大作曲家の祖父モーゼス・メンデルスゾーンとは~カントも尊敬したユダヤ人哲学者の偉業

奇跡の音楽家メンデルスゾーンの驚異の人生

作曲家メンデルスゾーンの祖父、カントも尊敬したユダヤ人哲学者モーゼス・メンデルスゾーンとは

メンデルスゾーン(1809-1847)Wikipediaより

前回の記事では有名な作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの一族についてお話ししました。

今回の記事ではその中でも作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父にあたるモーゼス・メンデルスゾーンについてお話ししていきたいと思います。

モーゼス・メンデルスゾーン(1729ー1786)

モーゼス・メンデルスゾーンはデッサウのゲットーで1729年に生まれました。彼の父は貧しいながらも同じような境遇の師弟のための学校を経営し、宗教関係の筆耕の仕事もしていました。

そんな貧しい境遇の中でもモーゼスは父やラビ(ユダヤ教の指導者)による教育を受けて育ちました。

幼い頃から抜群の知性を見せ、すさまじい好奇心、向学心を持つモーゼス。

そんな彼は14歳の時にたったひとりでデッサウを出て、プロイセン王国の首都ベルリンへと向かいます。彼は学問の中心地で勉強するために単身ベルリンへと乗り込んだのでした。

ここではあまり詳しくはお話しできませんが、苦学をしながらも持ち前の知性と向学心によって徐々に彼は頭角を現し、良き仲間や支援者と出会っていくことになります。

そして前回の記事でもお話ししましたように、

一族の祖、モーゼス・メンデルスゾーンは、痩せて聡明な眼つきをしたせむしの少年だった。デッサウのゲットーを飛び出した彼は、それまでの五〇〇年間で、最も著名なユダヤ人となった。彼は哲学者、文学者として一世を風靡し、当時広く読まれた本を書いた。そして、何よりも重要なのは、彼が特別そのように計画したわけではなかったけれども、ユダヤ人の宗教的慣習を近代化し、今日、我我が知る改革派ユダヤ教成立への糸口をつくったことである。


東京創元社、ハーバード・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』P7

と言われるまでの存在へとなっていきます。

以下、そんなモーゼス・メンデルスゾーンの偉業について書かれた箇所を紹介していきます。

あのカントも尊敬したモーゼス・メンデルスゾーン

メンデルスゾーンは新聞、雑誌に論説、批評、エッセイ等を書き、また本も執筆していた。彼は音楽の基礎をなしている物理的、数学的な問題についても短い論文を書いたりした。フランスのジャン・ジャック・ルソーの『人間不平等起源論』を翻訳し、序文と解説を書いて、これをレッシングに献呈したりもした。新婚旅行の途上、彼は科学アカデミーが主催する論文コンテストに応募した。数学上の証明は哲学に適用が可能かというテーマだったが、メンデルスゾーンはイマヌエル・カントを含む応募者たちを相手に、五〇ダカットの賞金と金のメダルを獲得した。以来、カントはメンデルスゾーンの友人、崇拝者となったのである。


東京創元社、ハーバード・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』P 45

モーゼスは科学アカデミーの主催する論文コンテストに応募し、あのカントを相手に金賞を受賞するというほどの人物でした。しかもそこからカントはモーゼスの崇拝者となったというのですから驚きです。デッサウの貧しいユダヤ人がたった一代でヨーロッパを代表する哲学者たるカントと堂々と渡り合うというのですから、彼の並々ならぬ智慧才覚と努力がうかがえます。

これほどの人物が作曲家フェリックス・メンデルスゾーンの祖父だったのです。

「ドイツのソクラテス」、「現代のプラトン」と評されるきっかけとなった書物『ファイドン』

しかし、何にもまして、メンデルスゾーンの名声をヨーロッパ中に広めることとなった著作は、一七六七年に出版された『ファイドン、または霊魂の不滅』と題された興味深い書物である。これは、メンデルスゾーンが長期にわたってギリシア語の著作物を読んできた故の実りであって、プラトンの哲学を十八世紀に導入しようという試みにほかならなかった。(中略)

知識人や思慮深いドイツ市民の間では、霊魂の不滅と来世に対する信仰が衰えかかっているのを支えてくれる論理的な思想を求める動きがあった。そんなところにあらわれたメンデルスゾーンの著作は神の恵みほどの価値があった。いかにも理にかなったメンデルスゾーンの見解は、知識人たちの集まりで、熱心に読まれ、引用され、議論された。(中略)

『ファイドン』は、その頃、最も広く読まれた書物となった。(中略)

メンデルスゾーンの著作は、思想として明快であるばかりでなく、文章として非常に洗練され、美しいという点でも賞讃された。ドイツでは二年間で三版を重ね、英語、フランス語、オランダ語、イタリア語、デンマーク語、ロシア語、ポーランド語、ハンガリー語、へブライ語などにも翻訳された。このようにして、メンデルスゾーンは「ドイツのソクラテス」あるいは「現代のプラトン」などの呼び方で知られる存在となった。

近くの公国であるブラウンシュヴァイクの大公も、彼を説得して自分の宮廷に迎え入れようとしたことがある。フリードリッヒ大王の姉も、彼と死や霊魂の不滅などについて論じあい、彼の肖像画を壁に飾っていた。二人のべネディクト会修道士は、将来のモラルや彼らの教団の、哲学的指針についてメンデルスゾーンに助言を求めてきた。べルリンのユダヤ人組合は、彼への敬意の印として、将来にわたり組合税の免除をきめた。

ゲーテとへルダーはメンデルスゾーンをロを極めて賞讃しているし、カントは「君のような才能の人こそ、哲学における新しい時代を築くであろう」と書き送っている。レッシングは、すでに彼を「第二のスピノザ、民族の名誉となるべき人」といっていたが、この比較はオランダのレンズ職人より四〇〇年前の人物に及び、メンデルスゾーンは、マイモニデス以来の偉大なユダヤ人、そして「第三のモーセ」として、ヨーロッパ中から賞讃されることとなった。

夜ごとに彼の家で開かれる知識人の集まりは、以前よりいっそう有名になり、フリードリッヒ大王の廷臣すら参加していた。今やメンデルスゾーンの地位は、ベルリンを訪問する人々が注目する町の観光名所と同様、べルリンの名物にまで高められた。
※適宜改行しました

東京創元社、ハーバード・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』P 45-48

モーゼスがどれだけヨーロッパで巨大な存在として知られていたかがこの箇所から見えてきます。「ドイツのソクラテス」「現代のプラトン」という称号を得られる人間がこの世にどれだけいるでしょうか。彼の著作はそれほどヨーロッパに大きな影響を与えていたということがわかります。

そしてやはり出てきました。ドイツの偉人ゲーテです。

ゲーテは1749年生まれで、1832年に生涯を終えています。となると、やはりモーゼスと同じ時代を生きていたわけです。そのゲーテも彼を称賛していたのでありました。

音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの家では音楽サロンが開かれていて、そこに一流の音楽家や学者、文人たちが集まっていたというのは有名な話ですが、メンデルスゾーン家の一流のサロンはこのモーゼス時代からすでに始まっていたということもこの伝記を読んで知ることになりました。モーゼスの一流の学識や人望があったからこそ人々は彼の家に集まってきたのでした。

ここにすでに、後の大音楽家フェリックス・メンデルスゾーン誕生の萌芽があったのでした。

ヨーロッパ初のヘブライ語聖書のドイツ語翻訳

メンデルスゾーンはユダヤ人とキリスト教徒と双方の世界を経験したうえでの知識から、もし両者にかけ橋を渡すとするならば、最初の石を置くのはユダヤ人であろうと感じていた。(中略)

彼は、聖書の中の同名の人物のように、人々を砂漠から―心の砂漠から脱け出させようとしていた。「この人々の文化的水準はあまりにも低い」と彼は述べている。「そのため、人々は向上する可能性などないものと諦めてしまうのだ」

この仕事で彼が武器としたのは彼の手によりへブライ語からドイツ語に訳された聖書だった。もちろん、ルターが旧約、新約聖書ともドイツ語に訳していたものの、それらはへブライ語のテキストではなく、ラテン語版を原典としていたので、ユダヤ人の間ではほとんど受け入れられていなかった。もっとも、メンデルスゾーンがあらわれるまで、ドイツ語で聖書を読んだユダヤ人などいなかったし、ヘブライ語ですら理解出来るものは少なかった。当時、聖書教育はポーランド系ラビと学校教師の手によって主として行なわれていたが、彼らの解釈を原典に付加していたために、聖書はかえって難解なものとなっていた。

メンデルスゾーンは、のちに聖書の翻訳は自分の子供の教育に役立てるつもりで始めたのだと述べているけれども、同時に、ユダヤ人のすべての読者のためでもあったことは間違いない。事実、のちに「我々のラビにこそこれが必要だろう」と述べている。


東京創元社、ハーバード・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』P 64-65

18世紀後半当時のユダヤ人はほとんどがゲットー暮らしで貧しく、基本的な教育も受けられないでいました。そのためヘブライ語はおろかドイツ語も読めない人が大半でした。そうした「教育」の不足がユダヤ人の社会的地位を低いままにしているのだとモーゼスは考えました。

そこでユダヤ教伝統のヘブライ語聖書をドイツ語に翻訳し、聖書を学びながら教育の拡充を図ろうとモーゼスは動き出します。

ドイツ系、あるいはロシア系、ポーランド系のユダヤ人にとっては、一七七九年に出版されたメンデルスゾーン訳の聖書は、ジョン・ウィクリフが一三八二年にイギリス人に与えたものと同じ価値を持っていた。キリスト教徒の間でも、彼の聖書は『ファイドン』と同じくらいにほとんど熱狂的に歓迎された。その新訳はイギリス、フランス、オランダ各国で広く読まれ、初版の購読予約者の中にはデンマーク王も入っていた。(中略)

ドイツにおけるユダヤ人の啓蒙運動は、メンデルスゾーンによるモーセ五書独訳ひとつがもたらしたといっても過言ではない。このあと、多くのユダヤ人たちはイディッシュ語よりもドイツ語を使うようになってきた。またユダヤ人の若者たちは、年長者に止められた結果、かえって熱心に独訳のモーセ五書を学ぶようにもなった。そして、この書は聖書の意味を知りたいと望んでいる人たちを満足させただけでなく、ゲットーの壁を取り払っていこうとする世代に、コミュニケーションのことばとして、また文学的表現の手段として、ドイツ語を定着させることにもなったのである。モーゼス・メンデルスゾーンのモーセ五書が先駆けとなって、その後二世紀にわたり、ドイツ系ユダヤ人による哲学、政治学、戯曲、小説等の優れた著作が生まれたのであった。

メンデルスゾーンは、ユダヤ人の宗教的、文化的啓蒙を目指すと同時に、長い間、与えられなかったユダヤ人の市民、人間としての権利をかち取るべく力を貸す、という新しい行動主義を打ち出した。

東京創元社、ハーバード・クッファーバーグ、横溝亮一訳『メンデルスゾーン家の人々―三代のユダヤ人』P 66-68

モーゼスの聖書ドイツ語翻訳によってユダヤ人社会に大きな転機が訪れることになりました。

モーゼスがこの時代に教育に力点を置いたことによって後の世代がより社会に進出できるような土壌が出来上がったのです。

モーゼスが果たした役割はそれこそ測り知れません。何度も繰り返しますが、このような大人物がフェリックス・メンデルスゾーンの祖父なのでした。フェリックス・メンデルスゾーンの知名度に比べると、陰に隠れてしまうかもしれませんが、ヨーロッパ史において最も著名なユダヤ人の一人として間違いなくこのモーゼスは名を連ねるでしょう。

ここからメンデルスゾーン一族の繁栄が始まっていきます。

次の記事ではこのモーゼスの息子アブラハムについてお話ししていきます。つまり、フェリックスの父にあたる人物です。アブラハムは銀行家として成功し、ドイツ有数の銀行を所有することになります。ここで得た財や人脈、教養によっていよいよ音楽家フェリックス・メンデルスゾーンの人生も始まっていきます。このアブラハムについても非常に興味深い事実が出てきますので、ぜひ引き続きお付き合い頂ければと思います。

以上、「大作曲家の祖父モーゼス・メンデルスゾーンとは~カントも尊敬したユダヤ人哲学者の偉業」でした。

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