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メンデルスゾーン20歳のロンドン公演の衝撃~電気が走ったと演奏者に言わしめた革新的な指揮スタイルとは

目次

メンデルスゾーン20歳のロンドン公演の大成功~指揮棒を使った最初期の指揮者メンデルスゾーン。電気が走ったと演奏者に言わしめた革新的な指揮スタイルとは

メンデルスゾーン(1809-1847)Wikipediaより

メンデルスゾーンのイギリス・スコットランド旅行は彼が20歳の1829年に行われました。

そしてイギリス滞在の最初のロンドンにて、彼はコンサートを指揮します。その時の大歓迎、大成功ぶりはイギリス音楽界でも歴史上稀に見るものだったと言われています。

今回はそんなメンデルスゾーンロンドン公演の様子を彼の伝記『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』を参考にご紹介していきたいと思います。

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これを読めばメンデルスゾーンがいかに優れた指揮者、演奏家だったかにきっと驚くと思います。また、現在では当たり前のように使用されている指揮棒が広く使われ出したのもメンデルスゾーンがきっかけでした。現代の指揮スタイルは彼が開発したものだったのです。この記事ではその顛末についてもお話ししていきます。

では早速始めていきましょう。

なぜメンデルスゾーンはイギリス・スコットランドへ向かったのか

ほぼニ〇〇年の間に、イギリスの音楽界に君臨した三人のドイツ人作曲家がいた。へンデルは一七一二年にロンドンに住みつき、一七五九年の死に至る間、その音楽的スタイルを確立した。ハイドンは一七九〇年代に、二回、長期にわたる訪問をし、優れた交響曲を書いてロンドンの聴衆からもてはやされた。この三巨頭作曲家最後の人がフェリックス・メンデルスゾーンである。彼は一八ニ九年四月に最初の訪英をし、その後、一七年間に九回も続けてイギリスを訪れ、その死後もほぼ一世紀にわたってイギリス音楽界に影響を与えている。

メンデルスゾーンの最初の訪問は、決して偶然の出来事ではなく、父と彼自身とで考えた重要な旅行計画の一環であった。メンデルスゾーンはべルリンがあまり好きではなかった。外面的な成功とは裏腹に、彼のユダヤ人としての血筋、父の財産、彼の早熟な才能などに由来する憤懣や敵意が底流として存在していた。そのいずれもがべルリンの保守的な音楽界の体制になじまないものだったのだ。事実、王室オーケストラは、公開コンサートで彼が指揮することをあっさり拒否している。イギリスの音楽紀行家へンリー・F・チョーリーは、べルリンにおけるメンデルスゾーンに対する態度をこう伝えている。「メンデルスゾーン?子供にしては才能があるね」。明らかに数年間を外国旅行に費やしたからといって決して損失にはならなかった。

フェリックスは二十歳の青年にしてはよく旅行をしている方だった。パリには二回、スイスに一回、ドイツ国内は広汎にわたって旅行していた。しかし、彼と父アブラハムが考えた旅程は大きな意味で正しく大旅行といえるものであった。以後三年間、フェリックスは、時折、べルリンの自宅に戻りながら、ヨーロッパ大陸を股にかけて、数々の旅行を遂行していった。一八ニ九年から一八三三年にかけてはイギリスを二回訪問し、パリとウィーンにも長期滞在し、また、ほぼ一年の間、イタリア半島を旅行してまわった。旅をしながら、彼は絵を描き、手紙を書き、作曲をした。こうした旅の間に、『へブリデス』序曲、『イタリア交響曲』『スコットランド交響曲』などを着想した。もちろん、これらをすぐに書き上げたわけではない。彼は以前より慎重に注意深く仕事をするようになっていた。早くてお手軽な作曲の時代は終わっていたのである。

東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P192-193

メンデルスゾーンの伝記を読んでいつも悲しく思うのは、彼のベルリンでのあまりの不遇ぶりです。それに対しイギリスでの大人気ぶりは驚くほど対称的です。同じ人間、同じ音楽でもその土地その土地の社会、受け取り手によってここまで評価は変わるのかということを感じさせられます。

さて、そんなメンデルスゾーンがイギリス・スコットランドへ向かったのは、上で語られたように明確な計画があったからでした。

このままベルリンにいても成功の道は閉ざされている。自分が活躍できる新たな場所を見つけなければならない。

そんな意気込みでメンデルスゾーンはヨーロッパ中を巡るのでした。

そしてその一番最初に選ばれたのがイギリス、ロンドンであり、そこで指揮することに決めたのでした。

世界の最先端を走る大都市ロンドンに魅了されるメンデルスゾーン

メンデルスゾーンは足を踏み入れた瞬間からすっかりロンドンに魅せられてしまった。ここに比べれば、べルリンは退屈で偏狭ないなか首都に過ぎない。ロンドンは繁栄の絶頂に向かって興隆しつつある強力な工業、商業の中心であった。至るところに工場、鉄道、活気ある会社があった。たとえ、イギリス人が特筆に値するような音楽を生み出していないとしても、少なくとも彼らは他国の作品をどのように演奏し、どう鑑賞すべきかを知っていた。家に宛てた彼の手紙にも彼の得た充足感と喜びは書き尽くされていない。

ロンドンは地球上で最大の、そして複雑きわまりない怪物です。……ベルリンで過ごす六カ月よりもこの三日間の方が遥かに多くの違いと変化を目にすることが出来ます。一度でいいから、僕の下宿を出て右に曲がり、リージェント街を歩いて、アーチで飾られた広い賑やかな通りを見ることができればいいのに(残念!今日は厚い霧に包まれています!)。ここには乞食もいれば黒人もいる。太ったイギリス紳士がほっそりとした美しい娘たちと腕を組んで歩いている。ああ、その娘たちときたら……。最後に見逃せないのは西インド・ドックにある船のマストが家々の屋根の上に突き出ている風景です。さらに、船が一列ではなく何列にも浮かんで、そのためハンブルク港ほどの大きな港をまるで水門のある池程度の大きさにしている風景です。……こうしたものを見ていると、世界の偉大さに触れているようで心が躍るのです。

友人クリンゲマンの手引きによって、メンデルスゾーンはすぐに、少なくとも一時的にロンドン子になった。彼は最新流行の服装をするようになった。画家のジェームス・ウォレン・チャイルドが描いた、シルク・ハットを持ちイギリス風にめかしこんだ彼の姿の魅力ある水彩画が残っている。彼は活溌で陽気な社交生活を楽しんだ。クリンゲマンは彼を外交上の集まりに、またモシュレスは音楽界の集まりに彼を連れて行った。彼はまた英国料理にも舌を肥やしていた。ケンジントンの友人の家で食べたプラム・プディングやチェリー・パイについても真に迫る描写で家に手紙を書き、クリンゲマンと二人して町で「ドイツ・ソーセージ」を買ってはむさぼり食べたり、ラムスゲイトへ行って汁のしたたるような蟹料理を平らげた。

東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P194-195

太字で書かれている部分がメンデルスゾーンの手紙の言葉なのですが、彼の喜び、興奮が伝わってきますよね。

そしてここに出てくるロンドンスタイルのファッションに身を包んだメンデルスゾーンの絵がこちらになります。

この記事の最初でも見ましたがやはり洗練されていて格好いいですよね。細身ですらっとしていて、繊細で教養ある雰囲気が感じられます。

ロンドンでのコンサートの大成功

一八一三年に創立されたフィルハーモニック・ソサエティは、市の最も有名なオーケストラだったが、彼を指揮者に招いて、一八ニ九年五月二十五日、リージェント街のアーガイル・ルームでコンサートを開催した。これが彼のロンドンにおける正式なデビューであった。プログラムの呼びものは、五年前に作曲され、実質的には彼の一三番目の交響曲に当たる『交響曲第一番ハ短調』であった。モーツァルトの『短調交響曲』に明らかに範を取ったスケールの大きな作品で、独自の迫力と新鮮さがあり、今日でも折にふれて演奏されている。このロンドン公演では、フェリックスはオリジナルの第三楽章「メヌエット」をはずして、『弦楽八重奏曲変ホ長調』の活気ある「スケルツォ」を置いた。このスケルツォは繰り返して演奏され、喝采は鳴りやまなかった。五日後に彼は同じホールでの別のコンサートにピアニストとして登場し、ウェーバーの『小協奏曲』を演奏した。続いてほどなく『真夏の夜の夢』序曲のイギリス初演を行ない、完全にロンドンを征服した。

二十歳のメンデルスゾーンがロンドンに与えた衝撃は大変なものであった。現代における似たような例としては、一九四三年、ニューヨークで起こったセンセイションがあげられよう。レナード・バーンスタインが、ぎりぎりのところでブルーノ・ワルターの代役に立ってニューヨーク・フィルハーモニックを指揮し、以降、低下することのない輝かしいキャリアをスタートさせた例である。しかし、その時のバーンスタインは、メンデルスゾーンより五歳年長だったし、彼の素晴らしい才能にもかかわらず、『真夏の夜の夢』に相当する自作はなかった。当時のイギリスの聴衆たちは、メンデルスゾーンに対してどれほど歓迎してもまだ不足を感じるほどであった。彼はフィルハーモニック・ソサエティの名誉会員に推挙され、夕食会や舞踏会などに招待された。また、その頃、たまたまロンドンに来ていたセイロンの総督から、島の解放記念の祝賀の歌を作曲してくれるようにとの申し入れも受けた。この思わざる出来事はフェリックスを大いに喜ばせ、早速、彼は手紙に「セイロン島付き作曲家」と署名している。

音楽好きのロンドン人たちにとって、メンデルスゾーンは単なる輝かしい新来者ではなく、真の神の申し子、偉大な音楽家の系譜の一人として迎えられた。当時のイギリス音楽界の重鎮であったジュリアス・べネディクト卿はこう回想している。

「『真夏の夜の夢』序曲初演の効果は電撃的だった。同時に、恐らく予想もされなかったことだが、ベートーヴェンの死による大きな空白が埋められるかとさえ思われたのであった」

東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P196-197

メンデルスゾーンの大成功はあの『ウエストサイド物語』で有名なバーンスタインに匹敵、いやそれ以上だったという最大限の賛辞が著者から与えられています。

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バーンスタインについてはこの伝記で知ることになりましたが、彼のデビューの逸話は凄まじいものでした。もはや伝説と言ってもいいほどです。それに匹敵する成功を成し遂げたのがこのロンドン公演だったのでした。メンデルスゾーンの大成功ぶりを表すのにこれ以上の表現はないと言ってもいいかもしれません。

また、この演奏会でも大絶賛となった『真夏の夜の夢』はシェイクスピアの作品です。

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メンデルスゾーンはこの作品が大好きで、16歳の頃には兄弟や友人たちと演じて遊び、17歳の頃にはなんとこの序曲を完成させてしまいました。

恐るべき早熟の才能です。この曲はイギリスでも大人気となったのでした。

指揮棒を使った指揮法を初めて確立した作曲家メンデルスゾーン

イギリスにおける最初の滞在、およびそれ以降を通じて、メンデルスゾーンは、イギリスの多くの聴衆に指揮法や解釈を紹介した。彼は指揮棒を使ったのである。―これはほんの一〇年ほど前に、ルートヴィッヒ・シュポーアによってイギリスに導入されたばかりであった。それ以前オーケストラの指揮は紙を丸めて持つか、ヴァイオリンの弓を使っていたのであった。時には数人の「指揮者」が同時に指示を出して演奏者を混乱させ、音楽をぶち壊してしまうこともあった―ピアニストはピアノの前に坐ったまま、他の演奏者に対してうなずいたり、身ぶりで示したりする一方、ヴァイオリンの首席奏者も同じように演奏し、かつ拍子をとった。多分、作曲者自身もサインを送ったりしたであろう。しかし、メンデルスゾーンの場合、初めからただ一人―彼自身で指揮していた。―旧来のやり方がしばらくは続いたけれども、彼の考え方は広くイギリスや他の国にも行き渡っていった。

メンデルスゾーンはイギリスで優雅な白い指揮棒をつくらせた。この仕事を引き受けたイギリスの木彫師は、何に使うものかわからず、メンデルスゾーンを何か市会議員のような人と思い、指揮棒に小さな王冠を彫刻した。メンデルスゾーンはまた楽譜なしで指揮したので人々の不評を買った。彼の音楽的な記憶力は抜群のものがあり、十代の頃にべートーヴェンの交響曲を全曲暗譜でピアノで弾けるほどであった。彼は楽譜なしで指揮するのは聴衆の気に入らないことを知って、前の譜面台に楽譜は置いておき、曲が進んでいくのに応じて、見はしないけれども、ぺージだけ繰っていった。彼は音楽に集中して、自分のテンポを確立してしまうと、拍を打つのを最小限にとどめ、自分の周囲で鳴っている音楽に注意深く耳を傾けるのだった。彼は指を動かしたり、頭でうなずいたりして、自分の望む効果を挙げる方法を知っていた。彼は痩せぎすな体形で(メンデルスゾーンは身長一六七センチで非常にほっそりしていた)、洗練された身のこなしをしていたが、指揮台の上では堂々として、まことに魅力ある風貌であった。べネディクトはこう書いている。

「今まで、多くの楽員に対して―あたかも電流を通すかのように―作品についての考えを伝達する方法をこれ以上に知っていたものは誰もいない」(中略)

フェリックスのイギリスのみならず、のちにデュッセルドルフやライプツィヒなどでおさめた大きな成功は、彼が非常に優雅でありながら、同時に力と火のような情熱的指揮をしたことによるものであることを示している。偉大なヴァイオリニストでヨーロッパ中のオーケストラと共演していたヨーゼフ・ヨアヒムは、メンデルスゾーンについて、これまで会った指揮者の中で最高の人といい、また他の多くの音楽家たちがいったように「表現し難い、電気に触れるような影響力」について指摘している。


東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P198ー201

指揮棒を使った指揮スタイルを確立した最初期の人物がメンデルスゾーンだったというのは驚きですよね。メンデルスゾーンが1番最初かどうかは諸説あるようですが、彼によって指揮棒を使った指揮者のスタイルが広まっていったというのは事実なようです。これには驚きました。

メンデルスゾーンの人柄が知れる指揮のエピソード

イギリスの聴衆、特に女性たちは彼を讃美し、またロンドンの音楽家たちは、べルリンの音楽家たちと違って、彼を親しみ易く、理解ある人物と捉えていた。彼はそうあってもよいような時にも皮肉な態度を取ることは出来ない人柄で、べネディクトが述べている次の例でのような態度を取っていた。

ある時、ベートーヴェンの『交響曲第八番』の練習で指揮をしていて、変ロ調の美しいアレグレットが最初彼の気に入らなかったので、笑顔を浮かべながらいった。「私はオーケストラの紳士諸君すべてがじゅうぶんな演奏能力を持ち、私のスケルツォなどの作品についても申し分のない方々であることを知っています。けれども、今はべートーヴェンの音楽が聴きたいのです。これは魅力ある作品だと思いますよ」演奏は快く繰り返された。「美しい、素敵です」とメンデルスゾーンは叫んだ。「しかし、まだニ、三カ所、大きく鳴り過ぎるところがあります。もう一度、真ん中あたりからやってみましよう」―それに対して楽団から声があがった。「いや、いや、もう一度、最初からやり直しましょう。その方が私たちも満足出来ます」こうしてオーケストラは最高の繊細さ、完成度をもって演奏した。メンデルスゾーンは指揮棒を置き、その完璧な演奏を嬉しそうな表情で聴き入っていた。そして、「べートーヴェンが、もし自分の曲がこんなによく理解され、立派に演奏されているのを聴けたとしたら、私自身はここでどんな役割を果たせるというのだろう」と叫んだのだった。

東京創元社、H・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々 三代のユダヤ人』P199-200

完璧な音楽を追求し、音楽を心から愛しているメンデルスゾーンの人柄がここから見えてきますよね。そして何たる紳士っぷり!天才は破天荒な人が多いというのは世の定めですが、このメンデルスゾーンは驚くほど調和的で穏やかな性格です。演奏家たちと心を通わせ、よりよいものを共に作り上げようとするメンデルスゾーンの指揮スタイルは当時としてはあまりにも先を行くものだったのではないでしょうか。

おわりに

以上、メンデルスゾーンのロンドン公演について見てきました。

彼がいかにセンセーショナルな活躍をしたのかにはきっと驚かれたのではないでしょうか。

私もメンデルスゾーンの伝記を読んで度肝を抜かれっぱなしでした。

しかもこれが20歳の時というのですからもうお手上げです。信じられません。

このような大成功を収めた後、メンデルスゾーンはスコットランドへと旅立ちます。そしてそこでのインスピレーションを基にして作られたのが彼の代表曲『スコットランド交響曲』です。

これは私も大好きな曲です。

次のページではこの曲が生まれるきっかけとなったスコットランド旅行についてお話ししていきます。

引き続きお付き合い頂けました嬉しく思います。

以上、「メンデルスゾーン20歳のロンドン公演の衝撃~電気が走ったと演奏者に言わしめた革新的な指揮スタイルとは」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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