カストロの改革とソ連崩壊後のキューバ~キューバの歴史を解説⑷ キューバ編⑤
カストロの改革とソ連崩壊後のキューバ 僧侶上田隆弘の世界一周記―キューバ編⑤
前回の記事「革命政権とミサイル危機~キューバの歴史を解説⑶ キューバ編④」でお話ししたが、1962年、キューバ・ミサイル危機で世界は破滅までぎりぎりのところでなんとか踏みとどまることができた。
アメリカはキューバへの軍事侵攻計画を取り止め、ソ連はミサイル基地を撤去するという合意の下それは速やかに実行される。
世界中の人々は安堵のため息をついたところだったが、キューバからすれば煮えきらないものが胸の内に残ることとなった。
ソ連は最後の最後までキューバを支援すると言っていたのに、キューバに何の相談もなくアメリカと合意をしてしまった。
当事国であるはずのキューバを蚊帳の外に置くソ連のやり方にカストロは不信感を覚えたのだ。
さらにソ連が国内で大粛清を行っている事実も世界中に知れ渡り、社会主義に対する国際的なイメージも低下する一方。
カストロはそのようなソ連から多少の距離を置き、キューバは独自の社会主義国家を目指していくことを決意する。
未だアメリカによる経済封鎖が続く中、ソ連がキューバの命綱であることに変わりはない。
しかしだからといってソ連に完全に飲み込まれることはなく、経済面での恩恵は確保しつつ一方では上手く距離を取るというカストロのしたたかさが見え隠れする。
ここからさらにカストロは革命当初から抱いていた理想の国家を実現するために次々と改革を押し進めていく。
まず行ったのが教育の無償化。これはカストロ長年の悲願であった。
国民の3分の2が学校にも通えない文盲世界だった現状を変えるために識字運動を展開し識字率は飛躍的に上昇。
大学まで無償なのでキューバの知的水準はここから一気に飛躍する。
カストロは国家の繁栄において教育の重要性を痛いほど知っていたのだ。
この政策によってキューバは世界屈指の医療大国になり、医者の数は世界に誇るほどで世界中の貧困地域や災害地域へ派遣されるまでになる。
医療費も無償なので国民の平均寿命も後に日本並みの水準まで高まることになった。
そしてさらに国民の平等のために水道や電気、ガスなどの公共インフラも無償化。
搾取が横行していた不平等な世界から人々を開放するために、カストロはどんどん改革を進めていく。
カストロはたしかに理想の社会主義国家を建設し平等な世界を実現しようとしていた。
本来、社会主義は経済活動が成熟し資本家が労働者を搾取する悲惨な状況を革命によって打ち倒して平等なユートピア社会を実現することを目的とする。
超大国ソ連はそれを目的として社会主義国家を成立させたものの、その実はレーニンからスターリンに連なる大粛清の嵐。数百万人の国民が彼らの犠牲となってしまった。
さらに、一部の高級官僚がすべてを支配し、侵略により他国を属国のように扱うソ連に対してカストロは疑念を感じざるをえなかった。
キューバはソ連と同じ社会主義国家を目指そうとしたのではない。
真の社会主義国家、言い換えるならば社会正義の実現をカストロやチェ・ゲバラは目指していたのだ。
とはいえ、すべてが理想通りに運んだわけではない。
社会主義国家の宿命として勤労意識の低下と平等な貧しさというのは避けることのできない問題だった。
社会主義国家であるということはすべての人に国家から仕事が与えられ一律の給料が支払われることになる。
以前のような悲惨な搾取はなくなり、人々は生きていくのに困らなくなった。
しかし今度はどれだけ働いても給料は一律となってしまったので仕事をさぼるようになっていったのだ。元々呑気な性格なキューバ人は輪をかけて働かなくなった。
さらにどんな職業に就こうと給料はほとんど同じということにも不満を持つ人もいた。
食料品店の店員も銀行員も大学教授も医者も政治家もみなほとんど同じ給料。
多少の差はあるものの日本円に換算するとおよそ3500円。
食料品などの生活必需品は配給で配られるものの、この給料ではまず贅沢はできなかったと言われている。
キューバはアメリカの経済封鎖によって慢性的な物不足に悩まされ、そのため国民はなかなか自分の給料では思うままに物を買うことができなかった。
それに、そもそも商品が店頭に並んでいない。買いたくてもそもそも物がないのだ。
さらにキューバは半鎖国状態。アメリカの経済封鎖によって他国との関わりも失われてしまった。
閉鎖的な環境に辟易し、自由を求めてアメリカに亡命するキューバ人も数多くいた。
それはキューバから海を隔ててすぐの街、マイアミに巨大な亡命キューバ人街ができるほどだった。
とはいえカストロの改革によって人々の暮らし向きが明らかに良くなったのも事実。
そしてキューバ人の生来の陽気さや人生を楽しむ気質と平等な社会は非常にうまくマッチした。
たしかに経済的には資本主義陣営の先進国には遠く及ばない。
しかしそうではない何かがこのキューバで達成されつつあった。
ソ連の社会主義とはまるで違う世界がここにはあったのだ。
だが、そんなキューバにも1991年、転期が訪れる。
ソ連の崩壊だ。
これまで経済的な命綱として友好的な関係を築いてきたソ連が突如消滅してしまったのだ。
キューバはこれまでの繁栄から一転、窮地に陥ってしまった。
外貨獲得の主力、砂糖の輸出先が急に失われ、石油やその他あらゆる物資の輸入も完全にストップ。
これまでアメリカの経済封鎖の下生き残ることができたのはソ連がいたからこそだ。
そのソ連がいなくなってしまっては今度こそキューバは危機に陥る。
アメリカの経済封鎖はそれだけ脅威なものだったのだ。
さすがのカストロもこの窮地には大胆な策を取り入れるしか方法はなかった。
キューバの開放である。
言い換えれば観光業を通した外貨の獲得だ。
だが、これはカストロにとっても苦肉の策だったに違いない。
なぜなら外国人観光客の受け入れはこれまで築いてきたキューバの平等な社会を根底から覆しかねないものだったからだ。
ここにぼくがキューバを目的地に選んだ大きな理由がある。
平等に貧しかったキューバに、海外の圧倒的な資本が流入する。
外国資本の流入によって平等であるはずのキューバ社会に貧富の差が生まれてきた。
キューバは現在、革命以降かつてないほどの変革期に来ている。
旧き良き時代が急激に失われつつあるのだ。
旧き良き時代はもう間もなく失われるかもしれない。
行くならば今しかない。
キューバはそういう時代を迎えているのだ。
だからこそぼくはキューバに行き、その変化を感じてみたいと思った。
キューバの歴史をここまでお話ししてきたのはそれを伝えるためにはどうしても必要なことだったからだ。
「なぜぼくが宗教の聖地でもないキューバを選んだのか」
次の記事では改めてそのことをもう少し掘り下げてお話ししていきたい。
続く
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