(50)スリランカで最も人気の巡礼地カタラガマへ~何でも叶えてくれるカタラガマ神への信仰とは

カタラガマ 第二次インド遠征~インド・スリランカ仏跡紀行

【インド・スリランカ仏跡紀行】(50)
スリランカで最も人気の巡礼地カタラガマへ~何でも叶えてくれるカタラガマ神への信仰とは

「(48)スリランカの奥地に大乗仏教の大仏が眠っていた!スリランカに根付いていた大乗仏教の痕跡を訪ねて」の記事でお話ししたように、私はキャンディからカタラガマへと向かっていた。その途中に見た大乗仏教の痕跡を訪ねながらようやくカタラガマ近郊の宿へと到着した。この日はほとんど10時間近く車内にいたのではないだろうか。さすがに疲労困憊である。スリランカの日程中最もハードな一日だったと言ってよいだろう。

カタラガマ神殿 Wikipediaより

さて、これからスリランカで最も人気のある聖地カタラガマを見ていくことにしよう。

駐車場で車を降りるとすぐに売店が軒を連ねる。ここで巡礼者はカタラガマ神殿に奉納するお供物をあらかじめ購入できるようになっている。このような仕組みは世界中の巡礼地や門前町にも共通だろう。

門前町を抜けると整備された道路を歩くことになる。大きな公園を歩いているかのようだ。

少し歩くと目の前を川が横切っている。この川は仏教徒、ヒンドゥー教を問わず重要な沐浴場になっている。

この川を渡るといよいよカタラガマ神殿の境内へと繋がっていくことになる。

最近雨が降ったからか水量が増しているらしい。沐浴している人も見当たらなかった。

ガイドさんいわく、「こんな水量では危険すぎるのでまず沐浴しません」とのこと。

だが、インドのハリドワールの激流を見てきた私である。

「こんな流れ」どころではない濁流に飛び込む男たちを見てきた私にとっては、カタラガマの「こんな流れでそんなに危険なのだろうか」とふと思ってしまった。いかんいかん。基準が狂ってきている。インドを基準にしてはいかんのだ。(詳しくは「(2)ガンジス上流の聖地ハリドワールへ~ヒンドゥー教巡礼の聖地は想像以上にディープな世界だった」の記事参照)

橋を渡っていると、向こう岸の方からスピーカーで流されたヒンドゥー教的な祈りの音楽が聞こえてきた。

控えめなヒンドゥー教寺院がこの辺りにはいくつもある。

まっすぐ進むと仏教寺院も現れる。しかしこちらは明らかに新しい。

中には案の定新しい仏像が安置されていた。しかもスリランカでもよく見るサイケデリックブッダである。

こうした色とりどりの電飾でライトアップした仏像は街の四つ角や菩提樹の下によく飾られている。

さて、こちらがカタラガマ神社の入り口である。クジャクの像がいくつも置かれているのが見えるだろうか。クジャクはカタラガマ神の乗り物である。だからこそ至る所に装飾されているのだ。

たしかにスリランカでは野生のクジャクをよく見た。スリランカ人にとってクジャクはとても身近な動物であるがゆえに神様の乗り物としての親近感も湧くのではないだろうか。

境内に入って来た。スリランカで最も人気のある巡礼地ということで、もっと大きな場所を想像していたのだが意外とこじんまりしていた。大きな建物もない。

こちらがカタラガマ神殿である。この規模の神殿でどうやって何万人規模の巡礼がお参りできるのかと不思議でならない。

カタラガマ神殿内部。明らかに新しく作られたであろう内部装飾である。色鮮やかな絵が左右と正面にかけられている。そのどれもがスカンダが描かれた聖画だ。

こちらが神殿の主祭壇。正面の絵も皆スカンダだ。クジャクに乗っているのがわかると思う。そして一人でありながらいくつもの顔や腕を持っている。インドらしい描き方で描かれているのがよく伝わってくる。やはりヒンドゥー教由来の神様なのだ。

そしてここで巡礼者はお供物を神官たちに渡し、お供物を捧げるのである。今はオフシーズンであったので人は少なめだが、祭りの時期になると恐るべき大混雑になるという。

さて、カタラガマ神と対面したところで、カタラガマとスリランカの宗教についての解説を見ていくことしよう。

カタラガマ神は、もともとは、ヒンドゥー教の神スカンダで、シヴァ神の息子であるが、スリランカでは、スリランカの女神ウァッリー・アンマーと恋に落ちて、スリランカに帰化した神であるとされる。そのためもあって、ヒンドゥー教徒と仏教徒の両者に崇拝されているのである。

伝統的なシンハラ仏教の世界でも、仏陀に次ぐ四大守護神の一つとして、もともと高い地位にあったが、このカタラガマ神が、スリランカ独立以降、さらなる隆盛を誇るようになったのは、次のような理由による。

まず、近代化に伴う社会の流動化とともに、行為とその結果の対応関係が非常に不確実になってくる。すると、その不確実さを乗り越えて個人的な成功と安泰を願う人々が増加し、目的達成のためには手段を選ばないという倫理的雰囲気が生まれる。そして、その祈願の対象として、力強く障害を克服していく神で、シヴァ神という権威者が背後におり、デモーニッシュな面も持ち、真剣に頼る者に対しては、反道徳的な行為も許容するという性格をもった神力タラガマが、就職・事業・選挙・結婚等の問題についても対処しうる神として、信仰を集めるようになったのである。

※スマホ等でも読みやすいように一部改行した

法藏館、リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ、島岩訳『スリランカの仏教』724-725

さらに詳しい解説も見ていこう。私もこの解説には度肝を抜かれた。ものすごいことが書かれているのである。少し長くなるがじっくり読んでいこう。

現在人々は、多くのものを望んでいるが、その望みを達成するための合理的あるいは現実的な方法を、見出すことができないでいるということである。義務教育の浸透により、人々は新たなものを望むようになった。すなわち、農民の子供が、今ではホワイトカラーの職につきたいと願うのである。(中略)

無秩序な近代社会には、現実にはその他にも挫折とフラストレーションが数多く存在している。警察が盗まれた財産をいつも素早く取り戻してくれるわけではないし、また、法的制度もすべての人が平等に利用できるものだと常に考えられているわけではなく、その運用においては不公平が存在する。また、どんなに一生懸命勉強しても、利害関係のある政党が試験結果の発表に手を加えている、という疑いはいつも免れない。さらに、雇用や昇進の際には、資格のある人が無視され、資格はないがコネのある人、あるいは政治家のコネを利用するのがうまい人のほうがうまくいくのである。

現代のスリランカでは、特にエリートの一員でもなければ、自らあるいは自分の家族の向上のために取った合理的行為が、いつも報われるわけではないということを、人々はよく知っている。

法藏館、リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ、島岩訳『スリランカの仏教』148-149

カタラガマ神の隆盛は、教育は受けたものの教育程度に見合った目標(特に仕事)を得ることができない大衆の増加によっている。というのは、彼らが望むものは現実には不足しており、政治的支援なしには実質的には得られないので、世界中でこれまでも見られたように、彼らは、伝統的な手段(この場合には神の斡旋)によって新しい目標を達成しようとしたのである。

伝統的なパンテオンの神々の中でも、スカンダ神は、このような現代の新しい状況にもっとも適した神である。スカンダ神は、飛び抜けて智謀に長けた神であり、阿修羅を滅ぼした神であり、障害を克服する神である。さらに、神に対する行為者の心理的・社会的関係もきわめて重要である。

フラストレーションがたまったとき、人間であれ超自然的存在であれ、自分の利益のために行動してくれる強力な権威ある人物に身を委ねるのは、心地よいことである。そしてスカンダ神が、このような強力な人物なのである。

すなわち、スカンダ神崇拝の底にあるイデオロギーは、子の親に対する依存の気持ちに基づいており、それは、息子が父に従属する代わりに父が息子の望みを叶えてやり、息子の利益のために行動することで息子に報いる、というような形のものなのである。

さらに、現在の急速な社会変動の混乱の中では、目標の達成のための正当な手段を規定する、明確な規範があるとは思えない、と考えている人たちが存在する。

その一方では、マートンがアメリカの社会に関してすでに指摘したように、規範的には是認されえない不道徳ですらある行為によって、喜んで目標を達成する人たちがいる。そしてその際には、スカンダ神がもっとも適した神なのである。

スカンダ神は、多義的なところのない道徳的な神であるヴィシュヌとは異なり、自分に帰依した信者たちを助けるためなら、喜んで何でもしてくれる。そのためスカンダ神は、コロンボの政治家やビジネスマンや大悪党たちの神なのである。

たとえばわれわれが知るところでは、専門職の人たちが、昇進争いで同僚に勝つため、カタラガマのスカンダ神の社を訪れ、寺院の境内の周りの砂の地面の上を裸になって転がり回り、スカンダ神への帰依を熱烈に示していたということがあった」。(中略)

スリランカでも実際に、政治家たちは、左翼、右翼を問わず、選挙に勝つために、あるいは国民的選挙での党の成功を確実にするために、スカンダ神を慰撫している。首相と閣僚たちがスカンダ信仰の信者なのである。そして一般選挙の前には、カタラガマに、各政党からの長い自動車行列ができるのである。

法藏館、リチャード・ゴンブリッチ、ガナナート・オベーセーカラ、島岩訳『スリランカの仏教』278-279

「スカンダ神は、コロンボの政治家やビジネスマンや大悪党たちの神なのである。」

とてつもないパワーワードだ。

自分の勝利のためには手段を選ばない。何が何でも勝たねばならない。そんな願いを叶えてくれるのがカタラガマなのである。これはとてもじゃないがブッダにはお願いできない。

そして注目したいのが、こうしたカタラガマに対する信仰は大都市コロンボの都市住民によって特に熱烈に信仰されたということだ。農村に住む人たちにとってはあまりピンとこない神様だったのである。

このことについてはスリランカを代表する作家マーティン・ウィクラマシンハの小説『時の終焉』でも描かれていた。

「アラウィンダ先生、カタラガマに行かれたの?」

「一度も一度も行ったことがないんです」

「なんですって!デニヤーヤでお生まれだというのに……」

「カタラガマに参拝するのは村人の慣習じゃない。彼らはカタラガマの神々に頓着しないし、恐れてもいないんですよ」

「コロンボからは大勢の人々がカタラガマへ巡礼にでかけるのに」とチャマリーが首を傾げて尋ねた。

「カタラガマの神々は都会の金持ちの神々であって、田舎の人々の崇める神さまじゃないんですよ。カタラガマに参拝するのは、今話した都会に住むシンハラ人の金持ち連中。そのせいで今では田舎にまでその習慣が広まっているんですよ」

財団法人 大同生命国際文化基金、マーティン・ウィクラマシンハ著、野口忠司訳『時の終焉』P120-121

「カタラガマに参拝するのは、今話した都会に住むシンハラ人の金持ち連中」

これがまさに鍵になる。

カタラガマは個人的なあらゆる願いを叶える。資本主義的な弱肉強食なビジネスが急速に展開されていたコロンボにおいて「何をしてでも勝つ」「絶対に経済的に成功する」という願いを懸けることができたのがこのカタラガマ神だったのだ。

しかも上のやりとりの最後に「そのせいで今では田舎にまでその習慣が広まっているんですよ」とあったように、まさに20世紀後半からカタラガマ巡礼はスリランカ全域において非常に篤く信仰されるようになっていく。これはスリランカ全土の教育、経済水準が上がったことや情報伝達、交通網の発達など様々な要因があると思われる。

とにかく、このカタラガマ神というのは急激な都市化を果たしたコロンボならではの新たな神様だったのだ。旧来信仰されていたヒンドゥー教や仏教の守護神としてのカタラガマとは異なる文脈で現在は信仰されているのである。

次の記事では引き続きこのカタラガマと仏教についてお話していく。ここカタラガマにはまだまだ興味深い事実が隠されているのである。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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