ドリーニン編『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』あらすじと感想~ドストエフスキーのローマ滞在について知るためにも
ドリーニン編『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』概要と感想~ドストエフスキーのローマ滞在について知るためにも
今回ご紹介するのは1989年に理想社によって発行されたドリーニン編、中村健之助訳『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』です。
早速この本について見ていきましょう。
アポリナーリヤ・スースロワとはいったい如何なる女性だったのか?20歳も年上のドストエフスキーを手玉にとった悪女か、それとも作家の精神のドラマにまきこまれた犠牲者か?小説『賭博者』のヒロイン、ポリーナのモデルである彼女は、これまで多くの伝記作家によって、《魔性の女》のレッテルを貼られてきた。本書は、スースロワ自身の日記・小説・手紙によって、彼女の素顔、その思想と生活、作家に与えた影響、19世紀の女性知識人の位置を明らかにする貴重な一冊である。とりわけ、ドストエフスキーとのイタリア旅行やゲルツェンなど亡命ロシア人との交流は興味深い。ドリーニンの詳細な解説とともに、この集成は今後のドストエフスキー研究の基本的文献となろう。
Amazon商品紹介ページより
この日記の著者アポリナーリヤ・スースロワはドストエフスキーの恋人として知られる女性です。しかもただの恋人ではありません。上の本紹介にもありますように『賭博者』の主要人物ポリーナのモデルともなった強烈な個性を持った人物でありました。
ドストエフスキーはこの女性に熱烈に恋し、まさに自分の小説の登場人物のように煩悶し苦しみます。
特にスースロワとの1863年の外国旅行中のエピソードは非常に有名です。
ここでは長くなってしまうので全てはお話しできませんが、ドストエフスキーのダメ人間ぶりがとてつもなく出ています。と言いますのも、ドストエフスキーはパリでスースロワと待ち合わせしていたのですが、あろうことかその途中に賭博に熱中し、スースロワを一人待たせてしまうのです。幸いこの時のドストエフスキーは賭博に勝ち、兄に送金していますが、もはやこの時にはギャンブル中毒が始まっていました。この時の体験が『賭博者』につながっていきます。
そして、ドストエフスキーにとってはショックなことに、スースロワは「ドストエフスキーの遅刻」の最中にパリで新たな恋人を見つけていました。
その二人の合流の瞬間はまるで小説かのような修羅場です。ドストエフスキーの外国旅行はスタートから波乱万丈でした。
さて、この本ではそんなドストエフスキーとスースロワの外国旅行について知ることができます。
上の本紹介にもありましたように、スースロワについては「魔性の女」というレッテルが張られがちではありました。
ですが「アポリナーリヤ・スースロワとはいったい如何なる女性だったのか?20歳も年上のドストエフスキーを手玉にとった悪女か、それとも作家の精神のドラマにまきこまれた犠牲者か?」と述べられていたように、ことはそんなに単純ではありません。
この時のドストエフスキー自身にも大きな闇があります。さらにはその二人の相互作用で生じた悲劇もあります。
そうした二人の姿をこの本では知ることができます。本書の解説も丁寧でこれは非常にありがたいです。
そして私がこの本で注目したのはドストエフスキーのローマ滞在についてでした。
この旅で二人はパリ→バーデン・バーデン→ジュネーブ→トリノ→ジェノア→リヴォルノ→ローマ→ナポリ→リヴォルノ→トリノ→ベルリンを巡ります。
ドストエフスキーはこの旅の中でローマに立ち寄り、サンピエトロ大聖堂やコロッセオを見物しています。
私はドストエフスキーがこれらローマの象徴についてどう思うか非常に興味がありました。
と言いますのも、ドストエフスキーはローマカトリックを強く批判していました。ですがバチカンはミケランジェロやベルニーニといった天才たちによって作られた最高の芸術都市です。しかもベルニーニはローマを劇場的な芸術の街へと変貌させました。ベルニーニについては当ブログでもこれまで紹介してきました。
ベルニーニは劇場的、演劇的効果を極めた芸術家です。彼の建築や彫像には観る者を魅了する圧倒的な表現力があります。それに対しドストエフスキーも実は演劇的効果を極めた作家として知られています。このことについてはジョージ・ステイナーの『トルストイかドストエフスキーか』で述べられていました。なんとドストエフスキーはシェイクスピア的な作風の持ち主なのです。特に『カラマーゾフの兄弟』は『リア王』的な悲劇で、そのシナリオだけでなく表現技法そのものがシェイクスピア的なのだそうです。
そう考えるとローマカトリックが嫌いなドストエフスキーではありますが、その本山サンピエトロ大聖堂やローマのベルニーニの舞台芸術に心奪われずにいられるだろうかという興味が浮かんできたのでありました。
このことについてはドストエフスキーの1863年9月18日ストラーホフ宛ての書簡が遺されています。彼は長い手紙の後に、追伸という形でローマについて言及しています。
妙でしょう、ローマから手紙をだしているのに、ローマのことが一言もないのですからね。しかし、いったいなにを書ことができましょう?ああ!はたしてこれが手紙に書けるでしょうか?一昨日の夜到着して、昨日は午前中に聖ペトロを見物しました。ニコライ・ニコラエヴィチ、背筋に寒けを感じるほど強烈な印象でした。今日はForumとその廃墟を残らず見物しました。それから大劇場!いやはや、貴兄に何をいうことがありましょう……
河出書房新社、米川正夫訳『ドストエフスキー全集16』P442
たったこれだけです。
1862年の旅行記『冬に記す夏の印象』であれだけ饒舌だったドストエフスキーが、あのローマについてたったこれしか述べないのです。これは逆に不思議ですよね。
これは完全に私の想像なのですが、ローマカトリックに対する嫌悪感とベルニーニの演劇的芸術の魔力の恐るべき葛藤がドストエフスキーの中に生まれていたのではないでしょうか。
おそらく上の言葉からしても、ローマの魅力にドストエフスキーはあっという間に魅了されてしまったことでしょう。ですが冷静になって考えるとその裏側も考えてしまう・・・『カラマーゾフの兄弟』であれだけカトリック批判をやってのけたドストエフスキーです。しかも自身が演劇的手法を用いる作家ですから、ベルニーニの意図するところも見抜いていたことでしょう。
そうなってくると「そう簡単には魅了され続けはせんぞ」という思いが浮かんできてもおかしくないかもしれません。
あるいはスースロワとうまくいっていないことから最悪の精神状態に落ち込み、そんな状況では最初の感動はどこへやら・・・といったことになっていたのかもしれません。
これらはあくまで私の想像ですが、ドストエフスキーがローマにも来ていたというのは非常に大きな意味があるのではないかと思います。
そしてその瞬間に同行していたのがまさにこのスースロワになります。スースロワはそれを日記にしたためており、それを読めるのが本書『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』になります。
ドストエフスキーがローマで何をしていたのか、スースロワとどんなやり取りをしていたのかもこの本で知ることができます。もちろん、限られた情報ではありますが貴重な情報であることに変わりはありません。
私にとってローマとドストエフスキーを知る上で非常にありがたい1冊でした。
以上、「ドリーニン編『スースロワの日記―ドストエフスキーの恋人』~ドストエフスキーのローマ滞在について知るためにも」でした。
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