花の香りのように、人徳は自ずから人に伝わっていく―お釈迦様のことばに聴く
目次
花の香りは風に逆らっては進んで行かない。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く―お釈迦様のことばに聴く
五三 花の香りは風に逆らっては進んで行かない。栴檀もタガラの花もジャスミンもみなそうである。しかし徳のある人々の香りは、風に逆らっても進んで行く。徳のある人はすべての方向に薫る。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P17-18
今回のことばも「花にちなんで」という章からのことばということで、花をたとえに修行者のあり方を示した箇所になります。
花のよい香りは風に乗って香っていきます。しかし風に逆らっては進んで行けません。
しかし徳のある人の香りは風に逆らっても進むことができ、あらゆる方向に広がっていくとお釈迦様は仰られます。
人徳ある人というのは目に見えない雰囲気をまといます。お釈迦様はその徳を花の香りにたとえます。
徳を花の香りにたとえるというのが絶妙ですよね。香りは目には見えません。ですが香りは私たちの心に強い印象を与えますよね。ふと感じた香りがずっと忘れえない記憶を残したり、逆にある香りによってかつての記憶が一気に生々しく蘇ってくるような、そういう経験をされた方も多いのではないでしょうか。
香りは目には見えませんが私たちの心に強い影響を与えます。「徳」を花の香りにたとえたお釈迦様の巧みなことばには脱帽です。
花の香りは風の吹く方向にしか進むことはできませんが、徳の香りはあらゆる方向に進むことができる。つまり、すべての人々に影響を与えていくとお釈迦様は述べられるのです。
徳ある人の雰囲気は特定の一方向だけでなく、周りの人すべてに影響を与えます。そうあれるように修行に励みなさいとこの言葉でお釈迦様は背中を押してくれているのです。
次の記事はこちら
関連記事
いくら美しい言葉で自分を飾り立てようとも肝心の実践がなければ虚しいものである―お釈迦様のことばに聴く
うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りのないものがある―お釈迦様のことばに聴く 五一 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれ...
中村元訳『ブッダの真理のことば』概要と感想~簡潔で心に響く原始仏教のエッセンスを知るならこの1冊!
『真理のことば』はひとつひとつの文が簡潔で、非常にわかりやすいです。哲学的なものというより生活実践としての言葉がそのほとんどを占めます。ですのでとてもわかりやすく、すっと心に染み入ってきます。
そうしたわかりやすさ、率直さ、簡潔さがあったからこそこのお経が世界中で親しまれることになったのです。
仏教入門としてこのお経は非常に優れています。お釈迦様が説かれていた教えに触れるにはこのお経が非常におすすめです。
「すべての者は必ず死に至る」―お釈迦様の死生観とは~お釈迦様のことばに聴く
「すべての者は必ず死に至る」―お釈迦様の死生観とは~お釈迦様のことばに聴く みなさんこんにちは。新年1月もあっという間に終わり2月が始まりましたね。 さて、本日...
「生れによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなる」~お釈迦...
「生れによって賤しい人となるのではない。行為によって賤しい人ともなり、バラモンともなる」~お釈迦様のことばに聴く 一三六 生れによって賤しい人となるのではない...
404: ページが見つかりませんでした | 【日々是読書】僧侶上田隆弘の仏教ブログ
本を愛する浄土真宗僧侶です。仏教コラム、インド・スリランカ仏跡紀行、おすすめ本紹介、【親鸞とドストエフスキー・世界文学】など様々な記事を更新しています。
自分らしさ・ありのまま讃美の危険性とは~「自分の思いのままにできること」が人生の幸せ?
前回の記事「他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く」ではお釈迦様のことばをもとに、なぜ人は他者を攻撃せずにはいられないのかということを考えました。
今回の記事では引き続きこの言葉を参考に、なぜ人は他者に寛容でいられないのかをもう少し踏み込んで考えていきたいと思います。
僧侶が問うコロナ禍の日本~死と病が異常事態になった世界で
今本当に見るべきことは何か。問題の本質はどこなのか。私たちは目先の不安や憎悪に流されることなく、冷静にこの事態を見ていかなければなりません。
伊藤計劃さんの『ハーモニー』はそんな今の日本に警鐘を鳴らしてくれている作品だと私は思います。こういう時代だからこそ文学の力、言葉の力は私達に大きなものの見方を与えてくれるのではないかと私は信じています。
「なぜ僧侶の私がドストエフスキーや世界文学を?」記事一覧~親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点
親鸞とドストエフスキー。
平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。
全く関係のなさそうな2人ですが実は重大なつながりがあるとしたらいかがでしょうか。
このまとめ記事ではそうした私とドストエフスキーの出会いと、なぜ僧侶である私がドストエフスキーを学ばなければならないのかを紹介しています。
コメント