森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』あらすじと感想~インド入門におすすめ!宗教とは何かを考えさせられる名著!
森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』~インド入門におすすめ!宗教とは何かを考えさせられる名著!
今回ご紹介するのは2003年に中央公論新社より発行された森本達雄著『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』です。
早速この本について見ていきましょう。
弁財天信仰、輪廻転生の思想などヒンドゥー教は、直接に、あるいは仏教を通して、意外にも古くからの日本人の暮らし、日常の信仰、思想に少なからぬ影響を与えてきた。本書は、世界四大宗教の一つでありながら、特定の開祖もなく、核となる聖典もない、いわばとらえどころのない宗教の世界観を日常の風景から丹念に追うことによって、インド社会の構造から、ガンディーの「非暴力」の行動原理までも考察する。
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インド、ヒンドゥー教といえば上の写真のような礼拝の儀式を連想してしまう私でしたが、この本ではこうしたヒンドゥー教の成り立ちや思想だけでなく、一般信者の日常レベルでの信仰についても知ることができます。
謎の国インド。同じアジアでありながら異世界のようにすら思えてしまうインドについてこの本では楽しく学ぶことができます。著者の語りもとてもわかりやすく、複雑怪奇なインド世界の面白さを発見できます。「なぜインドはこんなにも独特なのか」ということを時代背景と共に知ることができますのでこれは興味深いです。
その中でも特に印象に残ったのが「ヒンドゥー教とはそもそも何なのか」について述べられた次の箇所です。少し長くなりますが非常に重要な箇所ですのでじっくり読んでいきます。
ヒンドゥー教とはこんな宗教
私も初めてのホーリー祭に興奮して、少年時代の雪合戦のようにはしゃぎまわったせいか、さすがに心地よい疲れを感じ、友人の宗教学の教授と木陰に坐りこんだ。そのとき、ふと芭蕉の名句「おもしろうて やがて悲しき 鵜舟かな」を思い出し、日本の俳諧に興味をもっていた友人にその句を紹介し、共感しあったことを覚えている。それから二人は、しばらく春のけだるい沈黙のなかで、それぞれの想いにふけっていたが、そのとき私の脳裏に去来したのはこの半年あまり、私の思いを讃嘆・嫌悪・狼狽・憧憬とさまざまに翻弄しながら、なかなかその実体を現わさぬヒンドゥー教という得体の知れぬ宗教のことであった。私はホーリー祭の開放感から、思いきって自分の疑問を宗教学者にぶつけてみた―「ヒンドゥー教というのは、ひとことで言うと、どんな宗教でしょうか?」と。
敬虔なヴァイシュナヴァ(ヴィシュヌ宗)信徒である教授は、外国人の唐突な質問に一瞬驚いたようであったが、やがて私の質問の意味が了解できたらしく、「ヒンドゥー教というのは、譬えて言えば、このような宗教だと言えるかもしれません」と、語りはじめた。
ある日、村の少年が学校帰りに道端で瀕死の小鳥を見つけた。少年は、二度、三度羽をひくひくふるわせ、やがて身動きしなくなった小鳥の死を見とどけると、なにを思ったか、傍らの木片で小鳥の周りにぐるりと輪を描いて走っていった。つぎにそこを通りかかったのは、畠仕事を終えて帰る農夫であった。彼はしばらく、輪のなかの小鳥の死骸を不思議そうに見ていたが、肩から鍬をおろすと、穴を掘って小鳥を埋葬し、その上に小石を積んで帰っていった。夕方いつものように、瓶を頭に乗せた女たちが、にぎやかに談笑しながら村の共同井戸へ水汲みにやってきた。女たちは小さな石塚の前座で来ると、急に黙って立ち止まった。女たちは互いにひそひそ話し合っていたが、それぞれ道路わきの藪から野花を摘んで塚に手むけ、サリーの縁で顔をおおうと、ひとしきりお祈りをして立ち去った。
こうして、いつしか小鳥の塚は村人たちの新しい信仰の場となった。だれ言うとなく、そこにはヴィシュヌ神(シヴァ神と並ぶヒンドゥー教三大主神の一つ)の従者の霊鳥ガルダ(金翅鳥)だということになった。信心深い村長が長老たちを集めて、新しい祠を建てる相談がまとまった。数か月後、どこからともなく、額にヴィシュヌ宗の印をつけたサードゥ(行者)がやってきて、祠の傍らに小屋を建てて住みつき、毎日朝夕の祭祀をおこなった。村人たちは貧しい暮らしのなかから、行者のもとに食べ物や衣類を届けた。
翌年の春の田植の前に、村をあげて祠の前で豊作を祈願したところ、その年は旱魃にも洪水にも見舞われず、例年にない豊作であった。この噂がロづてにひろがると、近隣の村々から善男善女たちが徒歩や牛車で参詣に押しかけるようになった。こうして、名もなき寒村に立派な寺院が建ち、その地方の人びとのヴィシュヌ信仰の拠点のひとつとなったそうである。
この譬え話がはたしてインドのどこかで現実にあった話かどうか、私は聞きもらしたが、それを問う必要はなかった。ここまで話すと、教授の顔から微笑が消えて、急に言葉があらたまった―「ヒンドゥー教は、キリスト教やイスラーム教のように宗教を貫く教義・信条が信仰を導くのではなく、教義や信条らしいものはそれぞれの宗派にあるにはあっても、なによりも信仰がすべてに優先します。言いかえると、信仰が教義や信条をいかようにも自在に解釈していきます。ですから問題は尊師です。村にやって来た行者がたまたま、この国にごまんといる金儲け主義のインチキ聖者だったら、村人たちは怪しげな予言にふりまわされ、しこたま金品をしぼりとられ、あげくのはてに女房までさしだすはめになるかもしれません。いっぽう、彼がほんものの求道者・解脱者であれば、村人たちは深遠な真理に導かれ、日々、信仰と人生のよろこびを味わい、家族と仕事を愛し、人を信じて生きる―それこそ地上に天国を実現することができましょう」。
たしかにヒンドゥー教には、偶像崇拝もあれば偶像否定もある、功利思想もあれば無所有の思想もある、また人間虐待や動物犠牲もあれば、非暴力や自己犠牲もある、さらには奔放な性愛礼讃もあれば、息づまるような禁欲主義もある。この意味では、ヒンドゥー教は宗教の「百科全書」、言いかえると、なんでもありの宗教である。そして、そのいずれもが、経典や教義を「いかようにも」解釈することによって正当化されてしまうのである。したがって、ヒンドゥー教は聖と俗、創造と因襲が隣り合わせた宗教であり、そのいずれに向かうかは導師しだいだという教授の指摘は、なるほどと納得がいく。ヒンドゥー教はまた、ヒマラヤ山中の清らかな氷河ガンゴートリーに源を発し、ヒンドゥスターンの平原に生きる人びとのいっさいの生のいとなみを呑みこみながら蛇行する黄濁の川ガンジスが、そのまま「聖なる川」として、ヒンドゥーの崇拝を集めているのに譬えることができるかもしれない。次章では、その「聖なる川ガンジス」の時間の流れをさかのぼってみよう。
中央公論新社、森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』P58-62
私たちからすると複雑怪奇な魔境にも見えてしまうインド。そのバックグラウンドにはこのような宗教的事情があったのですね。これは非常に興味深かったです。
他にもこの本ではインドの興味深い宗教事情をたくさん知ることができます。そしてそれらはインドの宗教にとどまらず、「そもそも宗教とは何なのか」ということまで考えさせられることになります。
これは面白い本でした。どんどんインド沼にはまりつつある自分を感じています。
ぜひぜひおすすめしたい一冊です。
以上、「森本達雄『ヒンドゥー教―インドの聖と俗』~インド入門におすすめ!宗教とは何かを考えさせられる名著!」でした。
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