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(24)ブッダのクシナガラでの入滅~従者阿難と共に最後の旅へ出かけるブッダ。80年の生涯に幕を閉じる

クシナガラ
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【仏教入門・現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】(24)
 ブッダのクシナガラでの入滅~従者阿難と共に最後の旅へ出かけるブッダ。80年の生涯に幕を閉じる

さて、ここまで23回にわたりブッダの生涯についてお話ししてきましたが、この24回目でついにブッダの生涯も終わりを迎えることになります。

「えっ?いきなり?つい前回までブッダの快進撃を見ていたはずでは!?」と思われる方もおられるかもしれません。

ですが、ブッダが悟ってから亡くなるまでの45年間は実はブッダの生涯において大きな出来事というのはあまりないと言えるのです。

と言いますのもブッダの生涯を表す言葉として「八相成道」というものがあるのですが、これはまさにブッダの生涯における8つの重大事という意味になります。

八相成道図(マトゥラー博物館蔵)

その8つは、

〇降兜率(ブッダが白い象に乗って天から降りてくる)
〇入胎(母マーヤーのお腹に入る)
〇出胎(ブッダが生まれる)
〇出家(29歳で国を捨て出家)
〇降魔(悪魔を倒す)
〇成道(35歳でブッダガヤで悟りを開く)
〇転法輪(サールナートでの初転法輪)
〇入涅槃(80歳で亡くなる)

というものになります。そうです。初転法輪を終えた35歳の段階でブッダの重大事はもはや80歳の入涅槃しか残されていないのです。

こういうわけでいよいよブッダの死をこれから語るのでありますが、もちろんこの間に何もなかったというわけではありません。

従弟のデーヴァダッタによる教団分裂騒動や、ビンビサーラ王が息子のアジャータサットゥ(阿闍世)に殺害されるという王舎城の悲劇、殺人鬼アングリマーラの出家、遊女アンバパーリーの帰依、ブッダの養母マハーパジャーパティの出家に伴う女性出家教団の誕生、ブッダの生国カピラヴァストゥの滅亡、サーリプッタの死、モッガラーナ殺害事件などなど、細かく見ていけばさらにたくさんの出来事があるのですがそれらを一つ一つ見ていくとあまりに膨大なものとなってしまいます。

この連載記事はあくまで【仏教入門】です。ブッダの生涯を現地写真と共にざっくりと見ていくことを目的としてきました。ただ、そうは言いつつもブッダの時代背景については詳しく見てきたのではありますが、そろそろ筆を置く時が近づいてきたようです。

ブッダは35歳で悟りを開いた後、45年の間布教の旅を続けました。八相成道では語られませんが、この45年にわたる布教が仏教という存在を形作ったことは間違いありません。八相成道に入るほどの劇的な出来事ではなかったかもしれませんが、この布教の日々こそブッダのブッダたる所以だったのでしょう。ブッダが日々どのような教えを説いていたのかは岩波書店から出版されている『ブッダの真理のことば 感興のことば』が最も身近なものになりますのでぜひおすすめしたいです。

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霊鷲山から最後の旅に出発するブッダ

ここからはいよいよブッダの最後の旅についてざっくりとお話ししていきます。

ブッダの最後の旅はマガダ国の首都王舎城にも近い霊鷲山りょうじゅせんから始まりました。

霊鷲山

この山はブッダが好んだ場所であり、ここで弟子たちに多くの説法をしたことで知られています。後に成立する大乗仏教経典の『法華経』や『無量寿経』もここが舞台になっています。

ちなみに、この山の名前の「霊鷲山」は頂上付近にある岩がまさに鷲のような形をしていることから名づけられています。右の写真を見るとたしかに鷲のように見えますよね。

80歳のブッダはここでの説法を終えた後、最後の旅に出発します。彼は自身の寿命が残り少ないことを悟り、従者アーナンダと共に故郷のカピラヴァストゥへ向け歩き始めたのでした。

ブッダの道のり

霊鷲山から故郷のカピラヴァストゥへ歩き始めたブッダ。しかし残念ながら故郷へはたどり着けず、ネパール手前のクシナガラという地で亡くなられます。上の地図にありますように道路が整備された現代においても車で7時間強、300キロ以上の道のりです。道路も整備されていない2500年前でしたら今よりも圧倒的に過酷な旅路となったことでしょう。それを80歳の、今にも命終えんとしている御老体が自分の足で歩いたのです。

それに、よくよく考えてみると、そもそもこの2500年前の時代に80歳まで元気に生き続けたという時点で想像を絶する生命力です。現代日本では80歳は珍しくはなくなりましたが、科学も医療も発達していない古代インドでこの年齢というのは驚きです。もし現代にブッダが生きていたら130歳くらいまで生きていたのではないかと思ってしまいます。

さて、そんなブッダでありますが、行く先々で人々との最後の別れを交わしながら歩を進めていきます。本来はそのひとつひとつを丁寧に紹介していきたいところなのですが、それを始めるとここからまたいくつも記事を書くことになってしまうのでここでは割愛します。

興味のある方は岩波書店の中村元訳『ブッダ最後の旅 大パリニッパーナ経』にそれらの出来事や説法が詳しく書かれていますのでぜひご一読ください。

この本ではブッダの最後の旅が簡潔に説かれていて一つの物語のように読み進めていくことができますのでとてもおすすめです。

鍛冶工チュンダのきのこ料理で激しい腹痛に襲われるブッダ

80歳の高齢でありながらも、ブッダはしっかりと肉体を統御し、心穏やかに歩を進めました。そしてこの旅の終盤、ネパールにももう少しという地点にあるパーヴァー村へとブッダは到着しました。

そこでブッダを深く敬愛する鍛冶工の子チュンダがブッダを歓待し、食事を施すことになります。尊敬するブッダのためにと心を込めて料理を作った彼ではありましたが、このチュンダの施したキノコ料理によってブッダは激しい腹痛に襲われることになりました。この激痛は凄まじく、赤い血がほとばしるほどの苦痛だったと『ブッダ最後の旅』で説かれています。しかしブッダは精神力でそれを耐え、チュンダのもとを去ります。

そしてアーナンダに「クシナガラへ行こう」と告げ、最後の地へと向かっていくことになります。

この時すでにブッダの腹痛は死に至る病と化し、激痛で普通ならば歩くことすら困難でした。そんな中ブッダは歩き続けたのです。

しかしさすがのブッダも限界に達します。

「さあ、アーナンダよ。お前はわたしのために外衣を四つ折りにして敷いてくれ。わたしは疲れた。わたしは坐りたい。」

「わたしは疲れた」という言葉にブッダの人間味を感じますよね。そしてさらに、

「さあ、アーナンダよ。わたしに水をもってきてくれ。わたしは、のどが渇いている。わたしは飲みたいのだ。」

とアーナンダにお願いします。

命終えんとするブッダの衰弱ぶりが伝わってくる何とも悲しいやりとりです。あの健やかで偉大な師が間もなく世を去ってしまう。アーナンダはそのことをひしひしと感じながらブッダの身の回りの世話をしていたのでしょう。

そして少し休み体力を回復させたブッダは最後の力を振り絞り、臨終の地クシナガラへと向かいます。

クシナガラでの入滅

現在のクシナガラ

ブッダはこの地が最期の場所となることを覚悟したのでしょうか。アーナンダに次のように語りかけます。

「さあ、アーナンダよ。わたしのために、二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を用意してくれ。アーナンダよ。わたしは疲れた。横になりたい」

日本でよく言う「北枕」はここから来ています。そしてブッダは右脇を下につけて横になりました。

するとその沙羅双樹が時ならずして花が咲き、満開になりました。さらにはその花が散り、ブッダの上に花吹雪となって舞い始めたのです。これを見たブッダはいよいよ最期の時を覚悟します。

そして師の最後を察して動揺するアーナンダに対し様々な説法を行ったのでした。この説法ではブッダの聖地を巡礼することの徳や、ブッダの火葬法、遺骨を入れた墓(ストゥーパ)のお参りなど、彼亡き後の教団のあり方の具体的な指示も含まれていました。

それでもアーナンダの悲しみは収まりません。彼はブッダのそばを離れて泣いていました。「ああ、わたしは、まだこれから学ばねばならぬ者であり、まだ為すべきことがある。ところが、わたしを憐れんでくださるわが師はお亡くなりになるのだ・・・」

そんな彼を慰めるべく、ブッダは彼を呼び戻しこう語りかけました。

「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか。すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないようにということがどうしてありえようか。

アーナンダよ、お前は長い間私のためによく尽くしてくれた。努めはげんで修行せよ。そうすればお前も速やかに汚れのないものとなるだろう。」

そうです。ブッダの教えは「諸行無常」。全てのものは移ろいゆく。出会いがあれば別れもある。どんなに大切な人ともいつかは必ず別れねばならない。ブッダの教えはそういう厳しい教えでもあります。そしてそれを一番身近で聞き続けてきたのはアーナンダ、お前ではないかとブッダは諭します。だからこそ悲しむな。これは真理だ。心を落ち着けよとブッダは言うのでありますが、私にもそれができる自信がありません。私もきっとアーナンダと同じく嘆き悲しむことでしょう。

ブッダは自分の死が目前に迫りながらも、こうしてアーナンダの悲しみに思いやりを示しました。そしてそれは鍛冶工の子チュンダに対してもそうでした。

ブッダはチュンダが後に周りから「お前のせいでブッダが死んだ」と責められることを心配していました。そこでアーナンダに対して次のように指示しました。

「チュンダに対し次のように言ってあげなさい。〈友よ、あなたは修行完成者の最後の食事を施してくれた。それは素晴らしい功徳だ。安心しなさい。ブッダはあなたの食事のおかげで完全なる涅槃の世界に入られる。それは大きな徳なのだ。必ずあなたによい報いがあるだろうとブッダが言っていた〉と」

最後の最後までブッダは思いやり溢れるお人柄だったことがこのエピソードからも伺われます。

そしていよいよ最期の時がやって来ます。

ブッダは臨終の言葉として次の言葉を残して息を引きとります。

「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」

全ては移りゆく。だからこそ修行せよと。どうせ全てなくなると悲観するのではなく、だからこそ精進して生きよとブッダは最後に言いました。この「だからこそ」という文脈は諸行無常のこの世を生きる私達にとっても実に意味のある言葉ではないかと私は感じています。

ブッダの火葬

ブッダの遺体は生前の彼の指示通り、バラモン教の祭式に則って行われることになりました。

そして火葬を実際に取り仕切ったのはクシナガラに住むマッラ族の人々でした。彼らはブッダの遺体を王族の戴冠場へと運びそこで火葬をすることにしました。

ブッダが火葬されたとされる場所は今でも残されています。この塚はそれを記念して作られたものです。ここは川のすぐそばにあり、火葬場として使われたのも頷けます。

さて、こうして荼毘に付されブッダの遺骨が残るのみとなったわけですがここで問題が発生します。

各国の王たちがこぞってブッダの遺骨を求め始めたのです。

ブッダの死はインド各地に衝撃をもたらし、その一報は瞬く間に広がっていきました。そこで火葬を執り行ったマッラ族に対し各国が遺骨の分配を求めたのでありました。

しかしマッラ族は「ここでブッダが亡くなり、我々が火葬を取り仕切ったのだからそれはできない」と難色を示します。それに対し各国も「私もブッダと同じ王族階級であり、私にも遺骨を受け取る権利がある」と反発します。そうして反発は互いにエスカレートし、「遺骨を渡さなければ軍隊を送るぞ!」という戦争ギリギリの所まで緊張が高まりました。平和を説いたブッダの遺骨を巡り、戦争が起きようとしていたのです。

そこに間一髪救世主が現れます。ひとりのバラモンが現れ、彼は遺骨を公平に8つに分けることを提案しました。彼の仲裁により各国は矛を収め、ブッダの遺骨をそれぞれ持ち帰ることとなったのです。

ブッダの遺骨についてはブッダ自身がその信仰の功徳を説いたこともあり、その管理を誰がするかというのは大きな問題となります。さらには偉大なる宗教家の遺骨を管理するというのは圧倒的な権威を示すことにもなります。こういうわけでブッダの遺骨を巡る争いが起きてしまったのでありました。

ちなみにですが、「インドでは火葬したら川に遺骨を流すから墓を作らないのでは?」と思われる方もおられるかもしれませんが、ブッダ在世時にはまだそのような風習はなかったようです。ガンジス河などに遺灰を撒くという習慣も紀元前4世紀以降のポスト・ヴェーダ時代に徐々に生まれたものだとされています。この当時は遺骨を埋めてそこに饅頭状に土を盛った墓を作ったり、石やレンガを置いて供養していたといわれています。というわけで、この後もブッダだけではなく高弟達の遺骨が埋葬されたストゥーパもインド各地に作られることになりました。(『新アジア仏教史01インドⅠ 仏教出現の背景』P189-190参照)

まとめ

さて、ここまでブッダの生涯をざっくりと見てきましたがいかがだったでしょうか。

きっとブッダという人物がより身近に感じられたのではないかと思います。

そして一人の偉大な人物の活躍の裏にいかに時代背景が関係しているかも感じて頂けたのではないかと思います。

ブッダも古代インドという文脈に生きたひとりの人間です。どの時代のどんな社会に生きているのかという文脈の大切さは現代を生きる私達にとっても同じです。その視点は今を生きる私達にとってもきっと大きな指針になるのではないでしょうか。

次の記事ではこの連載記事のラストとして、ブッダ死後以降の仏教の歩みを極々ざっくりとお話ししていきます。ぜひ最後までお付き合い頂けましたら幸いです。

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※この連載で直接参考にしたのは主に、
中村元『ゴータマ・ブッダ』
梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』
平川彰『ブッダの生涯 『仏所行讃』を読む』
という参考書になります。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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