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ブッダガヤは誰のもの?ブッダガヤ奪還運動の歴史とダルマパーラの大菩提会

ブッダガヤ
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【インド・スリランカ仏跡紀行】(89)
ブッダガヤは誰のもの?ブッダガヤ奪還運動の歴史とダルマパーラの大菩提会

私はこの旅に出る前にある一冊の本を読んだ。

それが前島訓子著『遺跡から「聖地」へ—グローバル化を生きる仏教聖地』という本だった。

この本に書かれていることはあまりにショッキングである。私達がイメージする仏教聖地ブッダガヤとは全く異なる姿が描かれているのだ。

私たち日本人はインドというとお釈迦様の国、仏教の故郷というイメージで考えてしまいがちだが、インドにおける仏教は13世紀初頭に滅亡したという厳然たる事実がある。

そしてこれまでの記事でも見てきたように、インドの他の仏跡も土に埋もれ忘れ去られていた存在だった。しかも「(68)仏教八大聖地の一つ、サンカシャへ~ブッダの天上からの降臨伝説「三道宝階」の地へ」の記事でもお話ししたように、ほぼ全ての仏跡が何もない農村地帯やジャングルの中にぽつんと存在しているのである。

ブッダ生誕の地ルンビニーも何もない農村地帯であったし、ブッダ死去の地クシナガラもジャングルの中だった。そんな僻地にあった仏跡が発掘され聖地として整備されていくことになる。

だが、このブッダガヤだけは違ったのである。

ブッダガヤだけは仏教滅亡後も街があり続け、ヒンドゥー教徒が多数住む土地として存在し続けたのである。これは数ある仏跡においても特異なことだった。そしてこれが聖地ブッダガヤに重大な問題を引き起こすことになったのである。

では、その問題とはいかなるものだったのだろうか。

これが日本人たる私達にはなかなかピンと来にくい話であるのだが、一言で言うならば次のようになる。

ヒンドゥー教徒の街のど真ん中に忘れ去られた仏教聖地が見つかった場合、それを誰が管理するのか」という問題なのである。

他の仏跡では人もほとんど住まない土地で発掘が進められたためその遺跡はネパールやミャンマーなど世界各国の仏教教団がその管理を任されることになった。

しかしブッダガヤではそうはいかない。ブッダガヤは街であり、すでにそこに多数の人が住んでいたのである。

そんなヒンドゥー教徒の街の中に突如仏教聖地が出現したのである。しかも荒廃していた大塔付近はすでにヒンドゥー教の寺として使われていたし、多くの人の生活の場と化していたのである。こうなった場合どう折り合いを付けるのか、それが問題になったのだ。

さて、一旦状況を整理しよう。

こうしたヒンドゥー教の街ブッダガヤにおいて19世紀後半にイギリスによる統治政策の一環で遺跡の調査が進められ、その中で発見されたのがブッダガヤの大塔付近の遺構や金剛宝座だった。

ブッダガヤの菩提樹と、柵で見えないが金剛宝座が木の下にある

そして19世紀末からスリランカ僧ダルマパーラによってブッダガヤの大菩提寺奪還運動が始まってくる。

アナガーリカ・ダルマパーラ(1864-1933)Wikipediaより

このダルマパーラは私にとっても「おっ」となる人物である。

と言うのも私は昨年スリランカ仏教を学び、実際にスリランカを訪れたからである。このダルマパーラはスリランカ仏教の大物中の大物だ。

当ブログでもスリランカ旅行記「(33)ダルマパーラとシンハラ仏教ナショナリズム~スリランカ近代仏教の大きな流れとは」「(43)ダルマパーラのプロテスタント仏教とは~スリランカの伝統仏教とも異なる新仏教の存在とその影響」の記事でダルマパーラを紹介した。

実はスリランカにおいても実は19世紀になってから仏教遺跡が発見され、新たに聖地が見出されたという歴史がある。それと同じことがインドのブッダガヤにおいても行われていたのだ。

ダルマパーラはブッダガヤの大塔がヒンドゥー教徒の手中にあることに強く反発した。そこで彼は大菩提会を結成し奪還運動を開始したのである。

しかし奪還といっても武力で奪い取るわけにはいかない。というわけでブッダガヤのトップたるマハントと交渉を進めたのだが一向にその成果は上げられないままであった。

それもそのはず、このマハントはブッダガヤ全域を統治するヒンドゥー教寺院の僧院長でもある。このブッダガヤという街はヒンドゥー教寺院の僧院長が元締めとなって行政を取り仕切っていたのだ。当然住民たちの暮らしも全てヒンドゥー教に則ったものになる。そしてブッダガヤ大塔付近も住民がたくさんおり、さらには境内にシヴァ・リンガなども置かれヒンドゥー教寺院としての機能も果たしていたという。

そんなブッダガヤの大塔をいきなり「返せ」と言われても承諾できるはずもない。もはやブッダガヤの人々にとって大塔を含めた一帯は生活の場なのである。もし「返せ」と言われてそれを承諾したら彼らの行き場はどうなるのか。ブッダガヤに住む人々の仕事や秩序はどうなるのだろうか。

さらにマハント側の言い分として、「ブッダはヒンドゥー教のヴィシュヌ神の化身なのだから私達ヒンドゥー教側がここを管理して何が悪い」というものもあった。たしかにこれももっともである。

私はこの反論を読んで唸らざるをえなかった。そして絶望した。

私達はよく「互いの信仰を尊重しましょう」という言葉を耳にする。だが、このダルマパーラとマハントの主張をどう考えたらよいだろうか。ダルマパーラはブッダガヤの大塔は仏教の聖地なのだから仏教徒が管理すべきと言う。それに対しマハントは「ブッダはヴィシュヌの化身なのだからヒンドゥー教の信仰を尊重すべきでないか」と言う。

さあ、どちらの主張が正しいだろうか。

私にはどちらが正しいと決めることはできない。人間には絶対にわかり合えない、分かち合えない境界線がある。なあなあで済ませられない問題がある。そしてこの「かつてあった聖地を取り返す」という要求はイスラエルを連想せずにはいられない・・・。

私は2019年イスラエルのパレスチナ自治区の難民キャンプを訪れた。そしてその時の現地ガイドの言葉が強烈に頭に残っている。彼はこう言った。

「「イスラエル人は『2000年前に我々はここに住んでいた。だからこの土地は我々のものだ』と言って、私達パレスチナの人々を強制的に追いやった。私達だってこの地にずっと住み続けてきたのです。それなのに突然やってきて、武力で我々が住んでいた土地を奪い取っていった。これはおかしいことでしょう。」と。

ちなみにであるが、現在のパレスチナ問題以前においてもエルサレムではこうした管理権を求める争いが何度となく繰り返されている。オーランドー・ファイジズ著『クリミア戦争』ではまさにエルサレムの管理権を巡る争いがクリミア戦争に発展したことが詳細に説かれていた。聖地を巡る争いはやはり根深いものがあるのである。

もちろん、ブッダガヤとイスラエルは違う。その背景も実際の武力行使なども全く異なる。だが、「かつてそこは聖地だったのだから私達のものだ。出ていけ」というのはやはり厳しいものがあるのではないか。

ただ、このブッダガヤに関しては交渉が難航し結局ダルマパーラの運動は頓挫することになる。そして最後は失意のままダルマパーラはその生涯を終えたのである。

大菩提寺のすぐそばに今も残るマハントの僧院。もはや宮殿そのもの。圧倒的な権力を誇っていたことを物語る。

だが、こうした事態がついに動き出す。独立直後からインド政府がブッダガヤ大塔の管理権交渉に積極的に介入するようになったのである。

これはアジアの仏教圏からの強い要請があり、独立間もないインド政府が他国との連携を取るための方策として採用した面もあった。さらにほぼ治外法権の様相を呈していたマハントの勢力を削ぎたいという内政上の狙いもあったと言われている。

こうして政府の介入によって1953年段階でブッダガヤ大塔の管理権がマハントから「ブッダガヤ寺院管理委員会(BTMC)」に移譲されることになったのである。

これによってマハントはブッダガヤにおける絶対的な権限を失い、多くの土地も没収されることになった。インド政府が介入したことでブッダガヤの大塔問題は急展開を迎えたのである。

もちろん、マハントを完全に失脚させるのは得策ではない。政府はある程度の特権は残し、さらに「ブッダガヤ寺院管理委員会(BTMC)」の永久メンバーの一員となることも認めている。だが、いずれにせよブッダガヤの大塔の管理権はヒンドゥー教のものではなく、あくまで仏教側に移ることになったのである。

こうしてブッダガヤはようやく仏教の聖地としての立場が明確なものとなった。

そしてその3年後の1956年、ブッダ生誕2500年を祝うブッダ・ジャヤンティという行事が国を挙げて行われることになった。そこでインド政府は国内外にブッダガヤを大きくアピールしたのである。このブッダ・ジャヤンティに間に合わせるため1953年に強力な介入が行われたのではないだろうか。ちなみにこの国家事業たる式典にはあの中村元先生も招待されている。

そしてこの後もインド政府の介入は続き、大菩提寺付近の開発が進められた。まず、大塔の周囲に塀を設け、一般市民が自由に出入りできないようにした。先ほども述べたように、大塔付近は多くの人達が住む生活の場でもあった。その人々の往来をまず遮断したのである。

そこからさらにインド政府は寺院境内の拡張を進め、巨大公園化する計画を実行に移した。つまり大規模な立ち退きを住民に強制したのである。こうして現地民の生活空間であった大菩提寺周辺が「仏教徒が尊ぶ神聖な聖地」として生まれ変わったのである。つまり、この大菩提寺は20世紀後半に作られた極めて人為的な仏教聖地なのである。

そしてこうした流れと並行して世界各国の仏教教団がブッダガヤに次々とお寺を建てていった。これは各国からの要求もあったのはもちろんだが、インド政府側からの働きかけがあったのも見逃せない。現在のブッダガヤが実に国際色豊かな仏教聖地となっているのはこうした背景があったのである。

では、土地を奪われたヒンドゥー教徒はさぞ仏教を憎んでいるだろうと思うかもしれないが実はそれも一概にはそうとは言えないのである。

むしろブッダガヤではこの大菩提寺の存在によって経済的に潤った人達がかなりの数いるのである。しかもマハントが支配していた頃はカースト制度もかなり強かったので自由に職に就くことも難しかった。しかし政府の介入でマハントの力が弱まったことで、その支配の枠を離れて自分で商売する人が増えたのである。そんな彼らにとって外国人観光客は格好の収入源となったのである。

ここブッダガヤには商魂たくましい人が多い。

ガイドさんは「ここでは買い物は絶対しないでください」と何度も何度も言っていた。別のガイドさんも同じことを言っていたので情報の確度はかなり高いのではないか。しかもこのガイドさんはブッダガヤ出身の方である。地元の人がそう言うなら間違いないだろう。

そういうわけで、現地の人からするとブッダガヤが聖地化したことに対しては全体としてはそこまで悪感情を抱いていないのではないかと思われる。さすがインド人はたくましい。

もちろん、立ち退きを迫られた人に直接話を聞いていないので何とも言えないものもあるが、全体としてはブッダガヤが聖地化したことに対し紛争が起きそうな気配はないということは言えそうである。

さて、これが私が知ったブッダガヤの内情である。私がここでお話ししたのはそのほんの一部分にすぎない。前島訓子著『遺跡から「聖地」へ—グローバル化を生きる仏教聖地』には実に詳しくこのブッダガヤの聖地化について書かれているので興味のある方はぜひ参照して頂きたい。

次の記事ではこうしたブッダガヤの歴史をふまえて私がブッダガヤに感動できなかった理由をお話ししていきたい。

主な参考図書はこちら↓

遺跡から「聖地」へ: グローバル化を生きる仏教聖地

遺跡から「聖地」へ: グローバル化を生きる仏教聖地

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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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