(68)仏教八大聖地の一つ、サンカシャへ~ブッダの天上からの降臨伝説「三道宝階」の地へ

サンカシャ 第三次インド遠征~ブッダゆかりの地を巡る旅

【インド・スリランカ仏跡紀行】(68)
仏教八大聖地の一つ、サンカシャへ~ブッダの天上からの降臨伝説「三道宝階」の地へ

アグラでタージ・マハルを訪れた私はその翌日、サンカシャを目指して出発した。

アグラからは順調に進めば3時間少々で着ける距離だそうだが、インドは何があるかわからない。いつどこでどうなるかわからないという緊張感がまだまだある。

サンカシャへと近づき、田舎道をひた走る。延々と続く畑に牛というインドらしい平原。

本当に何もない。ものすごい田舎である。インドの仏跡はだいたいこのような何もない田舎に点在している。大きな街で今なお賑わっているヒンドゥー教寺院とはやはり違うのである。

さて、サンカシャに到着だ。本当に何もない田舎の中にポツンと現れたと言ってもよい。ここは町ですらない。村の中のさらに辺鄙な場所にこの仏跡はあるのである。

現在はこうして遊歩道が整備されているが、これも最近ようやく為されたものらしい。そもそもここサンカシャに来るまでの道すらかつてはものすごい悪路だったようで、今私が来た道も近年の産物なのだそうだ。そのためサンカシャがインドの八大仏跡であったとしてもここはほとんど人が来るような場所でなかったとのこと。

もちろん、現在でもここを訪れる人は稀である。そもそもここはブッダガヤやサールナート、クシナガラなどの有名仏跡からあまりに遠い。よほど時間に余裕がない限りここを日程に組み込むことは厳しいのである。

ブッダ像を祀る仏堂
仏堂内

さて、ここサンカシャは仏教八大聖地のひとつに数えられ、「三道宝階」の地として知られている。

ちなみに仏教の八大聖地とは以下の通りである。

・ルンビニー 誕生の地
・ブッダガヤ 悟りの地
・サールナート(鹿野園) 初転法輪の地
・ラージャグリハ(王舎城)ブッダ滞在の地
・サヘート・マヘート(祇園精舎)ブッダ滞在の地
・ヴァイシャーリー 猿王奉蜜の地
・クシナガラ 入滅の地
・サンカシャ 三道宝階の地

この三道宝階とサンカシャについて肥塚隆、田枝幹宏共著『美術に見る釈尊の生涯』では次のように説かれている。以下の解説はブッダが悟った後、大教団を率いて祇園精舎に滞在していた頃のお話である。

人びとに仏法のありがたさを自覚させ、釈尊に頼らなくても教えに従って暮らしてゆく心構えを植え付けるために、釈尊が祗園精舎から突然姿を消すという事件もあった。その間、釈尊は三十三天という天上界に昇り、そこに再生していた生母マーヤーに説法していたが、地上では誰も釈尊のゆくえを知らず、人びとの悲しみや心配はたとえようもないほどであった。やがて三カ月たって、中央が金、右が銀、左が瑠璃でできた三筋の階段(三道宝階)を伝って、ブラフマー、インドラを従えてサンカーシャに降下した時、国王以下大勢の人びとが出迎えたという。

平凡社、肥塚隆著、田枝幹宏共著『美術に見る釈尊の生涯』P88

ここで語られるように「三道宝階」とは天から降りてくる階段を指す。ブッダはこの階段を使ってサンカシャの地に降り立ったのだ。

そしてこの解説については補足が必要だろう。

まず、ブッダの母マーヤーがブッダ出産後間もなく亡くなってしまっていたというのが重要なポイントだ。そしてそのマーヤーが天上界に再生していたのである。ブッダはこの母親に会いに天に昇ったのだ。上の解説では人々がブッダに頼らなくとも生きていけるようにという理由が書かれているが、後の伝承では母に会いに行くことに比重が置かれるようになっていく。

自分の誕生によって母が命を落とすことになった。このことはブッダに大きな苦悩をもたらしたことだろう。ブッダは人並み外れて繊細で思案がちな少年だったことが仏伝に説かれている。

他の人からすれば「何をそんなことをいつまでも考えているのか」と思われてしまうことでも、繊細な人間にとっては人生を決する重大事になりかねない。

そんな人間にとって「自分が生まれたことで母が死んでしまった」という念がどれだけ重みのあるものだったかは想像に余りある。

そしてそこから「なぜ母が死に、私が生きているのか」、「生きるとは何なのか、この世界は何なのか、私はどこから来てどこへ行くのか」という人生の根本問題へと繋がっていくのも時間の問題だったのではないだろうか。

こうした意味でも、悟りを開いたブッダが母に会いに行くというのは実に感動的な物語である。

ちなみにではあるが、ブッダの八大聖地においてこのサンカシャだけが伝説に基づいた地であり、史実的な確証がない。ブッダ生誕の地ルンビニや、悟りのブッダガヤ、諸天法輪のサールナート、臨終のクシナガラとは毛色が違うのである。ブッダが天上から降りてきたという伝説的な物語が八大聖地の中にただひとつ組み込まれたというのは実に興味深いことである。

こちらはサンカシャのアショーカ王柱。先ほどの白い仏堂のすぐ後ろにある。

ここでアショーカ王柱についても少し解説しよう。

ブッダが亡くなってから約100年後、アショーカ王がマウリヤ王朝の王として即位した。年代としては紀元前268年頃と言われている。マウリヤ王朝は当時全インドを統治した大国で、その力は絶大だった。その王が仏教に深く帰依し、インド中にブッダの偉大さを記念する柱を立てたのである。仏教がインド全土に広がったのは彼のおかげだと言われている。

そしてその中でも最も有名なのがサールナートで発見されたライオンの柱だ。

これはインドの歴史上最高峰の彫刻として知られ、インドの国章としても採用されている。

私もこのライオンには圧倒された。あまりに精緻!これがインド最高の彫刻作品のひとつと言われるのもよくわかった。

そしてアショーカ王が歴史的に重要なのは、こうした柱の存在によってブッダの歴史が証明されたという点にある。と言うのも、インドでは13世紀初頭に仏教が滅び、その後忘れ去られていたため、遺跡はほぼ土に埋まっていたのである。しかし19世紀のイギリス統治下で発掘が行われ、これらの柱に書かれた碑文からブッダの遺跡であることが証明されたのだ。もしアショーカ王の柱がなければインドの仏跡は分からずじまいだったかもしれないのである。というわけで、アショーカ王は私達の大恩人だと言うことができるだろう。ここから先の記事でもアショーカ王柱は何度も出てくるのでぜひ頭に入れて頂けたらと思う。

インドで仏教が忘れ去られていたということについては第二次インド遠征で書いた「(16)なぜインドの仏跡は土に埋もれ忘れ去られてしまったのだろうか~カジュラーホーでその意味に気づく」の記事でより詳しくお話ししているのでぜひこちらも参照頂きたい。

アショーカ王柱の先に進むと、ブッダが降臨したとされる丘が今も残っている。色鮮やかな仏旗で飾られているのがそれである。

正直、丘と呼ぶのも躊躇するくらいの小さな膨らみだ。その真ん中に小さな道が作られ登れるようになっている。

丘の上までやって来た。そしてその奥に白い小さな祠があった。

だが、中を覗くと明らかにブッダの像ではない。

それもそのはず、これはヒンドゥー教の祠なのである。

先ほども述べたように、インドでは仏教は忘れ去られた存在だった。そしてここも例外ではなく仏教の遺跡というより、ヒンドゥー教の祠が建てられた場所として受け継がれてきていたのだ。

祠のある丘からの景色。ここが何もない田舎であることがよくわかるのではないだろうか。

7世紀にここを訪れた玄奘三蔵によれば、ここは多くの僧院が連なる賑やかな場所だったとされている。しかし時を経てここは辺鄙な田舎と変わってしまった。まさに諸行無常である。

ここサンカシャでいよいよ私の八大仏跡の旅が始まった。その一番最初が最もマイナーで地味な場所というのも逆に味わい深い。「こんな田舎に仏跡があるのか」というのはある意味大きな発見である。仏教がどういう場所で栄え、どういう運命を辿ったのかがわかるというものである。

さあ、旅を進めていこう。次の目的地は『平家物語』の冒頭で有名なあの祇園精舎だ。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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