MENU

(48)イギリスで上流階級となったエンゲルスの優雅な社交生活とは

目次

イギリスで上流階級となったエンゲルスの優雅な社交生活とは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(48)

あわせて読みたい
年表で見るマルクスとエンゲルスの生涯~二人の波乱万丈の人生と共同事業とは これより後、マルクスとエンゲルスについての伝記をベースに彼らの人生を見ていくことになりますが、この記事ではその生涯をまずは年表でざっくりと見ていきたいと思います。 マルクスとエンゲルスは分けて語られることも多いですが、彼らの伝記を読んで感じたのは、二人の人生がいかに重なり合っているかということでした。 ですので、二人の辿った生涯を別々のものとして見るのではなく、この記事では一つの年表で記していきたいと思います。

上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。

これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。

あわせて読みたい
トリストラム・ハント『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』あらすじと感想~マルクスを支えた天才... この伝記はマルクスやエンゲルスを過度に讃美したり、逆に攻撃するような立場を取りません。そのような過度なイデオロギー偏向とは距離を取り、あくまで史実をもとに書かれています。 そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。 マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。マルクスの伝記に加えてこの本を読むことをぜひおすすめしたいです。

この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。

当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。

そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。

この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。

一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。

その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。

あわせて読みたい
マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために 私はマルクス主義者ではありません。 ですが、マルクスを学ぶことは宗教や人間を学ぶ上で非常に重要な意味があると考えています。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 マルクス思想はいかにして出来上がっていったのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶのにこれから紹介する伝記は大きな助けになってくれます。

では、早速始めていきましょう。

乗馬、狩猟を愛し、貴族ら上流階級が集う狩猟クラブに出入りするエンゲルス

ヴィクトリア朝時代のイギリスで最大規模の狩猟大会であるチェシャー・ハウンズは、「貴族的なその州の一級の紳士たちによるもので」、その起源は、ジョン・スミス=バリー閣下が一七六三年にべルヴォアとミルトンの血統の猟犬を一群れ集めた時代までさかのぼるものだった。

そして、『ザ・フィールド』誌によれば、イングランドでも有数の狩猟のしやすい環境で、彼らは集まっていた。「チェシャー州には公園や大邸宅が多数あり、貴族は大昔から最も熱心な狐狩りの擁護者だった。実際、そうした感情が上流階級のあいだでこれほど万遍なく広まっている州はほかにはない」。(中略)

チェシャー・ハウンズの狩猟大会は十一月から四月までのシーズン中、週にニ、三度は州内を縦横に駆け巡っていた。しかし、これは安い趣味ではなかった。

チェシャー・ハント・カヴァート基金、と呼ばれていた団体の会費は年間一〇ポンドだが、厩舎費用は年間七〇ポンドを上回る可能性があった(現在の貨幣価値に換算すると、年間八〇〇〇ポンド近くになる)。さらによい狩猟馬の価格が加算される。

「土曜日に馬商人のマリーに会って、何か手頃なものがないか聞きました……七〇ポンドくらいで一四ストーン〔約九〇キロ〕を乗せて猟犬とともに走れるものです。彼には心当たりがあるようでした」と、ジェームズ・ウッド・ローマクスからエンゲルスに宛てたメモは始まっている。この人物が彼の馬の代理人だったようだ。

ありがたいことに、狩猟のような世間体のよい活動の費用を賄うこととなると、彼はいつでも父親の資金に頼ることができた。「僕へのクリスマス・プレゼントとして親父さんが馬を買う金をくれ、よい出物があったので、先週それを購入した」と、エンゲルスは一八五七年にマルクスに書いた。「でも、君やご家族がロンドンで不運な目に遭っているのに、僕が馬をもちつづけるべきなのか非常に悩ましい」
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P267-268

厩舎の費用70ポンドは現代の貨幣価値に換算すると8000ポンドとありますが、これを円換算すると120万円ほどになります。(※この本が出版された2009年のポンド終値150円を基準。この時代のポンドの価値については諸説あり、他の説では1860年代の1ポンドは6,5万円~8万円で推移したというのもあります。)

しかも、これはあくまで厩舎費のみであり、ここに年会費や馬そのものの金額も加わります。上の引用の中で出てきた馬は70ポンドです。手頃な馬ですらこうですからいい馬を買ったらもっとかかります。

となるとかなりの金額がこの狩猟クラブに費やされていたことでしょう。

このヴィクトリア朝の金銭事情については著者は次のような補足も付け加えています。

当時の背景をいくらか説明すると、社会評論家のダドリー・バクスターが、一八六一年の国勢調査を利用して、ヴィクトリア朝中期のイングランドの収入に関する階級分析を行なっている。中流階級に入り込むには、課税対象となる一〇〇ポンド以上の収入を稼ぐことであり、聖職者、陸軍士官、医師、公務員、法廷弁護士などは通常、二五〇ポンドから三五〇ポンドの給与で働いていた。裕福な中流の上の階級に加わるには、一〇〇〇ポンドから五〇〇〇ポンドの年収を稼げなければならなかった、とバクスターは考えた。エンゲルスの裕福さとは対照的に、ヴィクトリア朝時代の別の偉大な作家のアンソニー・トロロープは、郵便局員として日中働いて稼ぐ年収一四〇ポンドで、やりくりしなければならなかった。

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P251

聖職者、陸軍士官、医師、公務員、法廷弁護士などで250~350ポンド、郵便局員で140ポンドの年収と考えると、エンゲルスの狩猟クラブへの出費がどれだけ大きなものかが想像できると思います。

そして何より驚いたのは本文にあったこの箇所です。

『ありがたいことに、狩猟のような世間体のよい活動の費用を賄うこととなると、彼はいつでも父親の資金に頼ることができた。「僕へのクリスマス・プレゼントとして親父さんが馬を買う金をくれ、よい出物があったので、先週それを購入した」』

エンゲルスは1857年、36歳の年に父からクリスマスプレゼントとして馬をもらっていました。しかもこうした出費に関しては「いつでも父の資金に頼ることができた」というのです。

エンゲルスは綿工場経営者の御曹司として生まれましたが、これまで散々ブルジョワを罵り、革命家となって逮捕状まで出されるまでになっていました。

ですが今や「世間体のよい活動のために」経営者であるお父様にお金を融通してもらうようになっていたのです。

もともと革命活動をしていた1840年代も親の仕送りで生活していた彼でしたが、一層そうした矛盾に拍車がかかってきたようです。彼はこうして潤沢な資金を得、自身は優雅に暮らしながらマルクスに送金し、マルクスは『資本論』を書き続けていたのでありました。

狩猟にはまるエンゲルス

誰が最初にエンゲルスをチェシャー・ハウンズに誘ったのかは不明だが、彼はまもなくイングランドでも最高位の貴族たちとともに狩猟場の常連となった。

マルクスの娘婿のポール・ラファルグはこう記憶している。「彼は優れた乗り手で、狐狩り用に自分の狩猟馬をもっていた。昔ながらの封建的習慣に従って、近隣の郷紳や貴族が地区内のすべての馬の乗り手に招待状を送ると、エンゲルスはかならず参加した」。

エンゲルスは自分の趣味を、革命のための戦いを学ぶ「何にも勝る場」だとして、正当化しようと試みた。それどころか、イギリスの騎兵隊のわずかな取り柄の一つは、アカギツネを追いかけてきたその背景にあると考えた。

「その大半は熱心な狩猟者なので、本能的に地の利を即座に見てとる能力をもっており、狩猟の訓練が間違いなくそれを与えている」と、彼はイギリスの軍事戦略に関する批評に書いた。だがいかに取り繕おうと、エンゲルスを明らかに興奮させたのは、追跡のスリルだった。

そして彼が狩猟場にでるのを恐れたことは一度もなかった。「彼はいつも溝や生け垣などの障害物を先陣を切って乗り越える一団のなかにいた」と、ラファルグは述べている。「言っておくが、僕は昨日、五フィート数インチはある生け垣と土手の上を馬で飛び越えたんだ。これまでやったなかで最高の跳躍だ」と、エンゲルスは大英博物館で腐りながら机に向かっているマルクスに自慢した。

悪路つづきでも、エンゲルスは獲物を追って四五キロの遠乗りを嬉々としてこなした。それどころか、年月とともに彼は明らかに血への渇望のようなものを覚えるようになった。「昨日は、誘惑に負けてグレイハウンドを使った野ウサギ狩りに参加し、七時間、馬に乗りつづけた。全体として、非常に有意義だったが仕事は手つかずとなった」
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P267-268

「エンゲルスは自分の趣味を、革命のための戦いを学ぶ「何にも勝る場」だとして、正当化しようと試みた。」

「だがいかに取り繕おうと、エンゲルスを明らかに興奮させたのは、追跡のスリルだった。」

エンゲルスはシンプルに狩猟が好きだったのですね。それが上のエピソードからも感じられます。

芸術愛好家エンゲルスの社交

エンゲルスのその他の趣味は、それにくらべてずっと穏やかなものだった。「ここでは誰もがいまや芸術愛好家になっており、話題はすべて展覧会の絵画のことだ」と、彼は一八五七年の夏にトラフォード・パークで話題の重要美術品展を訪れ、ティツィアーノの男の肖像(アリオスト)に惚れ込んだあとマルクスに書いた。「できれば君も、この夏、奥さんと一緒にこっちへきて、これを見るべきだ」。

画廊にでかけるのは、マンチェスターの有力な貿易商としてのエンゲルスの暮らしによく合っていた。洗練された上流ブルジョワの世界であり、夕食会、クラブ、慈善事業の夕べ、それに彼のソーンクリフ・グローブやドーヴァー通りの住まいに近い、社会的地位のあるドイツ人地区に的を絞った人脈づくりに勤しむ暮らしだった。

マンチェスターは一七八〇年代からプロイセン商人のメッカとなっており、一八七〇年には市内で一五〇社ほどの会社が営業しており、ドイツ生まれの住民が一〇〇〇人以上いた。この集団で最も上流の人びとは夜ごとにオックスフォード・ロード沿いのシラー協会に集まっていた。同協会は一八五九年に行なわれたフリードリヒ・シラーの生誕一〇〇年の記念祭を起源とし、その目的はドイツ人社会に社交の場と祖国からの少しばかりの文化的安らぎを与えることだった。

一八六〇年代なかばには、同協会は三〇〇人の会員と四〇〇〇冊の蔵書、ボウリング場にビリヤード室、体育館、多くの蔵書のある読書室それに男声聖歌隊コンサートから連続公開講座にアマチュア劇の上演まで、きわめて忙しい公演日程を誇るようになった。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P270-271

あれだけ嫌悪していたブルジョワ。そして今もなおブルジョワ打倒のための活動をしているエンゲルス自身がまさしくそのブルジョワそのものという矛盾。

エンゲルスが上流ブルジョワ階級の色々な会に参加していたというだけでも驚きですが、彼のブルジョワ的社交はまだまだこれにとどまりません。

シラー協会会長に就任するエンゲルス。

エンゲルスはまもなくシラー協会の仕事に積極的に加わるようになり、運営組織の一員に選ばれ、最終的には会長にまで就任した。彼は有能な委員会メンバーとなり、役員会にはビールをもち込み、数多くの小委員会の委員長を務め、マンチェスター会員制貸出図書館からの六〇〇〇冊の書籍購入をきちんと監督した。

しかし、翌年、シラー協会が科学の普及家であるカール・フォークトを招待すると、エンゲルスは完全に手を引いた。招待した委員会には知られていなかったが、フォークトはマルクスとエンゲルスの膨大なブラックリストで、ナポレオン支持のスパイ疑惑で要注意人物にされていたためで、エンゲルスはすぐさま辞任した。

幸いにも、エンゲルスには贔屓にする協会がほかにいくつもあった。サミュエル・ムーアとともに、彼はアルバート・クラブの会員にもなっていた。「われらの最も優雅な女王の夫君に因んでふさわしく命名された」クラブである。

その喫煙室―「ここはマンチェスターにあるこの種の部屋では、例外なく、最良の部屋であるとわれわれは信じている」―で有名だった同クラブには、同じくらいすばらしい一連のカード部屋、食事用の個室、それにビリヤード台があった。会員の名簿には、シャウプ、シュライダー、フォン・リンダーロフ、ケーニッヒといった名前があふれており、会員の半数はドイツ人であったことを示している。

さらに、エンゲルスは文芸クラブ、ブレイズノーズ・クラブ、マンチェスター外国図書館、それに王立取引所にまで所属していた。「いまでは君は取引所の会員なのだから、まったく立派になったものだ。おめでとう」と、マルクスは軽い皮肉を交えて書いた。「いつか君がその狼の群れの真っ只中で吠えているのを聞いてみたいものだ」。
※一部改行しました

筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P271-272

シラーといえばドイツを代表する詩人であり、ゲーテの盟友とも知られ、以下の『群盗』という作品やベートーヴェンの『第九』でも歌われる「歓喜に寄せて」などが有名です。

あわせて読みたい
シラー『群盗』あらすじと感想~『カラマーゾフの兄弟』に強烈な影響を与えたシラーの代表作! この作品はなんと、シラーが22歳の年に書かれた作品で、一躍文壇の寵児に躍り出た出世作になります。 そしてこの作品はドストエフスキーが10歳の時、演劇でこの『群盗』を観て生涯忘れえぬ衝撃を受けたとされている作品です。 これは名作です。『カラマーゾフの兄弟』に関心のある人はもちろんですが、そうではない人もシラーのこの作品を読む価値は間違いなくあります。面白い作品です。おすすめです。
あわせて読みたい
矢羽々崇『「歓喜に寄せて」の物語〔改訂版〕』あらすじと感想~年末恒例のベートーヴェンの『第九』の... ベートーヴェンがこの曲を生み出した背景には何があったのか。そして同時代人たちはその時何を思い、どんなことをしていたのか。 これは私にとって非常に興味深いものがありました。また、これほどシラーについて詳しく書かれている本はかなり貴重です。 私も生でベートーヴェンの『第九』を聴きたくなりました。

そしてここまでエンゲルスの生涯を見てきましたが、やはり彼は実務に非常に長け、社交的才能もあり実業界ではかなり優秀な人物でした。だからこそマンチェスターの社交界でも信頼され数々の役職を果たすことになったのでしょう。

矛盾に満ちた奇妙な人物ですが、やはりスケールの大きさと言いますか、魅力的なものがあるなというのはどうしても感じざるを得ません。

『エンゲルスはとかく悪者として描かれることが多く、「マルクス思想を捻じ曲げたのはエンゲルスであり、マルクスは無罪だ」という説の材料にされがちだ』と著者はこの伝記の最初に述べていましたが、まさに私もその指摘には頷いてしまいます。

エンゲルスはたしかに矛盾に満ち、眉をしかめたくなる部分も多々あるのですがやはりこの人物は凄まじいスケールの持ち主です。単にエンゲルスを悪者に仕立て上げてもマルクスの本質は見えてこないでしょう。

哲学やジャーナリズム、実務においても優れた才能を発揮したエンゲルスがいたからこそのマルクスだと思います。マルクスがいかにエンゲルスの思想に拠って『資本論』を書いたかもこの後出てきますし、やはり彼ら二人を分離して考えることはできないと思います。

エンゲルスのブルジョワ社交家としての顔を見れたこの箇所は非常に興味深いものでした。

Amazon商品ページはこちら↓

エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 (単行本)

エンゲルス: マルクスに将軍と呼ばれた男 (単行本)

次の記事はこちら

あわせて読みたい
(49)エンゲルスの愛人メアリー・バーンズの死~エンゲルス・マルクスの友情の最大の危機 1863年のある日、エンゲルスの愛人メアリー・バーンズが急死してしまいます。 急な別れにショックを受けるエンゲルス。 ですがそれに対してマルクスが発した言葉がなんと思いやりのないことか・・・さすがのエンゲルスもこれに大激怒します。 マルクスからすれば正式な結婚もしないで遊び歩いていたエンゲルスがそんなにもメアリー・バーンズを愛していたとは思いも寄らなかったのでしょう。もしこの後で二人の関係性が回復していなかったら『資本論』が世に出ることはなかったかもしれません

前の記事はこちら

あわせて読みたい
(47)1852年『ルイ=ボナパルトのブリュメール十八日』を発表するマルクスとその反響 驚くことに、この作品は今となっては非常に有名ですが、出版直後はほとんど反響がなかったようです。 今から数十年前までバイブルのごとく読まれていた『共産党宣言』ですら、出版直後はほとんど反響がなかったくらいです。この作品があまり広まらなかったのは仕方ないことかもしれません。 ただ、そこから時を経てマルクスが亡くなった後から彼の作品が異様なほど評価されていったというのは注目に価します。生前評価されなかった作家が死後になって巨大な存在になって君臨する。その典型がマルクスと言えるかもしれません。

関連記事

あわせて読みたい
マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える マルクスは宗教を批判しました。 宗教を批判するマルクスの言葉に1人の宗教者として私は何と答えるのか。 これは私にとって大きな課題です。 私はマルクス主義者ではありません。 ですが、 世界中の人をこれだけ動かす魔力がマルクスにはあった。それは事実だと思います。 ではその魔力の源泉は何なのか。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶことは宗教をもっと知ること、いや、人間そのものを知る大きな手掛かりになると私は思います。
あわせて読みたい
(41)労働者の搾取によって得たお金で書かれた『資本論』という気まずい真実 「気まずい真実は、エンゲルスの豊かな収入が、マンチェスターのプロレタリアートの労働力を搾取した直接の結果だったということだ。 彼とマルクスがあれほど細部にわたって非難した諸悪そのものが、彼らの生活様式と哲学に資金を供給していたのだ。」 エンゲルスは父の会社に就職し、そのお金をマルクスに送金していました。労働者を搾取する資本家を攻撃していた二人がまさにそうして生活していたという矛盾が今回読む箇所で語られます。
あわせて読みたい
(42)マルクスは実は貧乏ではなかった?~マルクスのブルジョワ的出費と破滅的な金銭感覚とは。 エンゲルスは父の経営する綿工場に勤めることになり、初任給から300ポンドという高給を取り、後には年収1000ポンドという高所得者となります。これを今日の貨幣価値に換算すると1500万円ほどになります。 そしてマルクスが彼から受けた経済援助はなんと、20年で少なくとも4500万円以上だったと言われています。それでもマルクスが貧困に苦しんでいたのはなぜだったのでしょうか。それをこの記事で見ていきます
あわせて読みたい
(34)エンゲルスの理想が「労働者にはもっと貧しく、どん底にいてほしかった」という現実 今回の記事ではマルクスとエンゲルスの思想において決定的に重要な指摘がなされます マルクス・エンゲルス関連の様々な本を読んできて、私が薄々感じていた違和感をはっきりと言葉にしてくれたのが今回読んでいく箇所になります。 ぜひ読んで頂きたい内容となっています。
あわせて読みたい
(37)マルクスの労働者階級は革命理論のために生み出された存在だった~「革命に必要なのはこれ以上何... 今回の記事で紹介する箇所はマルクス主義を考える上で非常に重要な問題を提起していると思います。 マルクスは何のために共産主義を説いたのか。 本当に貧しい人を救うためだったのか。 なぜマルクスやエンゲルスは自説とは矛盾した行動を取り続けたのか。 こうしたことを考える上でも今回の箇所は私にとっても非常に大きなものになりました。
あわせて読みたい
(68)1895年のエンゲルスの死と莫大な遺産について~最後まで規格外の男だったエンゲルス エンゲルスの遺産はなんと400万ドル、現代の日本円で軽く4億円以上もあったようです。そこにさらに様々な形の資産もあったでしょうから総額で言えばとてつもないものがあったと思われます。そしてそれらのほとんどはマルクス一族に相続されることになりました。 またエンゲルスは本人の希望により死後海洋散骨されることになります。彼のお墓はこの世に存在しないのです。これには私も驚きました。

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

コメント

コメントする

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

目次