(38)晩年のベルニーニ作のサンタンジェロ橋の天使像~現在サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会所蔵の名彫刻
【ローマ旅行記】(38)晩年のベルニーニ作のサンタンジェロ橋の天使像~現在サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会所蔵の名彫刻
今回ご紹介するのはサンタンジェロ城目の前にあるサンタンジェロ橋に設置されている二体の天使像だ。
ローマの名所として知られるこのスポットであるが、実はここにもベルニーニの作品があったのである。
今回の記事ではそんなベルニーニ作の天使像についてお話ししていく。
では、その天使像が作られる経緯についてまずは見ていこう。
新教皇クレメンス九世と晩年のベルニーニ
ベルニーニはこれまで五人の教皇に仕えたが、残る生涯を、さらに三人の教皇のもとで送ることになる。その最初はジュリオ・ロスピリオージ、つまりクレメンス九世であった。クレメンス九世はウルバヌス八世やアレクサンデル七世と同様に、ピストイア出身のトスカナ人で、べルニーニの最大のパトロンとなったこのニ人の教皇に似て、彼もまた詩才を誇る教養人だった。とりわけ、オペラの脚本を著わしたことで有名である。一六三二年二月にバルべリー二宮で上演された、オペラ史上名高い「サン・タレッシオ」は、彼の脚本にステファノ・ランディが作曲したものであった。この他にも、彼は重要な脚本を多数著わしている。だから新しい教皇が誕生すると、いつも辛辣な言葉を浴びせるローマの落首作家たちも、この時ばかりは教皇の即位に手ばなしの讃意を表わし、黄金時代の再来といわんばかりの歓迎ぶりを示したのであった。だが、この「黄金時代」は不幸にしてわずか二年しか続かなかったのである。
ジュリオ・ロスピリオージはかつてバルべリーニ家周辺の文人グループの一員であった。彼のオペラの舞台美術をべルニーニが担当したという通説は今日否定され、べルニーニが参与したのはそのうちのごく一部だったといわれる。しかし、当然のこととして教皇はべルニーニと親交があり、即位するとその日のうちに、この三〇年来の旧友を教皇庁に呼んだと伝えられる。またクレメンス九世は、ウルバヌス八世やアレクサンデル七世と同じように、べルニーニを時々食事に招いたり、彼のアトリエに作品を見に出かけたりした。こうした二人の親密な交わりは、次にあげるエピソードからも伝わってこよう。
即位した時、教皇は六十七歳で、さほどの年ではなかったが、体が弱く不眠症に悩んでいた。そこで教皇は、べルヴェデーレの中庭にある噴水の水音を聞いて眠りにつこうと考え、ベルニーニに何とか水音が聞けるよう工夫せよと命じた。しかし、さすがのべルニーニをしてもこれは不可能だったので、彼は一計を案じ、教皇の寝室の隣りに車輪が紙の玉を打って音を出す仕掛けを作った。装置に満足した教皇は、べルニーニは大きなものだけでなく小さなものに関しても天才だとたたえ、あくる日当人に会うと、「全くもって騎士ベルニーニよ、我が治世の最初の日には、おまえにだまされるとは思ってもみなかったぞ」と親愛の情を込めて言った、というのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P191-192
※一部改行した
この肖像画を見てもわかるようにいかにも聡明な雰囲気で明るい才気を感じる。アレクサンデル七世という最強のパトロンが亡くなった後も、こうしてベルニーニは芸術に理解ある新教皇と良好な関係を築くことになった。
そしてこの教皇の命で造営が進められたのがサンタンジェロ橋だったのである。
サンタンジェロ橋の造営とベルニーニの天使像
このクレメンス九世が即位した時には、サン・ピエトロ広場の工事はまだ継続中であった。この工事を継続する一方で、教皇がまず手がけたのはサン・タンジェロ橋の整備とその装飾である。サン・タンジェロ橋は当時ヴァチカンと市中を結ぶ唯一の橋だった。したがって各地からローマにやってきた巡礼者は、土産物屋やロザリオ屋が軒を並べるコロナーリ通り(コロナーリとはロザリオ屋の意、この通りは今日骨董屋街として有名である)を通って、このサン・タンジェロ橋を渡り、それからボルゴ地区を抜けてサン・ピエトロに詣でるのを常とした。もともとハドリアヌス帝の廟(後に要塞となり、カステル・サンタンジェロ、すなわち聖天使城と呼ばれる)に通ずるポンテ・エリオに由来するこの橋は、一五三六年にカール五世がローマを訪れた際にストゥッコの彫刻で装飾されたことがあった。
しかしクレメンス九世が即位した当時は、橋の入り口に一五三四年に置かれた無愛想な聖パウロと聖ペテロの像があるきりで、他の装飾はなかった。そこでクレメンス九世は、この橋をその名にふさわしく天使で飾り、その天使にキリストの受難を表わす持物を持たせて、この橋を「受難の道」にしよう、そうすればそれは聖ぺテロの墓と司教座への巡礼のよき導入部となるにちがいない、と考えたのである。
このサン・タンジェロ橋を飾る天使像は、都合一〇体制作されることになった。ベルニーニはこの制作全体を統轄するとともに、一〇体のうち二体を自ら制作し、残りの八体は当時口ーマで活躍していた八人の彫刻家に委任することになる。天使はそれぞれ柱、笞、いばらの王冠、聖顔布、聖衣とサイコロ、釘、十字架、INRIの銘、海綿、そして槍という受難を表わす持物を手にしている。これらのうちべルニーニが制作したのは、INRIの銘をもつ天使といばらの王冠をもつ天使であった。
しかしこのニつの天使像は、結局橋の上には置かれずに終ってしまう。というのは、おそらくまだ完成しないうちと思われるが、べルニーニの仕事場にこの作品を見に訪れた教皇が、風雨にさらすのは忍びないとして、コピーをもってこれに替えさせたからである。したがって、今日橋の上にある像は弟子の手に成るコピーてある。けれども、少しでも自分自身の仕事を残そうと考えたべルニーニは、ニつのうち銘をもつ天使の方のコピーを自ら制作した、と伝記作者は伝えている。実際、この像は単なるコピーに終わることなく、全体といい、恍惚とした顔の表情といい、他の像をはるかに凌駕する出来映えを示している。
これらサン・タンジェロ橋の天使たちは、人々が橋を渡りながら像を見上げることを想定して制作された。したがって、べルニーニの他の彫刻作品とは違って、特定の視点は設定されていない。それらの像は歩くにつれて微妙かつダイナミックに変貌し、しかも柱廊の聖人像と同じ様に青空によく映えるように考えられている。また制作に際して下から見上げた時の効果が考慮されたことは、たとえば天使がもつ柱が円柱ではなく円錐形になっている点によく現われているといえよう。このようなサン・タンジェロ橋の装飾は、作品とその環境に対するべルニーニの非凡な感覚、今日流に言えば「環境芸術家」としての才能をもう一度確認させてくれるのである。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P193-194
※一部改行した
たしかに左の『INRIの銘を持つ天使』の衣のうねりや恍惚の表情はベルニーニを感じる。
それにしても、上の解説の最後に出てきた「環境芸術家」という言葉が印象深い。サン・ピエトロ大聖堂のバルダッキーノや『カテドラ・ペトリ』もまさに空間全体を作品に巻き込むものであったが、この天使像についてもまさにそれが言えるようだ。
そしてベルニーニの天使像のあまりのクオリティから、それを野ざらしにするのは忍びないという教皇の判断は実に素晴らしいと思う。教皇の芸術への理解とベルニーニへの親愛の情がまさにうかがわれるエピソードではないだろうか。
サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会に置かれたベルニーニのオリジナルの天使像
さて、コピーに替えられた二体の天使像は、教皇の実家ロスピリオージ家のパラッツォに運ばれるはずであったが、なぜかベルニーニの死後も彼の家に伝えられ、一七二九年に子孫によって彼の家のはす向いにある教会サン・タンドレア・デㇽレ・フラッテに寄贈された。それらの像は今日も同教会の身廊の奥に、高い台座にのせられて安置されている。これらの作品を見ると、衣襞が入念に仕上げられ、また表面も磨かれているのに気づく。つまりこれらの像は、初めから室内に置くことを想定して仕上げられたのである。
かつてべルニーニはシャントルーに、自分の作品は神の恩寵の賜物だと語ったことがあった。晩年の彼は以前にも増してそうした宗教性を強めてゆく。そして彼は神の御心を思い、死を想い、心の平安を希求しながら、その神への思いを天職である大理石の彫刻に託そうとしたのである。そのため彼は、従前と変わらない厳しい態度で仕事に向った。それは、安息日にも多少の仕事をしてもよいという許可を教皇に願い出たことにも現われている。
こうした晩年のベルニーニの心境は、この二つの天使像によく反映しているといえるだろう。それらはキリストの受難を想う痛みと、それによってみたされる神秘とをドラマティックに表わしているのだが、その表現は以前に比べるとより静謐に、より自己完結的になっている。
そしてこうした宗教性からすると少々意外に思えるが、実はこの二つの作品も古代彫刻の研究から出発しているのである。再三繰り返したとおり、古代の作品を範とせよという言葉は、単なる理論ではなく、まさにべルニーニ自身が実践していたことだったのである。この場合は、現存するボッジェット(粘土の習作)とデッサンから、べルニーニはまず古代の作品を範としてヌードによる基本形態を考え、それに衣襞を加えて自分の意にかなう造形を追求したことが分かる。
このうち銘をもつ天使の場合、最初のヌードの形態を研究したデッサンは、べルニーニが最も尊重していた古代の作品《アンティノウス》に基づいている。彫刻を始めたばかりのべルニーニにとって、いわば聖書ともなったこの彫刻に七十歳になんなんとする今再び立ち返ったのである。もちろん、天使のプロポーションは男性像である《アンティノウス》のそれとは異なっているが、両者の身体表現の違いは、べルニーニがパリで語ったことを想い出させる。
すなわち彼は、モデルをデッサンする時には脚は長目に、肩は男は広目で女は狭く、足は小さ目にした方がよいと語り、また「ほとんどの男は、非常に年寄りでない限り、一方の脚にのみ体重をかける」と言って、いわゆる「コントラポスト」の重要性を指摘しているのである。つまりべルニーニは、この天使の像を作るのに、《アンティノウス》のプロポーションとコントラストから出発して、次第にそれを天使にふさわしい肉体表現に近づけ、さらにそれに内面を暗示するような衣襞を加えて最終的な形態とするという手続きを踏んだのだ。
このように周到に準備したベルニーニは、大理石にかかった時には、自分のなすべきことをすべて承知していたのである。こうして完成された二体のうち、とりわけ銘をもつ天使の像は、べルニーニの数ある作品の中でも最も深く心に残るものの一つだと筆者は思う。
吉川弘文館、石鍋真澄『ベルニーニ バロック芸術の巨星』P195-196
※一部改行した
ベルニーニの二体の天使像があるサンタンドレア・デッレ・フラッテ教会はスペイン広場にほど近いエリアにある。
そしてこの教会のまさしく向かいにはベルニーニの家がある。
話には聞いていたがあまりに目の前なのでものすごく驚いた。
では教会の中に入っていこう。
私が初めてこの教会に入った時はちょうど夕方のお祈りの時間で、この聖堂が満杯になるほどの信者さんがお祈りをしていた。この教会は今でもローマ市民の信仰の拠り所となっているそうだ。そのため他の観光地化された教会とはかなり雰囲気が異なる。その時は私も撮影は控えたので、これは後日再訪した時の写真だ。
中央祭壇付近に二体の天使像が安置されている。
たしかにオリジナルで見た天使像のクオリティは全く違った。磨き上げられているのもわかるし、なにより伝わってくる衣の躍動感が別物だ。特に『INRIの銘を持つ天使』は圧巻としか言いようがない。晩年だからといってベルニーニの腕は全く衰えることがない。むしろその洗練具合が増しているのではないかとすら思える。
そして不思議なことに私はこれら二体の天使像を見ていて、なぜか京都三十三間堂の風神と雷神を連想してしまった。天使たちの奇跡的な衣の波打ちを見て私は大好きな風神雷神を連想してしまったのかもしれない。
そしてこの教会でぼんやりと時を過ごしていてふと思ったことがある。
信仰の拠り所として大切にされているこの教会に置かれたこの天使たちはきっと幸せ者なのではないだろうかと。
ベルニーニの信仰心が強く刻み込まれたこの像は美術品として、あるいは観光の目玉として置かれるより、こういう教会でこそ生きるのではないかと思ったのだ。
ベルニーニ彫刻の中でもこの天使像は特異な位置づけにあるものなのではないだろうか。この教会はスペイン広場からも近いのでぜひとも訪れてみてはいかがだろうか。
続く
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※以下の写真は私のベルニーニメモです。参考にして頂ければ幸いです。
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