スリランカの世界遺産ダンブッラの衝撃!~私はこの仏跡を決して忘れることはないだろう
【インド・スリランカ仏跡紀行】(37)
スリランカの世界遺産ダンブッラの衝撃!~私はこの仏跡を決して忘れることはないだろう
ジャフナを拠点にスリランカ北部を巡った私は次なる目的地を目指してスリランカを一気に南下した。
これから私が向かうのはダンブッラ石窟寺院という1991年に世界遺産に登録された仏跡だ。
途中食事休憩も挟みながらやって来た私だが、ここまで来るのに今日も6時間。スリランカ、ハード。
ダンブッラ付近に到着すると道の広場に大きな仏像が設置されていた。見るからに新しい。これまでスリランカに関する様々な本を読んできたがやはり本の通りだ。近年お寺の敷地だけではなく、公共の場にも仏像がどんどん建てられているのだという。シンハラ仏教ナショナリズムは今なお根強く残っているのである。内戦を経験したガイドさんもこうしたこれ見よがしの仏像建築には苦言を呈していた。
さて、ダンブッラ石窟寺院の入り口の到着だ。ここから階段を上り岩山に掘られた寺院を目指す。
よくガイドブックなどではこちらのメインゲートが紹介されるが、私達はこちらからは入場しなかった。ガイドさんいわく、ここから行くと階段が多くて疲れてしまうのでおすすめしませんとのことだった。
それに、この明らかに最近作られたであろうこのゲートにはどうしても趣を感じられない。こういうデザインは私の文脈にはどうしても馴染まないのである。ガイドさんもこの黄金仏像にはよいイメージを持っていないと言っていた。それもそうだろう。シンハラ仏教ナショナリズムと政治の癒着は言うまでもないからだ。内戦を経てそうした事実に怒りを感じているスリランカ国民はかなり多いのだそう。
2022年の大規模デモではラージャパクサ大統領を辞職させようと国民が決起したわけだが、そのラージャパクサもシンハラ仏教ナショナリズムを政治利用した人物として知られている。その仏教振興政策に多額の税金や賄賂が流れていたことを国民はすでに知っているのである。
さて、階段を上っていこう。
後ろを振り返って実感したが、かなり高いところまで上って来た。かなりいい運動だ。
視界が開けてきた。まさに絶景。深い緑が広がる平地に突如せり上がる山々。これはいい眺めだ。
さて、いよいよダンブッラ石窟寺院へと入場だ。石窟寺院と言われるだけあり、まさに周りはすべて岩山。
こちらがダンブッラ石窟寺院の境内だ。建物自体は近年作られたものであろう。
入り口付近にはヒンドゥー教の社があった。タミル人にとってもこの岩山は信仰の場であったのであろうか。詳しいことはわからない。
さて、これからダンブッラ石窟寺院を見学する前にざっくりとこの寺院について見ていこう。
ここではユネスコのホームページから引用する。
キャンディの北、文化のトライアングルの中央に位置する街の、岩山中腹に開かれた石窟寺院。BC1世紀の開窟以来、常に信仰の対象として生き続けてきた。現在5窟あり、第1窟は頭を北に向けて横たわる約14mの涅槃仏で知られ、最大の石窟である第2窟には50数体の仏像が安置され、壁や天井は数々の壁画で覆われている。第4窟は盗掘がはなはだしく、第3窟は18世紀の作、第5窟は1951年に開窟された。
ユネスコHPより
そしてここは「スリランカにおいて、最も保存状態がよい石窟寺院として知られている」そうだ。ガイドブックやインターネットのサイトでもそのように解説されていることが多い。
では、これより実際にダンブッラ石窟寺院へと入っていこう。まず最初に見ていくのは紀元前1世紀頃に開窟されたという第1窟だ。
堂内に入るとそこに巨大な涅槃仏が安置されていた。堂内はライトアップされているのでそこまでの暗さは感じない。
紀元前1世紀には仏像はまだ存在していない。世界で初めて仏像が作られたのは紀元1世紀頃のガンダーラやマトゥラーであるとされている。そのためこの涅槃仏は石窟開窟よりかなり後に作られたものだろう。他のスリランカの仏像でもそうなのだが、この仏像も正確な制作年は不明である。
涅槃仏の頭上には壁画が残っていた。彩色がかなり残っているが、これが古いもののようにはどうも見えない。
そしてここの次に訪れた第2窟が問題だった。ガイドブックや広告でもよく出てくるあの広い石窟だ。
入り口から見えた堂内は薄暗い空間に電球色のライトが照らされ一瞬期待が高まった。
が、入った瞬間目にした正面の仏像に私は意気消沈することになる。
これらの仏像がいかにも新しく作られたものであり、彩色も繊細さを感じさせず、目の塗りや表情にもこれというものを感じないのである・・・。
窟内の壁面には多くの仏像が並べられていたのだが、そのほとんどが明らかに最近彩色されたもののように見える。
仏像はあくまで信仰の対象であって芸術品ではないというのは百も承知。だが、それにしてもどうなのだろう。スリランカ仏教の歴史を知ってしまった私にとってこれはやりきれない気持ちになる。
正直、私にはここを「聖地として扱おう」とする誰かの意図すら感じてしまった。私はこのライトアップの仕方も気になって仕方がない。
先にも見たが、仏像だけでなく、これらの天井画や壁画も明らかに新しいものだ。
だが、私は何も新しい仏像や壁画が悪いと言っているわけではない。
ただ、伝統や正統性、最も古くからの仏教を守っていると主張するシンハラ仏教ナショナリズムがこうした新しいものづくめであるということに私は引っ掛かるのである。
私にとって重要なことは、この仏跡も本当に信仰され続けてきたのかということなのだ。
この石窟の歴史について伊東照司著『スリランカ仏教美術入門』では次のように解説されている。
ダンブラの洞窟寺院は、この王(紀元前1世紀のヴァダガーマニー・アバヤ王※ブログ筆者注)のころから存在し、この王によって、最初に手が加えられたものと考えられています。したがって、洞窟寺院の歴史はなんと、二千年以上も前にまで、さかのぼります。
その後、かなり後、西暦後十一世紀になって、あの有名なポロンナルワ王朝のヴィジャヤバーフ一世王の治世になって、王はそのダンブラ洞窟寺院に注目し、この寺院の修復をなしています。これはスリランカを代表する年代記『チュラヴァンサ』第二章に、述べられています。
その後、またポロンナルワ期のニッサンカマッラ王によって、洞窟寺院が修復されています。王の四度目の大巡幸のさい、ダンブラ洞窟寺院を訪れています。そして、その記念すべき訪問にさいし、碑文を残し、王がなした善行が記されました。この大きな碑文を、今日、山門と第一窟との間に、見ることができます。この碑文の中で、王は多くの仏像を修復、あるいはつくり、大きなお祭りをなし、この洞窟寺院に名前をつけています。それが「スヴァルナギリ・グハ」で、黄金山洞窟(寺)を意味いたします。
その後、ダンブラ洞窟寺院についての歴史的史料がなく、後のキャンディ王朝(十六世紀末~一九世紀初めごろ)まで、またねばなりません。すなわち、一七二六年に記されたスリランカの年代記『ダンプル・ウィハーラ・ツタパタ』によると、十七世紀前期のセナラット王(在位一六〇四~一六三五年)が、この洞窟寺院を修復しています。この修復工事には三ヶ年間かかり、その完成には、六十五体もの仏像に、彩色がほどこされた、と記されてあったのです。
その後、同じくキャンディ王朝の十八世紀後期の王、キールティ・スリー・ラージャシンハ王(在位一七四七~一七八二年)も、洞窟寺院の造営に多くの貢献をなしました。そのうち、特に注目すべき工事は、これまで倉庫として用いられてきた第三窟を、さらに大きく掘りひろげ、第三窟を今日に見るような礼拝の場にかえたのであります。
雄山閣、伊東照司『スリランカ仏教美術入門』P64-65
この解説にあるように、ダンブッラには「空白の時間」が多いのである。荒廃していたからこそ「修復」が行われ、それが年代記に記されるのだ。
「(29)なぜ私はスリランカの聖地や仏跡に感動できなかったのだろうか~宗教と「人生の文脈」について考える」の記事でもお話ししたが、スリランカといえば世界最古の仏教の伝統を守る仏教国というイメージがあるかもしれないが、実は話はそんなに単純ではない。
11世紀には仏教教団がほぼ壊滅し、ミャンマーから出家者を招いてなんとか存続させたり、18世紀には授戒のできる出家者がいなくなったことで事実上教団の伝統も途絶えてしまったという歴史がある。
ダンブッラもそのような歴史の流れと無関係ではない。ガイドブックやその他解説で語られるような「2000年以上も前から人々から信仰の場として重んじられ続けていた場所」というのはかなりグレーな言い方なのである。
それは杉本良男著『仏教モダニズムの遺産』でも次のように指摘されている。
周知のようにスリランカ仏教は南方上座部分別説部の伝統をひく、もっとも由緒正しい仏教伝統だと認識されている。ただ、このような「伝統」が必ずしも歴史的連続性を意味しないように、スリランカの上座部仏教の伝統も、すでに紀元三~五世紀には大乗仏教の影響をうけて一時衰退し、一二世紀ごろからの政治的混乱によって僧伽も混乱をきわめた。
その後コーッテ王国(一三七二~一五九七)時代に仏教王権中興の祖というべきパラークラマバーフ六世(Parakramabahu VI, 1411-1466)によって復興したが、一六世紀からはキリスト教の影響を受けてふたたび衰退が始まり、一八世紀にはついに僧伽そのものが消滅するような事態も迎えている。要するに現在のスリランカ仏教は、上座部仏教の伝統を再構築した仏教ではあっても、最古の仏教伝統をそのまま伝えているものではなく、それはただのブランドにすぎない。
※スマホ等でも読みやすいように一部改行した
風響社、杉本良男『仏教モダニズムの遺産 アナガーリカ・ダルマパーラとナショナリズム』P63
「歴史の連続性」
この言葉は私の宗教的文脈に大きな影響を与えている。
「(29)なぜ私はスリランカの聖地や仏跡に感動できなかったのだろうか~宗教と「人生の文脈」について考える」の記事でもお話ししたが、私がかつてアルメニアの教会に戸惑ったのもまさにそこなのだ。
そしてここスリランカにおいては同じ仏教である以上それが特に感じられるのである。まして政治利用され内戦にまで発展してしまったという事実がある以上、私はこの国の仏教の歴史に敏感にならざるをえない。
こういうわけでこのダンブッラではどうしても歴史の連続性を感じることができなかったのである。
そしてこの石窟で私がどうしても不思議だったのがこれらの天井画や壁画である。私はガイドさんに聞かずにはいられなかった。「これが描かれたのはいつ頃ですか」と。
すると「18世紀頃に修復されたと聞いています」という答えが返って来た。
それで「スリランカで最も保存状態のよい壁画が残っています」と言われても、私はどう反応すればよいのだろうか。
この壁画についても興味深い解説が『スリランカ仏教美術入門』に書かれていたのでここに紹介しよう。
ダンブラの壁画が正確にいつ、描かれたものかは不明です。なぜならば、一度、描かれた絵が消えると、その上から新しく彩色がほどこされ、色をのせ、あるいはまったく新しい絵を描きくわえていったからです。ある学者は、その最古の個所が、八世紀の作ともみなし、ある絵の部分は有名なシーギリヤ壁画の図柄と共通する、といわれます。
しかし、今日に見るダンブラの壁画は、そのほとんどが、古きシーギリヤやポロンナルワ期に見た古典的な壁画とは、まったく別個のものであります。つまり、それよりかなり後の十七ないし十八世紀に描かれた壁画なのです。たとえば、装飾意匠、樹木やつる草の表現は様式化した一種独特なものです。この様式は、古きポロンナルワ期の壁画の流れと断絶した、別個のもので、いわば平面的な表現の絵となっているのに気づくでしょう。
つまり、ダンブラ壁画はかなり新しいもので、すでにお話しいたしましたように、キャンディ王朝の十七世紀に、セナラット王によって、第一窟、第二窟、第四窟の壁画が、当時の絵師によって描かれました。そして、その後の、十八世紀のキールティ・スリー・ラージャシンハ王によって、第三窟の壁画をはじめとする、ダンブラ全体の壁画が、当時の絵師の手によって補修され、手が加えられたものなのです。
雄山閣、伊東照司『スリランカ仏教美術入門』P66
いかがだろうか。私はこの箇所を読んで驚いた。ここでは古い絵を保存するという発想ではなく、ダメになったら新しくその上に描いてしまうというのだ。
だから古いものは残っていない。そして17、18世紀に描かれたものが今こうして残っているのである。保存状態が良いのも当たり前だ。
しかし一般観光客にはそんなことなど知る由もない。ましてスリランカ仏教の歴史を知る人などほとんどいないだろう。2000年も前からある石窟の壁画としか頭に残らないのがたいていなのではないだろうか。こういう点も私には引っかかってしまうのである。
それにしても、スリランカの遺跡がシンハラ・オンリー政策によって急速な再建、修復がなされたとはいえ、こんなにも新しくてピカピカの仏像ばかりでスリランカ人は疑問に思わないのかと感じた方もおられるかもしれない。
そう。まさにそうなのだ。なぜスリランカには新しい仏像や寺院がこんなにも当たり前のようにあるのだろうか。
その鍵が「(30)スリランカの上座部仏教とはどのような仏教なのかざっくり解説~日本仏教との違いについても一言」でお話しした「功徳」の考え方なのである。
善い行いをすれば功徳がたまる。功徳がたまれば良いことがある。これがスリランカ仏教の基本である。
そしてその「善い行い」の筆頭に挙げられるのが寺院や仏像の建立なのだ。寺院や仏像を新たに建立し教団に寄進することは大きな功徳を積むことになる。タイなどではそれが特に顕著で、経済発展とともにどんどん新しいお寺や仏像が建てられているそうだ。スリランカでもその傾向は同じである。
しかしここで重要なのは寺院や仏像を「新しく建立すること」が大きな功徳なのであって、それを維持することの功徳はあまり一般信徒には考えられていないという点なのである。つまり、新しく寺院を建てたはよいものの、数十年たって修復をしようとしても「新しいものを建てる」わけではないので皆あまり協力的ではないそうなのだ。皆自分の功徳をいかに多く積むかが大事なのである。より大きな功徳を求めてそちらに流れてしまうという問題があるそうだ。
そしてもう一つ重要なのは東南アジア系の仏教が金ぴかを好むという点である。日本のように古くて黒ずんだものがありがたがられる世界ではないのである。後のインドの仏跡で改めてお話しすることになるが、とにかく金ぴかに、極彩色に塗るのである。それが功徳であり、ありがたいのである。これは日本人と全く違う感覚だろう。
むしろ古いものをそのまま保存ばかりしていても功徳が積めないのである。こちらの文化圏ではそれが当たり前なのだ。日本人の感性や当たり前をここに持ち込む方がナンセンスなのである。もしスリランカの仏教徒が日本の古寺に来たとしても、私と同じように無感覚になってしまうのではないだろうか。これが文化の違いなのである。どちらが優れているという話ではないのである。(それに、上でも述べたようにスリランカ仏教は何度も衰退し、そもそも古いものが残っていない。さらに言えば仏像を木造で作る日本と違って巨大な石仏は移動も不可能。つまり緊急事態に運び出すこともできないのである)
だが、この石窟にいて私は思わずにはいられない。
正直に言おう。
私はダンブッラでがっくり来てしまったのである。私はこれまで様々な歴史的建造物や聖地を見てきたがこれほどがっくり来たことはない。ある意味衝撃的だったと言ってもいい。
これは何度も言うように、私がスリランカ仏教の歴史を知ってしまったからというのも多分にあるだろう。スリランカの文脈が私にはないというのももちろんだが、私はこの石窟で「恣意的なもの」を感じてしまった。シンハラ仏教ナショナリズム的なものがはっきりと見えてしまうのである。
もちろん、今のダンブッラ石窟の内装がキャンディ王国時代の17、18世紀がベースになっているのは承知の上だ。この時代にはまだシンハラ仏教ナショナリズムはない。だからこの石窟自体にがっくり来たわけではない。あくまでその展示方法やそのあり方に私はがっくり来てしまったのである。
スリランカの方には申し訳ないが、これが私の思う正直なところである。もちろん、私はスリランカの文化や歴史を否定しているのではない。あくまでこれは私が個人的に思うところである。スリランカの方が日本に来たらそれはそれで思うこともたくさんあるだろう。見解の相違を主張すること自体は互いを知るためには大切なことと私は考えている。
ダンブッラ石窟は私にとって忘れられぬ存在となった。こうなってくると逆に人に勧めたくなってくる。私のようなショックを受ける方がどれくらいいるかはわからないがぜひ皆さんも現地で体感してほしい。ある意味スリランカで最も衝撃を受けた世界遺産だった。
※2024年10月追記
この旅に出てからおよそ1年が経ちました。このダンブッラの衝撃は今でも忘れられません。
現在私は中国仏教、日本仏教の研究に入っています。この記事ではスリランカの歴史の連続性についてお話ししましたが、いざ中国や日本の歴史を改めて振り返ってみると私達も知らず知らずの内に同じような状況であったことに気づかされます。さらに言えば、日本でも新しいお寺や仏像もたくさんあります。それらも等しく大切に信仰されているということも見逃すことはできません。
何度も強調しますが、私はスリランカの仏教や歴史を否定しているのではありません。私にとってシンハラ仏教ナショナリズムの存在がこの滞在中あまりに大きかったということなのです。仏教が内戦に加担することになったそのメカニズムを知りたいという一心でした。それがこの記事やこの旅行記全体にも現れています。
どうか私の思いが伝わりましたら幸いでございます。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
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