ブッダ火葬の地ランバル塚~ブッダは自身の遺骨についてどう考えていたのだろうか
【インド・スリランカ仏跡紀行】(78)
ブッダ火葬の地ランバル塚~ブッダは自身の遺骨についてどう考えていたのだろうか
クシナガラの涅槃堂から車で5分ほどの距離にはランバル塚というブッダ火葬の地がある。
ブッダの遺体は生前の彼の指示通り、バラモン教の祭式に則って行われることになった。その指示は『大パリニッバーナ経』に詳しく説かれている。
そして火葬を実際に取り仕切ったのはクシナガラに住むマッラ族の人々だった。彼らはブッダの遺体を王族の戴冠場へと運びそこで火葬をすることにしたのである。そしてこのランバル塚は後の時代にそれを記念して作られたものだとされている。
さて、ブッダは荼毘に付され遺骨が残るのみとなったわけだったがここで問題が発生する。
各国の王たちがこぞってブッダの遺骨を求め始めたのだ。
ブッダの死はインド各地に衝撃をもたらし、その一報は瞬く間に広がっていった。そこで火葬を執り行ったマッラ族に対し各国が遺骨の分配を求めたのであった。
しかしマッラ族は難色を示す。「ここでブッダが亡くなり、我々が火葬を取り仕切ったのだからそれはできない」。それに対し各国も「私もブッダと同じ王族階級であり、私にも遺骨を受け取る権利がある」と反発。そうして反発は互いにエスカレートし、「遺骨を渡さなければ軍隊を送るぞ!」という戦争ギリギリの所まで緊張が高まってしまったのである。平和を説いたブッダの遺骨を巡り、戦争が起きようとしていたのだ。
だがそこに間一髪救世主が現れた。
ひとりのバラモンがやって来て、その彼が遺骨を公平に8つに分けることを提案したのである。彼の仲裁により各国は矛を収め、ブッダの遺骨をそれぞれ持ち帰ることとなった。
ブッダの遺骨についてはブッダ自身がその信仰の功徳を説いたこともあり、その管理を誰がするかというのは大きな問題だった。さらには偉大なる宗教家の遺骨を管理するというのは圧倒的な権威を示すことにもなる。こういうわけでブッダの遺骨を巡る争いが起きてしまったのであった。
この遺骨の管理についてブッダが生前、アーナンダに述べた有名な言葉がある。それが、
アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向って怠らず、勤め、専念しておれ。アーナンダよ。王族の賢者たち、バラモンの賢者たち、資産者の賢者たちで、修行完成者(如来)に対して浄らかな信をいだいている人々がいる。かれらが、修行完成者の遺骨の崇拝をなすであろう。
岩波書店、中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』P140
というものである。
この「お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな」という言葉が、明治以降の日本仏教批判の文脈で「仏教は遺骨崇拝をしない」という意味で捉えられがちであったのだが、実際は上のような権力闘争を回避するためのブッダの方便ではなかったかと私は思うのである。
現にブッダは遺骨や遺骨を納めた仏舎利塔(ストゥーパ)の崇拝を別の箇所では奨励している。遺骨崇拝を禁じるどころか勧めてすらいるのだ。では、ブッダはなぜここで「遺骨供養にかかずらうな」と述べたのだろうか。私はここに、ブッダ火葬後の国王同士の遺骨争いを見ずにはいられないのである。
つまり、ブッダの葬送や遺骨管理は高度に政治的な問題をはらむのだ。スリランカの仏歯もまさに王権と結びついていたことを思い出してほしい。(「(42)キャンディの仏歯寺でプージャを体験~スリランカの伝統的な仏教とは何なのかについて考えてみた」の記事参照)
ブッダは自らの遺骨が持つ意味を十分すぎるほど知っていたのではないか。王舎城や舎衛城などの大都市ではなくクシナガラという寒村を臨終の地に選んだのも、遺骨が独占されることを危惧したからではないだろうか。そしてそれに仏教教団が巻き込まれるのを避けるためではなかっただろうか。
もちろん、もし本当にそうであったら最初から遺骨分配のこともブッダ自身に言ってほしかったがそれは野暮というものだろう。
また、弟子たちが遺骨を独占してそれを神のごとく祭り上げ、修行という本来の目的を忘れてしまうことを恐れたというのもやはり重要な側面であることは否定できない。「神と化した聖人の遺骨」の管理人がそのまま神のようになっていくというのは歴史上往々にして繰り返されてきたことだ。
そのこと自体は悪いことではない。それも人間の文化であるし、歴史の営みだ。だが、ブッダとしてはそれを恐れるだけの不安材料があったのだろう。
現に従弟のデーヴァダッタ(提婆達多)は教団の後継者となることを画策し、大変な騒動を巻き起こしたではないか。最も信頼する弟子サーリプッタ(舎利弗)やモッガラーナ(目犍連)もすでに亡くなってしまった。特にモッガラーナに関しては、ブッダ教団を妬んだ人間に暴行されて亡くなっている。
優秀な弟子マハーカッサパ(摩訶迦葉)がこの後の教団を指導していくだろうが、ブッダ亡き後どうなるかはわからない。アーナンダもまだまだ未熟だ。
こうした状況で「圧倒的な権力」となりうる自身の遺骨は危険極まりないとブッダは予感していたのではないか。権力は人を狂わす。私はロシアの文豪ドストエフスキーを思わずにはいられない。彼はそんな人間の深淵を暴いたではないか。人間は弱い生き物だ。皆が皆ブッダやキリストではない。人を動かすパワーは、その人自身も狂わしかねないのである。
ちなみにであるが、「インドでは火葬したら川に遺骨を流すから墓を作らないのでは?」と思われる方もおられるかもしれないが、ブッダ在世時にはまだそのような風習はなかったようだ。
ガンジス川などに遺灰を撒くという習慣も紀元前4世紀以降のポスト・ヴェーダ時代に徐々に生まれたものだとされている。この当時は遺骨を埋めてそこに饅頭状に土を盛った墓を作ったり、石やレンガを置いて供養していたといわれている。というわけで、この後もブッダだけではなく高弟達の遺骨が埋葬されたストゥーパもインド各地に作られることになったのであった。(『新アジア仏教史01インドⅠ 仏教出現の背景』P189-190参照)
偉大な先達を供養すること、そして亡くなった人達を供養するのは古代インドでも大切にされていた。そこに仏教やヒンドゥー教(当時はバラモン教)の区別もない。そして形の変遷はあれど現在のインドでもそうした葬送文化自体は変わらない。亡き人を弔うことは人間として大切な営みだと私は深く感ずるのである。現代においては軽んじられつつある考え方かもしれないが、私はこうした人間の歴史を大切にしたいのだ。
ここまで述べてきたような当時の葬送事情やブッダ在世時の社会状況については、以下の本がおすすめだ。興味のある方はぜひ参照して頂けたらと思う。
・佼成出版社、奈良康明、下田正弘編集『新アジア仏教史01インドⅠ 仏教出現の背景』
・大正大学出版会、奈良康明『〈文化〉としてのインド仏教史』
・春秋社『シリーズ大乗仏教 第十巻 大乗仏教のアジア』
・春秋社、中村元『中村元選集〔決定版〕第17巻 原始仏教の生活倫理』
・春秋社、中村元『中村元選集〔決定版〕第18巻 原始仏教の社会思想』
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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