(48)イギリスで上流階級となったエンゲルスの優雅な社交生活とは
イギリスで上流階級となったエンゲルスの優雅な社交生活とは「マルクス・エンゲルスの生涯と思想背景に学ぶ」(48)
上の記事ではマルクスとエンゲルスの生涯を年表でざっくりとご紹介しましたが、このシリーズでは「マルクス・エンゲルスの生涯・思想背景に学ぶ」というテーマでより詳しくマルクスとエンゲルスの生涯と思想を見ていきます。
これから参考にしていくのはトリストラム・ハント著『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』というエンゲルスの伝記です。
この本が優れているのは、エンゲルスがどのような思想に影響を受け、そこからどのように彼の著作が生み出されていったかがわかりやすく解説されている点です。
当時の時代背景や流行していた思想などと一緒に学ぶことができるので、歴史の流れが非常にわかりやすいです。エンゲルスとマルクスの思想がいかにして出来上がっていったのかがよくわかります。この本のおかげで次に何を読めばもっとマルクスとエンゲルスのことを知れるかという道筋もつけてもらえます。これはありがたかったです。
そしてこの本を読んだことでいかにエンゲルスがマルクスの著作に影響を与えていたかがわかりました。かなり驚きの内容です。
この本はエンゲルスの伝記ではありますが、マルクスのことも詳しく書かれています。マルクスの伝記や解説書を読むより、この本を読んだ方がよりマルクスのことを知ることができるのではないかと思ってしまうほど素晴らしい伝記でした。
一部マルクスの生涯や興味深いエピソードなどを補うために他のマルクス伝記も用いることもありますが、基本的にはこの本を中心にマルクスとエンゲルスの生涯についてじっくりと見ていきたいと思います。
その他参考書については以下の記事「マルクス伝記おすすめ12作品一覧~マルクス・エンゲルスの生涯・思想をより知るために」でまとめていますのでこちらもぜひご参照ください。
では、早速始めていきましょう。
乗馬、狩猟を愛し、貴族ら上流階級が集う狩猟クラブに出入りするエンゲルス
ヴィクトリア朝時代のイギリスで最大規模の狩猟大会であるチェシャー・ハウンズは、「貴族的なその州の一級の紳士たちによるもので」、その起源は、ジョン・スミス=バリー閣下が一七六三年にべルヴォアとミルトンの血統の猟犬を一群れ集めた時代までさかのぼるものだった。
そして、『ザ・フィールド』誌によれば、イングランドでも有数の狩猟のしやすい環境で、彼らは集まっていた。「チェシャー州には公園や大邸宅が多数あり、貴族は大昔から最も熱心な狐狩りの擁護者だった。実際、そうした感情が上流階級のあいだでこれほど万遍なく広まっている州はほかにはない」。(中略)
チェシャー・ハウンズの狩猟大会は十一月から四月までのシーズン中、週にニ、三度は州内を縦横に駆け巡っていた。しかし、これは安い趣味ではなかった。
チェシャー・ハント・カヴァート基金、と呼ばれていた団体の会費は年間一〇ポンドだが、厩舎費用は年間七〇ポンドを上回る可能性があった(現在の貨幣価値に換算すると、年間八〇〇〇ポンド近くになる)。さらによい狩猟馬の価格が加算される。
「土曜日に馬商人のマリーに会って、何か手頃なものがないか聞きました……七〇ポンドくらいで一四ストーン〔約九〇キロ〕を乗せて猟犬とともに走れるものです。彼には心当たりがあるようでした」と、ジェームズ・ウッド・ローマクスからエンゲルスに宛てたメモは始まっている。この人物が彼の馬の代理人だったようだ。
ありがたいことに、狩猟のような世間体のよい活動の費用を賄うこととなると、彼はいつでも父親の資金に頼ることができた。「僕へのクリスマス・プレゼントとして親父さんが馬を買う金をくれ、よい出物があったので、先週それを購入した」と、エンゲルスは一八五七年にマルクスに書いた。「でも、君やご家族がロンドンで不運な目に遭っているのに、僕が馬をもちつづけるべきなのか非常に悩ましい」
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P267-268
※一部改行しました
厩舎の費用70ポンドは現代の貨幣価値に換算すると8000ポンドとありますが、これを円換算すると120万円ほどになります。(※この本が出版された2009年のポンド終値150円を基準。この時代のポンドの価値については諸説あり、他の説では1860年代の1ポンドは6,5万円~8万円で推移したというのもあります。)
しかも、これはあくまで厩舎費のみであり、ここに年会費や馬そのものの金額も加わります。上の引用の中で出てきた馬は70ポンドです。手頃な馬ですらこうですからいい馬を買ったらもっとかかります。
となるとかなりの金額がこの狩猟クラブに費やされていたことでしょう。
このヴィクトリア朝の金銭事情については著者は次のような補足も付け加えています。
当時の背景をいくらか説明すると、社会評論家のダドリー・バクスターが、一八六一年の国勢調査を利用して、ヴィクトリア朝中期のイングランドの収入に関する階級分析を行なっている。中流階級に入り込むには、課税対象となる一〇〇ポンド以上の収入を稼ぐことであり、聖職者、陸軍士官、医師、公務員、法廷弁護士などは通常、二五〇ポンドから三五〇ポンドの給与で働いていた。裕福な中流の上の階級に加わるには、一〇〇〇ポンドから五〇〇〇ポンドの年収を稼げなければならなかった、とバクスターは考えた。エンゲルスの裕福さとは対照的に、ヴィクトリア朝時代の別の偉大な作家のアンソニー・トロロープは、郵便局員として日中働いて稼ぐ年収一四〇ポンドで、やりくりしなければならなかった。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P251
聖職者、陸軍士官、医師、公務員、法廷弁護士などで250~350ポンド、郵便局員で140ポンドの年収と考えると、エンゲルスの狩猟クラブへの出費がどれだけ大きなものかが想像できると思います。
そして何より驚いたのは本文にあったこの箇所です。
『ありがたいことに、狩猟のような世間体のよい活動の費用を賄うこととなると、彼はいつでも父親の資金に頼ることができた。「僕へのクリスマス・プレゼントとして親父さんが馬を買う金をくれ、よい出物があったので、先週それを購入した」』
エンゲルスは1857年、36歳の年に父からクリスマスプレゼントとして馬をもらっていました。しかもこうした出費に関しては「いつでも父の資金に頼ることができた」というのです。
エンゲルスは綿工場経営者の御曹司として生まれましたが、これまで散々ブルジョワを罵り、革命家となって逮捕状まで出されるまでになっていました。
ですが今や「世間体のよい活動のために」経営者であるお父様にお金を融通してもらうようになっていたのです。
もともと革命活動をしていた1840年代も親の仕送りで生活していた彼でしたが、一層そうした矛盾に拍車がかかってきたようです。彼はこうして潤沢な資金を得、自身は優雅に暮らしながらマルクスに送金し、マルクスは『資本論』を書き続けていたのでありました。
狩猟にはまるエンゲルス
誰が最初にエンゲルスをチェシャー・ハウンズに誘ったのかは不明だが、彼はまもなくイングランドでも最高位の貴族たちとともに狩猟場の常連となった。
マルクスの娘婿のポール・ラファルグはこう記憶している。「彼は優れた乗り手で、狐狩り用に自分の狩猟馬をもっていた。昔ながらの封建的習慣に従って、近隣の郷紳や貴族が地区内のすべての馬の乗り手に招待状を送ると、エンゲルスはかならず参加した」。
エンゲルスは自分の趣味を、革命のための戦いを学ぶ「何にも勝る場」だとして、正当化しようと試みた。それどころか、イギリスの騎兵隊のわずかな取り柄の一つは、アカギツネを追いかけてきたその背景にあると考えた。
「その大半は熱心な狩猟者なので、本能的に地の利を即座に見てとる能力をもっており、狩猟の訓練が間違いなくそれを与えている」と、彼はイギリスの軍事戦略に関する批評に書いた。だがいかに取り繕おうと、エンゲルスを明らかに興奮させたのは、追跡のスリルだった。
そして彼が狩猟場にでるのを恐れたことは一度もなかった。「彼はいつも溝や生け垣などの障害物を先陣を切って乗り越える一団のなかにいた」と、ラファルグは述べている。「言っておくが、僕は昨日、五フィート数インチはある生け垣と土手の上を馬で飛び越えたんだ。これまでやったなかで最高の跳躍だ」と、エンゲルスは大英博物館で腐りながら机に向かっているマルクスに自慢した。
悪路つづきでも、エンゲルスは獲物を追って四五キロの遠乗りを嬉々としてこなした。それどころか、年月とともに彼は明らかに血への渇望のようなものを覚えるようになった。「昨日は、誘惑に負けてグレイハウンドを使った野ウサギ狩りに参加し、七時間、馬に乗りつづけた。全体として、非常に有意義だったが仕事は手つかずとなった」
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P267-268
※一部改行しました
「エンゲルスは自分の趣味を、革命のための戦いを学ぶ「何にも勝る場」だとして、正当化しようと試みた。」
「だがいかに取り繕おうと、エンゲルスを明らかに興奮させたのは、追跡のスリルだった。」
エンゲルスはシンプルに狩猟が好きだったのですね。それが上のエピソードからも感じられます。
芸術愛好家エンゲルスの社交
エンゲルスのその他の趣味は、それにくらべてずっと穏やかなものだった。「ここでは誰もがいまや芸術愛好家になっており、話題はすべて展覧会の絵画のことだ」と、彼は一八五七年の夏にトラフォード・パークで話題の重要美術品展を訪れ、ティツィアーノの男の肖像(アリオスト)に惚れ込んだあとマルクスに書いた。「できれば君も、この夏、奥さんと一緒にこっちへきて、これを見るべきだ」。
画廊にでかけるのは、マンチェスターの有力な貿易商としてのエンゲルスの暮らしによく合っていた。洗練された上流ブルジョワの世界であり、夕食会、クラブ、慈善事業の夕べ、それに彼のソーンクリフ・グローブやドーヴァー通りの住まいに近い、社会的地位のあるドイツ人地区に的を絞った人脈づくりに勤しむ暮らしだった。
マンチェスターは一七八〇年代からプロイセン商人のメッカとなっており、一八七〇年には市内で一五〇社ほどの会社が営業しており、ドイツ生まれの住民が一〇〇〇人以上いた。この集団で最も上流の人びとは夜ごとにオックスフォード・ロード沿いのシラー協会に集まっていた。同協会は一八五九年に行なわれたフリードリヒ・シラーの生誕一〇〇年の記念祭を起源とし、その目的はドイツ人社会に社交の場と祖国からの少しばかりの文化的安らぎを与えることだった。
一八六〇年代なかばには、同協会は三〇〇人の会員と四〇〇〇冊の蔵書、ボウリング場にビリヤード室、体育館、多くの蔵書のある読書室それに男声聖歌隊コンサートから連続公開講座にアマチュア劇の上演まで、きわめて忙しい公演日程を誇るようになった。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P270-271
※一部改行しました
あれだけ嫌悪していたブルジョワ。そして今もなおブルジョワ打倒のための活動をしているエンゲルス自身がまさしくそのブルジョワそのものという矛盾。
エンゲルスが上流ブルジョワ階級の色々な会に参加していたというだけでも驚きですが、彼のブルジョワ的社交はまだまだこれにとどまりません。
シラー協会会長に就任するエンゲルス。
エンゲルスはまもなくシラー協会の仕事に積極的に加わるようになり、運営組織の一員に選ばれ、最終的には会長にまで就任した。彼は有能な委員会メンバーとなり、役員会にはビールをもち込み、数多くの小委員会の委員長を務め、マンチェスター会員制貸出図書館からの六〇〇〇冊の書籍購入をきちんと監督した。
しかし、翌年、シラー協会が科学の普及家であるカール・フォークトを招待すると、エンゲルスは完全に手を引いた。招待した委員会には知られていなかったが、フォークトはマルクスとエンゲルスの膨大なブラックリストで、ナポレオン支持のスパイ疑惑で要注意人物にされていたためで、エンゲルスはすぐさま辞任した。
幸いにも、エンゲルスには贔屓にする協会がほかにいくつもあった。サミュエル・ムーアとともに、彼はアルバート・クラブの会員にもなっていた。「われらの最も優雅な女王の夫君に因んでふさわしく命名された」クラブである。
その喫煙室―「ここはマンチェスターにあるこの種の部屋では、例外なく、最良の部屋であるとわれわれは信じている」―で有名だった同クラブには、同じくらいすばらしい一連のカード部屋、食事用の個室、それにビリヤード台があった。会員の名簿には、シャウプ、シュライダー、フォン・リンダーロフ、ケーニッヒといった名前があふれており、会員の半数はドイツ人であったことを示している。
さらに、エンゲルスは文芸クラブ、ブレイズノーズ・クラブ、マンチェスター外国図書館、それに王立取引所にまで所属していた。「いまでは君は取引所の会員なのだから、まったく立派になったものだ。おめでとう」と、マルクスは軽い皮肉を交えて書いた。「いつか君がその狼の群れの真っ只中で吠えているのを聞いてみたいものだ」。
筑摩書房、トリストラム・ハント、東郷えりか訳『エンゲルス マルクスに将軍と呼ばれた男』P271-272
※一部改行しました
シラーといえばドイツを代表する詩人であり、ゲーテの盟友とも知られ、以下の『群盗』という作品やベートーヴェンの『第九』でも歌われる「歓喜に寄せて」などが有名です。
そしてここまでエンゲルスの生涯を見てきましたが、やはり彼は実務に非常に長け、社交的才能もあり実業界ではかなり優秀な人物でした。だからこそマンチェスターの社交界でも信頼され数々の役職を果たすことになったのでしょう。
矛盾に満ちた奇妙な人物ですが、やはりスケールの大きさと言いますか、魅力的なものがあるなというのはどうしても感じざるを得ません。
『エンゲルスはとかく悪者として描かれることが多く、「マルクス思想を捻じ曲げたのはエンゲルスであり、マルクスは無罪だ」という説の材料にされがちだ』と著者はこの伝記の最初に述べていましたが、まさに私もその指摘には頷いてしまいます。
エンゲルスはたしかに矛盾に満ち、眉をしかめたくなる部分も多々あるのですがやはりこの人物は凄まじいスケールの持ち主です。単にエンゲルスを悪者に仕立て上げてもマルクスの本質は見えてこないでしょう。
哲学やジャーナリズム、実務においても優れた才能を発揮したエンゲルスがいたからこそのマルクスだと思います。マルクスがいかにエンゲルスの思想に拠って『資本論』を書いたかもこの後出てきますし、やはり彼ら二人を分離して考えることはできないと思います。
エンゲルスのブルジョワ社交家としての顔を見れたこの箇所は非常に興味深いものでした。
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