は反政府的だったコサック(カザキ)の力を利用した。十七世紀初頭の一六〇四年に、帝国の正規軍も最初のカフカース遠征を行ったが失敗に終わった。カフカースの住民の抵抗ばかりでなく、トルコ、ぺルシャなどの大国の勢力も排除しなければならず、容易なことではなかったのだ。

その困難さを覚悟の上で、本格的にカフカース攻略をはじめたのはピョートル大帝だった。一七二〇年、かれもやはりこの地域のコサックを組織化して、ロシア帝国のカフカース進出のために利用することにし、その拠点として五つのスタニーツァを構成した。

スタニーツァは露和辞典などでは「コサック村」と訳されているが、分散していたいくつものコサック居住地をまとめた総合組織で、大きなものは人口数万にもおよんでいた。この結果、一七二二年には、チェチェンの東に隣接するダゲスタン沿岸全体を占領するのに成功した。

だが、ピョートル大帝死後ロシアの攻勢は弱まり、ダゲスタンはふたたびぺルシャに奪還された。こうして、カフカースを舞台に、ロシア帝国と少数民族、そしてその背後の大国との果てしない戦争がつづくことになる。

ロシアはその後ふたたび攻撃を強化し、一八〇一~一〇年にグルジア、〇三~一三年にアゼルバイジャンを併合することに成功した。カフカースの多くの少数民族もロシアに帰順したり、生き残りのために妥協したりした。
※一部改行した

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P146

カフカースとロシア帝国の本格的な戦争の始まりは1720年のピョートル大帝にあった。

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ロシア帝国の西欧化を推進し、サンクトペテルブルクをゼロから作り上げたピョートル大帝。

彼の視線は西側諸国だけを向いているかと思いきや、東方の領土拡大も抜け目なく狙っていたのだった。

チェチェン問題

このような状況のなかにあって、ダゲスタン族、チェチェン族は頑強に抵抗し、チェチェンでは一七八五~八七年にシェイフ・マンスール(本名ウシュルマ)に率いられる組織的抵抗が起こった。これが十九世紀の抵抗のバックボーンになったミュリディズムの先駆である。

ミュリディズムというのはチェチェン人、ダゲスタン人など、カフカース山岳諸民族中に広まったイスラム神秘主義の一派である。古典的なスーフィズムとむすびついているが、スーフィズムが人間の内面に訴えるのに対して、ミュリデイズムは外向的、政治的であり、キリスト教徒への服従を忌みきらい、キリスト教徒との戦いを「聖戦ジハード」とみなす頑強な思想である。

一九世紀初頭、ナポレオン戦争終了後、ロシアはチェチェン、ダゲスタンに対する本格的攻撃を決意し、一八一六年アレクセイ・エルモーロフをカフカース独立兵団司令官に任命した。

カフカースの戦争は数世紀にわたってつづいているが、とくにこの一八一七~六四年の時期が数世紀にわたる抗争の山場の一つで、狭義の「カフカース戦争」はこの時期を指す。

グローズナヤ(脅威の)、ヴネザープナヤ(急襲の)、ブールナヤ(嵐の)など、穏やかでない名前の拠点要塞が構築されたのもこの時期で、現在のチェチェンの首都グローズヌイはグローズナヤ要塞の名残である。「脅威市」という露骨な名前の都市は世界でもめずらしいだろう。

また、トルストイの作品『森林伐採』の題名にもなった森林伐採作戦もこの時期にはじまった。森の木を切りはらって見通しをよくし、敵の奇襲を防ぐこと、軍隊の通過を容易にすることなどがその目的だったが、これが生活環境を破壊し、住民を山中に追いやった。べトナム戦争の枯葉作戦を思い起こさせる。

このカフカース戦争のチェチェン側の指導者(イマム)はカジ・ムラ(ハジ・マホメド)からガムザト・べクへ代わったが、その後を継いだシャミールの時代(三四~五九)に抵抗は最高潮に達した。

一方、ロシアも攻勢を強め、ヴォロンツォフ将軍を司令官に任命して、ついに五九年シャミールを降伏させ、チェチェンをロシアの領土にした。

しかし、これでチェチェン族の抵抗が終わったわけではない。帝政ロシアからソ連邦へ、ソ連邦から資本主義国家へとロシアの政体は大きく変わっても、ロシアに対するチェチェンの抵抗はおさまらず、当然チェチェンに対するロシアの圧力政策も延々とつづき、十九世紀末にチェチェンに油田が発見され、一八九三年に採油作業が開始されて、その利権をめぐる争いが民族闘争をますます激しく複雑なものにした。
※一部改行した

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P147-148

「カフカースの戦争は数世紀にわたってつづいているが、とくにこの一八一七~六四年の時期が数世紀にわたる抗争の山場の一つで、狭義の「カフカース戦争」はこの時期を指す。」

トルストイがカフカースを訪れたのはまさにこの時期だった。

ソ連・現代ロシアとチェチェン

第二次世界大戦たけなわの一九四二年には、スターリンがチェチェン族、ダゲスタン族の反政府活動を封じるため、約五十万人をシベリアへ強制移住させ、そのうちの多数を死なせるという悲劇が起こった。

ぺレストロイカ後、全チェチェン協議会はソ連邦からの離脱独立を満場一致で採択。ゴルバチョフ失脚後も、チェチェンはその方向を推し進め、ソ連邦離脱を国民投票によって採択し、独立チェチェン国初代大統領にドゥダエフ将軍を選出した。

しかし、エリツィン大統領はこれを認めず、九四年にはチェチェンに軍隊を送り、独立運動を弾圧した。これが第一次チェチェン紛争である。

翌年にはロシア軍がチェチェンの首都グローズヌイを制圧。エリツィンは勝利による休戦を宣言し、軍の撤退をはじめた。

その後、チェチェン側の攻撃はテロ化し、住宅、商店の爆破、特定人物の狙撃、一般市民、子供の誘拐などが頻発した。

九九年十月エリツィンは「テロリズム撲滅のため」にふたたび軍をチェチェンに派遣し、第二次チェチェン紛争がはじまった。その直後大統領に就任したプーチンも前任者エリツィンの政策を継承し、国民の大半もこれを支持していた。

プーチンの支持率が高かった理由の一つは、チェチェンに対するかれの強硬姿勢にあった。今後もロシアの対チェチェン政策が容易に変わるとは考えられない。この長期、複雑、悲惨な抗争について多少とも具体的に述べれば、数冊の本になる。

トルストイ以外にも、グリボエードフ、プーシキン、レールモントフ、マルリンスキー(べストゥージェフ)、チェルヌイシェフスキーなど、チェチェンにかかわったロシア作家は多く、「ロシア文学とチェチェン」というテーマでも優に一冊の本になってしまう。
※一部改行した

第三文明社、藤沼貴著『トルストイ』P148-149

ロシア帝国とチェチェンの戦争は現代にもつながっている。

特にプーチン政権によるチェチェン政策はウクライナ侵攻を考える上でも非常に重要なものとなっている。

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プーチン大統領の外交戦略についてはこの本でかなり詳しく語られているが、今回トルストイというロシア文学の観点から見るカフカース、チェチェンというのもまた興味深い問題だった。

こうした複雑な時代背景の下トルストイはカフカースへ向かったのだ。そしてそこでトルストイは作家人生の原点とも言えるような体験をするのである。

そのカフカースに私もこれから向かうのだ。

アナヌリの美しき湖

トビリシから走り始めて1時間ほどでアナヌリという場所に到着する。

ここは美しき湖で有名でカズベキに向かう観光バスのほとんどがここに立ち寄る。

湖のほとりに立つ教会も素晴らしい。

曇天ではあったが湖面に映る木々の緑が美しかった。

軍用道路も本番。いざコーカサス山脈へ

ここから先はいよいよ景色も変わってくる。

これまでも山の中を走っていたのだが、そのスケールが急に大きくなり始めた。

自分が走っている道の目の前から山肌が一気に急上昇し、壁となって立ちはだかってくるかのよう。

木々がない分そのごつごつした無骨さを感じる。景色が強い。

ロシア・グルジア友好記念碑

そして間もなく到着したのがロシア・グルジア友好記念碑というモニュメントだ。

これは1983年にソ連がジョージアとの友好200年を記念して建造したモニュメント。

軍用道路はカフカース、ジョージア全体を征服するために作られた道路だ。しかも当時のソ連とジョージアの関係は対等な友好と言えるようなものだったろうか。ジョージア征服の象徴たる軍用道路にあえて「友好記念碑」を建てる。こうした感覚がそもそもソ連的な発想なのかもしれない。

何はともあれ、現在はこうして観光地として利用されている。

それにしてもとんでもない所に建てられている。

高所恐怖症の私にとっては冷や冷やものである。

ここまで来るといよいよ自分がカフカースに来たのだという気持ちが強くなってくる。

トルストイはこういうところを歩いていたのだ。

コーカサス山脈の拠点カズベキへ

山と山のちょうど谷間になっている場所に道路が通されている。

おぉ~!これはまさしく写真で見た景色と一緒ではないだろうか!

山と山の狭間にできたこの空間。山越えをするならここしかないという絶妙なルートだったのだろう。

それにしてもすべてがでかい!

そう感じられるのも山そのものだけではなくこの道路から両側へ広がる平らな地面があるからこそだろう。これは珍しい光景だ。

正面にコーカサス山脈の名峰カズベキ山が見えてきた。赤い山肌に雪化粧をしているその姿から、カズベキの花嫁としてこの山は親しまれているそう。

さあいよいよコーカサス山脈の拠点カズベキに近づいてきた。

この町の正式名称はステパンツミンダというのだが、旧名のカズベキという名称の方が今でも親しまれているそうなので私もこれからカズベキと呼ぶことにする。

そしてコーカサス山脈もトルストイがかつて訪れた時の名称、カフカースとこれからは呼んでいきたい。

カズベキの町に到着。正面のまさに壁のような山の麓にこの町は広がっている。現在ここはジョージアの山岳リゾートの中心で、コロナ前は多くの人で賑わっていたそうだ。

町の中心部にはちょっとしたコンビニのような店や飲食店もあり、滞在には不便しなさそうだ。

そしてこの町からは目の前にカズベキ山を眺めることができる。何て素晴らしい立地だろう。私の滞在中は運よく天候に恵まれ、毎日この美しき名峰を楽しむことができた。雲がかかったらかかったでそれも味があっていいのだがやはりその姿を見たいのが人情である。ここまで毎日この山を見れるのは珍しいことだったらしい。カズベキ山は恥ずかしがりやでよく顔を隠すんですとガイドは笑っていた。

そして右の写真の左上に注目してほしい。山の上にぽつんと建物が立っているのが見えるだろうか。

この建物こそ「限りなく天国に近い教会」として有名なツミンダ・サメバ教会なのだ。

私が次に向かうのはまさにそこ。

この麓の町からあの山の上を上ろうというのである。実にシンプルこの上ない。お遍路的感覚だ。「水曜どうでしょう」ファンならばきっとくすっとされるに違いない。

次の記事ではこのツミンダ・サメバ教会と知る人ぞ知る絶景の修道院、エリア修道院をご紹介していく。

続く

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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