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「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか~善悪の基準を失った私達―他人を責める心理の原因のひとつの仮説として

目次

はじめに

五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P17

前回の記事「他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く」ではお釈迦様のことばをもとに、なぜ人は他者を攻撃せずにはいられないのかということを考えました。

他人の過ちや悪いところを批判することで自分は正しい、善い人間であることを実感できる。

自分は善い人間である、つまり「自分は良し」とされる感覚を得ることができないからこそ人は他者を悪とし、攻撃せざるをえなくなっているのではないか、そのように前回の記事でお話ししました。

今回の記事では引き続きこの言葉を参考に、なぜ人は他者に寛容でいられないのかをもう少し踏み込んで考えていきたいと思います。

「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか~善悪の基準を失った私達―他人を責める心理の原因のひとつの仮説として

私たちは今、「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉をよく耳にすると思います。

数年前にもディズニー映画『アナと雪の女王』の「ありのままでいい」というメッセージが爆発的に流行しましたよね。あの盛り上がりは社会現象と言ってもいいほどの反響があったように思えます。

しかしです。私はこれら「個性が大事です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」というメッセージに不安な感覚を覚えるのです。

それはなぜか。

「ありのままでいい」と言われて「そうなんだ!自分って今のままでいいんだ!」と本気で思えることがありえるのかと私は疑問に思ってしまうのです。

たしかに映画を観た後、そういう気持ちになることもあるかもしれません。しかし、日々生きていれば色んなことがあります。いいこともあれば悪いこともあります。

特に辛い状況に置かれて自分が落ち込んでいる時、「ありのままでいい」と言われたとしたらどうでしょう。「そのありのままの自分に耐えられないから辛いんだよ!」と叫びたくなる時があったりはしないでしょうか?

「個性」とか、「自分らしさ」とか、「ありのままの自分」というのは、自分が成功していてうまくいっている時はそれに満足できるのです。

ですが、自分がうまくいっていない時、それらはむしろ重たくのしかかってきます。

「個性」とか、「自分らしさ」とか、「ありのままの自分」というものの難しさは、それらを自分で決めなければならないというところにあります。

言い換えれば「自分が良しとされる感覚」を自分で見つけなければならないということなのです。

かつての日本では会社に属していることや、家族や結婚、どこのお寺や神社、教会に属しているかなど、社会的に属しているものによって「自分が良しとされる感覚」を得ることができました。

そこに属しているだけで、あるいはそこに属して特定の行動を皆と一緒にすることで、「自分は社会の一員である」、「自分は良しとされている感覚」を得ることができたのです。

また、かつては皆同じものを見て皆共通のものを知っていた時代でした。

ドリフにしろ欽ちゃんにしろ、プロ野球やプロレス、歌番組など皆が知っていて皆が話題にできるものがありました。音楽も然りです。皆と同じであるという安心感はこうしたところからも得ることができたのです。

ですが現代は個の時代です。

かつては属しているだけで「自分が良し」とされる感覚を得られたのが、今ではそんな共同体はほとんどなくなってしまいました。仕事をしても会社からそういう感覚を得ることはほとんど不可能でしょう。

結婚し所帯を持つ事も今では「自分が良し」とされる基準ではありません。

また「お天道様が見てらっしゃる」という感覚も今では薄くなってしまったことでしょう。

今や、共同体や伝統的な慣習を重んじる時代ではありません。

それらから解放された自由な個の時代です。

もはや共同体も伝統も私たちに「良し」とは言ってくれません。

今や私たちは自分で自分を「良し」と言わなければならないのです。

これまでは神様や仏様、共同体、会社、伝統など、自分ひとりを超えた大きなものから「わたしは良し」という感覚を受け取っていた。これは大変でめんどくさいこともしなければなりませんが、実は精神的には負担が少ないのです。

なぜなら「自分で何が善で何が悪かを考える必要もなく、そして責任もない」からです。私たちはそれに従うことで自分は良しと感じることができていたのです。

しかし、今やそうした伝統的なものは力を失い、日々私たちに語りかけられるのは「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉です。

今やこの言葉は神聖不可侵な響きすら感じられるでしょう。

この言葉はもはや絶対に間違うことのない私たちの「真理のことば」として受け止められているかもしれません。

ですが単に「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」と言われても、この言葉がある故に苦しむ人が膨大に出てくるのも事実なのではないでしょうか。

先にも申しましたが、「そのありのままの自分に耐えられないから辛いんだよ!」と叫びたくなる人が必ず出てきます。

かつては「どこに属していて、何々をしていれば、社会の一員として良しとされる基準」がありました。しかし今や個の時代。人それぞれ自由に生きていく時代です。

そうなると自分で何をするべきか、何をもって自分を良しと感じるかを決めなければなりません

ある人は仕事で業績を上げることを良しとするかもしれません。

またある人は地位や名誉があることが自分を良しとする基準かもしれません。

他にも財産があることや、モテること、お洒落なものを持つこと、賢くなること、高級品を身にまとうことなど様々なものを人は想像するでしょう。

そしてそれが実現している時は「自分を良し」と感じることができるかもしれません。ですがそれは自分で考えだした基準です。状況によってぶれてしまうことが往々にしてあります。もし状況が悪くなっていけばこれまで通り「ありのままでいい」とは思えなくなってしまうでしょう。

結局「ありのままでいい」と言いつつ、「成功している自分」、「うまくいっている自分」がいいのです。これは人間の心の非常に繊細で難しいところです。そうなってしまうのが人情だと思います。

「個性が大切です。自分らしくありなさい。ありのままでいいのです」という言葉は耳触りがいいです。

ですがじゃあどうすればそう思えるんだい?ということになると非常に難しい。その難しさを抜きにしてこの言葉が大量に喧伝されていく。特に子供たちに対してこの言葉を呪文のように刷り込んでいく。私はこれは危険なことではないかと思うのです。

そもそも、個性とか自分らしくとか、ありのままでいいとか、そう簡単にわかるものではないはずです。数千年前から今に至るまで無数の哲学者が自分とは何か、善悪とは何かと考えても未だに絶対的な答えなど出ていない代物なのです。

それを子供にぽんと伝えてもいいものなのでしょうか。もし伝えるのであればしっかりフォローしてあげないと、ただただ「自分の好きなことをしたい。好きなことができなければ自分らしくない。今の自分はありのままじゃないんだ」と自分の思いのままにできることが人生の幸せだと勘違いさせることにもなりかねません。

あるいは「他人よりもすごいことが個性なのだ」というように思わせてしまうかもしれません。たしかにそういう点もあるかもしれませんが「他人よりすごい」という基準では比較の世界は超えられません。いずれ誰かに負ける日が来ます。負けたらその子の「自分は良し」という感覚はどうなるでしょうか。比較の世界に終わりはありません。

子供たちに対しての危険もそうですが大人にとってもそれは変わりません。

「自分を良し」とする外的な基準が失われてしまった今、私たちは自分でそれを考え出さなければならなりません。しかしそれはあまりに難しく、私たちにはあまりに荷が重いものなのです。

結局自分の中にそうしたしっかりとした軸ができないからこそ、私たちは他人を攻撃し、「自分は正しい人間である」「自分は良しとされる人間である」ということを感じようとしているのではないでしょうか。

私たちは確かに伝統や共同体の重みから解放されたかもしれません。しかしそうして得た自由そのものが今度は新たな重しになってしまったのです。伝統や共同体はたしかに不自由な思いを人々にさせてきたかもしれません。しかし、それらが果たしていた役割というものも見逃してはならないのです。伝統や共同体を捨てて自由を得た代償をこれから私たちは背負わなければならないのです。

自分で善悪の基準を作らなければならないことの重み、困難さ」

実はこれこそドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で説かれていることなのです。あの有名な「大審問官の章」はこの問題に真正面に突き進んでいくのです。また大きな視点で見れば『罪と罰』もこの問題を扱ったものと言えるでしょう。

そう考えてみるとドストエフスキーの作品がいかに現代にも通ずるものかが感じられるのではないでしょうか。

最後にもう一度お釈迦様のことばを読んでいきましょう。

五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。

岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P17

前回に引き続き、他人の過失を責め立てる不寛容な時代について私が思う所を述べさせて頂きました。

今回お話ししたのはあくまで私の私見です。当然ですが他にもたくさんの要素や原因が絡みあってこのような社会になっているのは皆さんも感じられることでしょう。

ですが今回私はあえて「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか」ということをテーマにお話しさせて頂きました。

もちろん、私は「個性、自分らしさ、ありのまま」ということを否定しているわけではありません。

ただ、これらの言葉が持つ危うさというものをこの場で考えてみたいなと思いお話しさせて頂きました。

ありのままの自分でいれたらそれは最高です。ですがどうやったらそうなれるのかということこそ一番の難関です。私としては仏教の教えにそれを打開するヒントがあるのではないかと思っています。

ここでは長くなってしまいますのでお話しはできませんがいつか改めてお話しできたらなと考えています。

以上、「自分らしさ・ありのまま讃美の危険性とは~「自分の思いのままにできること」が人生の幸せ?」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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