⑸ブッダの結婚と息子ラーフラ誕生の意義~本当にラーフラは出家の「障害」だったのだろうか
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ブッダの結婚と息子ラーフラ誕生の意義~本当にラーフラは出家の「障害」だったのだろうか
これからいよいよブッダが出家し、修行生活に入っていく姿を見ていくことになりますが、その前にブッダの出家の大きな決め手となった結婚と息子ラーフラの誕生についてお話ししていきます。このラーフラについては私自身ブッダの伝記を詳しく学ぶまである誤解をしていました。そのためブッダに対しても複雑な思いを持っていたことも事実です。この記事を読めば皆さんもきっと驚かれることでしょう。
では、早速始めていきましょう。
ブッダの結婚と息子ラーフラの誕生
さて、ブッダが出家を志すきっかけとなった「四門出遊」の後、ブッダはヤショーダラーを妻に迎えることになります。当時のインドですから、もちろん恋愛結婚ではありません。王位継承のための重要なステップとしてスッドーダナ王が慎重に選んだ相手だったことでしょう。
そしてこの二人の間にラーフラという息子が生まれることになります。しかしこの「ラーフラ」という名はインドの言葉で「障害」という意味であるとよく語られます。「自分が家を捨て出家することの障害が生まれた」とブッダが感じたことからこの名前が付けられたというのですが、もしそれが本当ならかなりひどい父親ですよね。私もこうしたブッダのエピソードを聞いた時は疑問に思ったものでした。
ですが中村元著『ゴータマ・ブッダ』ではそれとは違う説が説かれていました。
このラーフラという名は「ラーフ」という日蝕や月蝕をもたらす悪魔から来ていて、しかもこの名はブッダではなく、父のスッドーダナ王がつけたものであるということでした。古代インドでは孫の名は祖父がつけることが通例だったようです。つまり、出家の障害になるから「ラーフラ」とブッダが名付けたわけではないということです。
さらに『ブッダチャリタ』でもスッドーダナ王は孫の誕生をたいそう喜んでおり、「障害」というネガティブな意味の名を付けるのは考えにくいと思われます。また、後にラーフラも出家しブッダの弟子になることから二人の関係も良好だったことがうかがわれます。
そしてそもそもなのですが、ラーフラの誕生はブッダの出家の「障害」ではなく、最後の後押しとなったとも考えられます。それはどういうことかといいますと、ここにもやはりインドの風習が関わってくるのです。
かつてのインドでは学生期、家住期、林住期、遊行期という四つの生活を順に送ることが人間の理想の一生の過ごし方であるという考え方がありました。
つまり、若き頃はよき師の下で学び、成人しては家長として働き家族を養って一族の祭祀を執り行い、その後引退して林などに住み瞑想修行をし、最後には遊行の旅に出て出家乞食の生活をするという考え方が現にあったのです。インドにおいては出家をして修行をすることは人々の憧れであり尊敬に値することだったのでした。現代日本においては出家をして修行するのは世を捨て苦行するというイメージがあるかもしれませんが、インドにおいてはその逆に憧れの存在だったというのは重要なポイントです。ブッダの出家だけが特別ではないのです。
またこうして引退後の生活の道筋を示すことで世代交代を円滑にし、なおかつ死に近づき人生問題への解決を求める精神的な要求にも答える方策がインドで理想視されるようになったという側面もあります。ただ、あくまでこれは理想の話で、実際にはなかなか世俗の生活を離れて瞑想修行者になるというのは難しいことではあったようですが、建前上はこうしたライフサイクルが尊敬されていたのでありました。ブッダもまさにこのインド的ライフサイクルに従ったまでなのです。
ただ、ブッダの場合は家を継ぎ家長としての役割を果たす前に修行者になってしまいましたが、これも絶対的な悪ではありませんでした。なぜならブッダは息子という後継ぎをしっかり残し、さらには財産なども妻や息子に残してその後の生活を保障しているからです。当時のインド社会では家族の生活を保障できるならば出家してもよいことになっていました。しかも修養のために一時的に出家修行することも当時の上層階級ではよく行われていたそうです。これは現代でいう留学のようなものであったとも言われています。
ブッダは父のスッドーダナ王から後継ぎになるように強く要請されていました。しかしブッダにはその気はありません。ですがもし息子が生まれてくればブッダは国王にならずとも、その子が正統な後継者となってくれます。つまり、ブッダにとってはラーフラは「障害」どころか「解放」の子であったとも言えるのではないでしょうか。
そしてもう一点考えたいのは妻ヤショーダラーとの関係性です。仏伝にはヤショーダラーのことはほとんど書かれていません。「ブッダがもし妻子を深く愛していたなら彼女たちを置いて出家などできるはずはない」、そう思う方も多いのではないかと思います。私もそう思っていた時期がありました。
ブッダがヤショーダラーを愛していないなら。
ヤショーダラーが悪妻であったなら。
もし、そうであったらブッダは妻から逃れるために出家を選んだとも言えます。
ですがおそらくそうではなかったことでしょう。もしそうであったら仏伝にそう書かれるはずです。(ブッダの従弟デーヴァダッタ(提婆達多)がブッダを誹謗し殺害しようとしたことが強調されたように)
しかしヤショーダラーについてはそのような記述はありません。つまり悪妻の類ではなかったのではないかと思われます。さらに言えば『ゴータマ・ブッダ』には次のような面白い記述も見られました。
珍しい作品であるが、新婚の二人が人生の生老病死を観ずるという図がガンダーラに残っている。その意義は重要である。この図の含意する趣旨によると、生老病死を観じて無常をさとったということは、妃もシッダッタ太子と思いをともにしている。この趣旨によると、太子は妃を捨てたのではなくて、妃との共同理解を実行したということになる。
春秋社、中村元『ゴータマ・ブッダ〈普及版〉』上巻P146
私もこの説には大いに賛同したいです。
ヤショーダラーはブッダのことを理解し共に歩んでいた。
そしてブッダが救いの道を見出すためにあえて送り出した。いつか必ず帰って来てくれることを信じて・・・。
こうしたヤショーダラー像はベトナムの世界的な禅僧ティクナットハン師もそのブッダ伝『小説ブッダ: いにしえの道、白い雲』で採用しています。
次の記事でまたお話ししますが、出家当日の王城脱出の円滑さや、ブッダが悟った後に円満に故郷に帰還したことなども考えるとヤショーダラーとの円満な関係は大いにありうることだと私も考えています。
ラーフラの誕生はブッダにとって「障害」どころの話ではないというのは私個人としても大きな救いとなりました。
次の記事はこちら
※この連載で直接参考にしたのは主に、
中村元『ゴータマ・ブッダ』
梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』
平川彰『ブッダの生涯 『仏所行讃』を読む』
という参考書になります。
※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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