芥川龍之介『羅生門・鼻』あらすじと感想~大人になった今だからこそ読みたい!悪へと進むその決定的瞬間を捉えた名作!
芥川龍之介『羅生門・鼻』あらすじと感想~大人になった今だからこそ読みたい!悪へと進むその決定的瞬間を捉えた名作!
今回ご紹介するのは芥川龍之介によって1915年、1916年に発表された『羅生門』、『鼻』です。私が読んだのは新潮社、2018年第八十六刷版『羅生門・鼻』です。
早速この本について見ていきましょう。
辛辣な批評、洒脱な機知。
Amazon商品紹介ページより
技巧にたけ、一作ごとに語り口を変え、趣向を凝らした短篇8作。
これぞ短篇の名手、芥川の真骨頂!
京の都が、天災や飢饉でさびれすさんでいた頃。荒れはてた羅生門に運びこまれた死人の髪の毛を、一本一本とひきぬいている老婆を目撃した男が、生きのびる道を見つける『羅生門』。
あごの下までぶらさがる、見苦しいほど立派な鼻をもつ僧侶が、何とか短くしようと悪戦苦闘する姿をユーモラスに描いて夏目漱石に絶賛された『鼻』。
ほかに『芋粥』『好色』など、“王朝もの”全8編を収録する。
『羅生門』は1915年に発表された作品で、太宰治の『走れメロス』と同じく学校の教科書でもお馴染みの短編です。
物語の舞台は地震や火事、飢饉などの天災が続いていた京都。ある男が羅生門の下で雨宿りをしています。京都全体が悲惨な状態。食べるものも売るものもなく、仏像や仏具ですら破壊され薪として売られていたほどでした。
そんな有り様ですから羅生門も荒れ果てたまま打ち捨てられ、いつしかここは無法者のたまり場となり、さらには死体置き場になっていました。ある男はそんな羅生門に行きついたのです。
そしてふと羅生門の楼へ上る梯子を見つけ、上ってみると人の気配を感じます。そこで出会ったのが不気味な老婆。なんとこの女は死体から黙々と髪を引き抜き続けていたのでした。
恐る恐る近づき、その理由を問いただしてみると・・・というのが羅生門の大きな流れです。
ま~それにしても芥川の短編技術の見事なこと!羅生門を上り、夜の闇に現れる不気味な気配。そこに何がいるのかと大人になっても変わらず夢中になって読んでしまいます。まるで映画的な手法と言いますか、臨場感がとてつもないです。
この作品である一人の男が悪の道へと踏み出すその瞬間を決定的に捉えた芥川。その微妙な心理状態を絶妙にえぐり出したラストは絶品です。
そしてこの『羅生門』の中でもある一節が私の中でとても印象に残っています。それがこちらです。
どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑はない。選んでいれば、築土の下か、道ばたの土の上で、饑死をするばかりである。そうして、この門の上へ持って来て、犬のように棄てられてしまうばかりである。
新潮社、芥川龍之介『羅生門・鼻』P10
「どうにもならない事を、どうにかする為には、手段を選んでいる遑はない。」
この言葉は酸いも甘いも知った大人だからこそ味わえる迫力があります。これは年を取れば取るほどさらに実感される言葉ではないでしょうか。『羅生門』は厳しい。厳しい厳しい世の有り様をこれでもかと見せつけます。この言葉があるからこそこの後の物語がリアルなものとして迫ってくるのです。悪の道へ踏み出すというのはどういうことなのか、まさにそこへと通じていきます。実に素晴らしい。
そして本作『羅生門』の題材について巻末では非常に興味深い解説がなされていました。芥川龍之介は日本の古典作品を深く読み込み、それを現代に蘇らせて作品化していたとのこと。特に『今昔物語』には深い共感があったようで、その「ミステリアスな話」に惹かれていたそうです。芥川は『今昔物語』について次のように述べています。
『今昔物語』の作者は、事実を写すのに少しも手加減を加えていない。これは僕等人間の心理を写すのにも同じことである。もっとも『今昔物語』の中の人物は、あらゆる伝説の中の人物のように複雑な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べている。しかし今日の僕等の心理にも如何に彼等の心理の中に響き合う色を持っているであろう。(略)
こういう作者の写生的筆致は当時の人々の精神的闘争もやはり鮮かに描き出している。彼等もやはり僕等のように娑婆苦の為に呻吟した。『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを写している。それから『大鏡』は最も簡古に彼等の苦しみを写している。最後に『今昔物語』は最も野蛮に、―或は殆ど残酷に彼等の苦しみを写している。(略)
『今昔物語』は前にも書いたように野性の美しさに充ち満ちている。その又美しさに輝いた世界は宮廷の中にばかりある訳ではない。従って又この世界に出没する人物は上は一天万乗の君から下は土民だの盗人だの乞食だのに及んでいる。いや、必しもそればかりではない。観世音菩薩や大天狗や妖怪変化にも及んでいる。若し又紅毛人の言葉を借りるとすれば、これこそ王朝時代のHuman Comedy(人間喜劇)であろう。僕は『今昔物語』をひろげる度に当時の人々の泣き声や笑い声の立ち昇るのを感じた。のみならず彼等の軽蔑や憎悪の(例えば武士に対する公卿の軽蔑の)それらの声の中に交っているのを感じた。
新潮社、芥川龍之介『羅生門・鼻』P289-291
なるほど、芥川龍之介はこうして古典から現代に響くエッセンスを抽出していたのですね。
私もいずれ親鸞について小説を書きたいと思っています。であればやはり古典をしっかり読むこと、そして当時の時代背景や現代に通ずるものを感じ取る嗅覚が必要であるなと強く感じました。過去を学ぶことは今に通ずる学びであるということを改めて芥川龍之介に教えてもらいました。
『羅生門』はそうした意味でも非常に興味深い作品でありました。
そして本書には『羅生門』の他にも数々の名作が収録されています。その中でも同じく表題作となっている『鼻』も面白い作品です。
『羅生門』は掲載した発表誌がイマイチ不人気であったため執筆直後は全くの無反響に終わってしまいましたが、この『鼻』こそあの夏目漱石によって大絶賛され芥川龍之介が一躍文壇に躍り出るきっかけとなった作品なのでありました。夏目漱石、芥川龍之介の終生続く師弟関係はこの作品から始まったのでした。
『鼻』は上の本紹介にもありますように、あごの下までぶら下がる鼻をなんとか短くしたいと悩む偉いお坊さんが悪戦苦闘し短くすることに成功するも、今度は短くなったことが気になり悩み出すという何ともユーモラスな作品です。『文豪ナビ 芥川龍之介』でもこの作品について次のように解説されています。
『鼻』や『芋粥』は、人間の望みについて、アドバイスしている作品です。もし、あなたが何かよいことをして、ご褒美として神様・仏様・お天道様から、「何でも、おまえの願いをかなえてやるぞ」と言われたとします。そのときあなたは、何を望みますか。「お金」ですか?「出世・名声・権力」ですか?それとも、「愛」なんて人もいるかもしれませんね。いやいや「健康・長寿」だという人もあるでしょう。
ところが、この「願い」というのが、くせ者なのです。人間には「願ってはいけないこと」や「どんなに願ってもかなわないこと」がある、と芥川は読者に教えています。
『鼻』では鼻の長いお坊さんが「短い鼻」を希望して、それを実現するのですが、その結果、自分らしさを失ってしまいます。つまり、お坊さんは、「自分」ではなくて「まったく自分でない人物」になりたいと願ってしまった。現実から逃避するだけの不毛な願いは、人間をかえって不幸にするのです。
新潮社、『文豪ナビ 芥川龍之介』P24-25
たしかに『鼻』では長い鼻を題材にそうした人間の不毛な願いを巧みに描き出しています。
そして巻末の解説ではこの小説がロシアの作家ゴーゴリの『鼻』を大いに参考にしていたことも説かれていました。
ゴーゴリもまさに「鼻」をテーマに優れた短編小説を書いています。芥川はこの名作を参考に『鼻』を書き上げていたのでありました。本書に収録されている『芋粥』も同じくゴーゴリの『外套』を参考にしているようです。やはりロシア文学が日本文学に与えた影響というのは並大抵ではないことを感じます。
『羅生門』は日本の古典を、そして『鼻』はロシア文学を参考に芥川は作品を書き上げたのでありました。やはり無からは何も生まれません。どんな傑作もたゆまぬ鍛錬や洞察力、先行研究から始まるのだなということを感じました。巻末の解説でも彼の創作態度も「書斎中に参考書籍を山のように積み上げ、あたかも論文を書くようなものだった」と説かれていました。まさに芥川は文学研究をするかのようにこれらの作品を生み出していたのです。
私もこうした姿勢を見習い、これからも精進したいと思います。
以上、「芥川龍之介『羅生門・鼻』あらすじと感想~大人になった今だからこそ読みたい!悪へと進むその決定的瞬間を捉えた名作!」でした。
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