トルストイ『戦争と平和』あらすじ解説と感想~ナポレオン戦争を舞台にしたトルストイの代表作
トルストイ『戦争と平和』あらすじと感想~ナポレオン戦争を舞台にしたトルストイの代表作
今回ご紹介するのは1865年から1869年にかけてトルストイによって連載された『戦争と平和』です。私が読んだのは新潮社版工藤精一郎訳の『戦争と平和』です。
早速この作品について見ていきましょう。
19世紀初頭、ナポレオンのロシア侵入という歴史的大事件に際して発揮されたロシア人の民族性を、貴族社会と民衆のありさまを余すところなく描きつくすことを通して謳いあげた一大叙事詩。1805年アウステルリッツの会戦でフランス軍に打ち破られ、もどってきた平和な暮しのなかにも、きたるべき危機の予感がただようロシア社交界の雰囲気を描きだすところから物語の幕があがる。
Amazon商品紹介ページより
『戦争と平和』といえば誰もがその名を知るトルストイの傑作長編小説です。
ですがいざこの作品を読んだことがある人というのは実際にはほとんどいないというのがその実情ではないでしょうか。
これはユゴーの『レ・ミゼラブル』やセルバンテスの『ドン・キホーテ』なども同じような現象としてよく語られます。
名前は有名だけれども、それを読んだ人はほとんどいない名作。
その代表格が今回ご紹介する『戦争と平和』なのではないでしょうか。
私もドストエフスキーを研究していなければ確実に読んでいなかったと思います。とにかく長い!これほど巨大な作品に手を出すというのはやはりかなりの覚悟が必要になります。
今回の記事のタイトルで「『戦争と平和』のあらすじ」と書いたはいいものの、この作品全体のあらすじをご紹介するのは不可能です。とてつもない分量になってしまいます。
というわけで上のように、第一巻のあらすじだけまずは引用させて頂きました。
この作品はかなりおおまかに言えば、ロシアとナポレオンをめぐる戦争を舞台にした巨大な人間物語ということができます。
前回紹介した川端香男里著『100分de名著 トルストイ『戦争と平和』』ではこの作品について次のように述べられています。『戦争と平和』がいかなる作品かを知る上で非常に重要な解説となっていますので、少し長くなりますがじっくり読んでいきます。
ロシアがヨーロッパの大国として成長していった十八世紀は別名フランスの世紀とも言われ、フランス語フランス文化がヨーロッパ全体を支配していた時代でした。ロシアでも貴族や金持ちたちは幼い時からフランス語漬けで、日常会話はもちろん手紙もフランス語でした。貴族の間では名前をフランス風に呼ぶというのが一般的でした。
『戦争と平和』の主人公の一人は一貫して「ピエール」というフランス語名で呼ばれます。この長編小説の登場人物は何と五百五十九人になりますが、ストーリーは四つの貴族(ボルコンスキイ家、ロストフ家、ベズーホフ家、クラーギン家)の家庭を中心に繰り広げられます。この四家族のうち最も品のない家族として描かれるクラーギン家では子供が全員フランス語名です(イッポリート、アナトール、エレーヌ)。ここにはトルストイの意図がはっきりとうかがえますが、またあとで詳しく述べましょう。
まず物語の時代背景は、貴族たちが祖国のように思っているフランスから、フランス革命の遺産を引き継いだ英雄ナポレオンが攻めて来る、しかも若者の間にはナポレオン崇拝が高まってくる―という状況です。フランスかぶれのロシア人たちが、時代の追い風を一身に集めた英雄ナポレオンに抗して戦うことを余儀なくされ、フランスべったりのロシアの歪みからの脱却を迫られることになるのです。
次に戦争ということを中心に考えると『戦争と平和』には二つの山があります。一八〇五年のアウステルリッツの戦いが前の山で、一八一二年のボロジノ会戦が後の山になります。
第一部と第二部がアウステルリッツを中心にして個人生活を軸に展開する小宇宙の世界であるとすれば、第三部と第四部はボロジノを中心として、国家・民族の歴史がかかわる大字宙の世界です。
両方の世界で共通していることは、作中人物がほとんどみな何かを、何かある絶対的なものを追い求めているということです。
その代表的な人物がアンドレイです。いかに生きるかという模索を徹底的に行うという点で、トルストイの分身とも言っていいこの主人公に対し、トルストイは辛くあたっています。絶えざる「やり直し」の処分にあい、結婚も失敗、戦場に出るたびに負傷し、生死の境目で辛うじて絶対的なものにふれることを許されます。
『戦争と平和』はそれこそ「超」がつくほどの大作です。それを一〇〇分で味わおうというのですから大変ですが、その作者トルストイは正に巨人の名を与えるのにふさわしい人です。ロシア語には巨人を表す言葉がいくつもあります。ギガーント、ヴェリカーン、ティターン、いずれもトルストイを形容する言葉として愛用されています。その思想・行動の振幅の大きさ、その苦悩の奥深さも巨人的です。長く生き、長く書き、まるで「不死の人」(ゴーリキイ)のように時代を越えて生きた人です。
この巨人の生涯の中で『戦争と平和』がどのような位置を占めるかということを中心に『戦争と平和』解読の鍵となるような知識をいくつかあげて「はじめに」を閉じることにいたします。
トルストイは自ら語っています―「私の性格の一つの特徴は……私自身に逆らってまでも、常に時流に乗じた勢力に抵抗したということである。私は一般的傾向というものを憎んだ」と。時代の「一般的傾向」を自分の自立性をおびやかすものと考え、それに抵抗することから常に出発するというわけです。
ロシア文学の主流に対するアウトサイダー、批判者として登場したトルストイは、例えばロマン派の文学を不自然と感じとり、その代わりすでに「過去」のものとされていた十八世紀のルソー、ヴォルテール、スウィフト、スターンなどに親しみをもったのです。異邦人、局外者、新参者、子供という既成概念に囚われないものの眼ですべて見直すという手法です。ピエールという戦争未経験者の眼で見られた『戦争と平和』の戦闘場面もそのいい例でしょう。
トルストイが十八世紀から受け継いだ立場は、「自然」によって人為、文明を批判するということで、この立場はそのまま思想の領域にも適応されることになります。原始キリスト教、ナロード、コサック、ジプシーなどは「自然」を代表し、教会宗教、西欧などは、否定されるべき人為、文明の代表格となります。
最後に見落としてはならないことですが、トルストイが独立独歩の態度を貫き得たのは彼が地主貴族であったからです。生活のために闘わなければならなかったドストエフスキイやチェーホフとは全く違う世界にいたのです。ゴーゴリに発する「ちっぽけな」貧しい人間を描くという十九世紀ロシア文学の伝統に逆らって、貴族の生活を真正面からとりあげた『戦争と平和』は、実はロシア文学史上稀に見る大胆な挑戦だったのです。
NHK出版、川端香男里『100分de名著 トルストイ『戦争と平和』』P4-7
※一部改行しました
私はこの解説の中でも、最後の、
「ゴーゴリに発する「ちっぽけな」貧しい人間を描くという十九世紀ロシア文学の伝統に逆らって、貴族の生活を真正面からとりあげた『戦争と平和』は、実はロシア文学史上稀に見る大胆な挑戦だったのです。」
という箇所が特に印象に残りました。
たしかに言われてみるとそうなのです!
ロシア文学といえばトルストイの『戦争と平和』というイメージが世間では一般的だと思いますが、実はこの作品こそロシア文学の伝統に逆らった独自な作品だったというのは本当に意外でした。言われてみるまで気づきませんでしたが、聞けばものすごく納得です。たしかにプーシキン、ゴーゴリから始まるロシア文学の流れとはかなり異なります。これは興味深い発見でした。
そしてもう一点、同じ『100分de名著』から興味深い解説を紹介したいと思います。
『戦争と平和』とホメロスの叙事詩『イーリアス』~トルストイのギリシャ神話的な文学スタイル
『戦争と平和』は、トルストイ流の長編小説でもあり、叙事詩でもあり、同時に歴史的記録でもあり、歴史理論でもあります。そのすべてを呑みこんでいる「怪物」なのです。
トルストイはゴーリキイに「偽りの謙遜をぬきにすれば、『戦争と平和』は『イーリアス』のようなものだ」と言っています。作者自身のこの「ぶっちゃけた」言葉は、人々を驚かせもし、当惑もさせたようですが、『戦争と平和』が近代の『イーリアス』であることは誰も否定できません。
『戦争と平和』執筆の十年ほど前、第一回の西欧旅行から帰った頃―一八五七年八月、『イーリアス』と『福音書』を多大の興味をもって読み、「『イーリアス』の想像できないほど美しい終わりの部分を読み上げた」とトルストイは日記に書いています。その後の日記からも叙事詩的なるものについての、そしてホメーロスについての関心が持続していることがうかがえます。『コサック』にはすでに、全体を見渡す叙事詩的視点の萌芽が見られますが、『戦争と平和』になりますと、作品の構造自体に『イーリアス』耽読の痕跡をみることができます。
『戦争と平和』はいきなりロシア皇太后の女官、アンナ・シェーレルの夜会から話が始まります。これは前にも述べましたように、ホメーロス叙事詩の書き出しの特徴です。アウステルリッツからボロジノの会戦に至る戦争は、一段高い次元から、宿命論的叙事詩的視点から展望されます。『戦争と平和』の叙事詩的部分は、ボロジノ戦の描写で完結します。
トルストイをして「想像できないほど美しい」と言わせた『イーリアス』の終わりの部分は、アキレウスに殺されたトロイの総大将へクトルの遺骸を、老いたる父プリアモス王が引き取る場面ですが、アキレウスは「なんの憂いもない神々は哀れな人間どもに、苦しみつつ生きるように運命の糸を紡がれた」と語ります。アンドレイがやっと獲得した愛と自由は、「憂いなき神」の世界を支配する巨大な「意思」が、そぼ降る雨の薄暮の中に飛ばす砲弾で霞んでしまいます。
トルストイの人物描写には非常な特徴がありますが、通例「印象主義的」と評されています。たとえばアンドレイの妻リーザに関しては「上唇に産毛が生えている薄い唇」という表現が繰り返されます。夫のアンドレイは「小さな白い手」で特徴づけられます。アンドレイの不美人の妹マリアの「きらきらと輝く」眼、まなざしは繰り返し強調されます。胴の長い公爵令嬢、肥満したピエール、丸っこいプラトン・カラターエフ、すぐ額にしわを寄せる外交官ビリービンなど、枚挙にいとまがありませんが、形容語を聞いただけでその人が誰か分かるのです。これはトルストイがホメーロスの叙事詩から学んだ技法なのです。
『イーリアス』を開いて見ましょう。文字が無かった時代の口承詩ですから、記憶しやすいように、日本で言えば枕詞にあたる、常套句、慣用表現が頻繁に使われます。白き腕のへーレー、頬うるわしいブリセイス、神にもまごうアキレウスなどなど、形容句を聞いただけで人物像が浮かんできます。異様に感じられるかもしれないトルストイの人物描写は、ホメーロス叙事詩の形容語句(エピテトン)に発し、日本の枕詞とも通じているのです。
NHK出版、川端香男里『100分de名著 トルストイ『戦争と平和』P79-81
※一部改行しました
『戦争と平和』が『イリアス』的である・・・
これは私にとって目が開かれるような解説でした。
私は『戦争と平和』を読んだ後に実際にホメロスの『イリアス』を読んでみました。
するとどうでしょう!たしかに『戦争と平和』が『イリアス』的だったのです!
上で解説されている事柄はもちろん、その圧倒的なスケール。そして世界を動かしている秩序を「神々の意思」に象徴して書かれている『イリアス』はたしかに『戦争と平和』と明らかに繋がっているように感じました。
トルストイも二つの戦場を舞台に圧倒的なスケールの物語を描き、その上で世界の真理、秩序を考察していきます。『イリアス』はそれを神々に託して語っていきますが、トルストイは自らの思想を頼りにその物語を語ります。
『イリアス』を読んでいて何度「あぁ、こういうことなのか・・・!」と呻いたことか!
『イリアス』は西洋文学、芸術史において西洋人の誰もが避けることのできない伝説的な存在です。
その伝説的作品と並べられる作品こそ『戦争と平和』なのだということがわかり、ますますこの作品の偉大さが身に沁みるようになりました。
『戦争と平和』はとにかくスケールの大きな作品です。
この記事ではその内容までは詳しくお話しできませんでしたが、この作品のすごさが少しでも伝わってくれたならば嬉しく思います。
この作品はできるだけ若いうちにまず読んだ方がいいです。特に学生のうちにこそ読むべき作品です。
まず読むのに時間がかかり過ぎます。社会人になってからだととてつもない覚悟が必要になります。
さらに言えば、若くて頭が柔軟なうちにトルストイ大先生の説教をがつんと受けておいた方がいいということです。
この作品では「人生とは何か。人間としてどうあるべきなのか」という教訓が山ほど出てきます。
これは年を取ってある程度自分が固まってしまってから聞くより、できるだけ早い方が絶対にその後につながっていきます。トルストイ大先生の説教に頷くか反発するかは自由です。どちらでもいいのです。ですが、こうした圧倒的なスケールで語られる物語や人生の教えをがつんとぶつけられる体験、これはかけがえのないものだと私は思います。
私は31歳にして初めて『戦争と平和』を読みました。やはり学生の時に読めてたらなとも感じましたが、ドストエフスキーを研究して様々な文学や歴史を知った上で読んだ今のタイミングも悪くなかったなと思っています。
ちなみに私はトルストイ大先生の説教に圧倒はされたものの、反発を感じた派であります。これはきっとドストエフスキー的な思考を持っているとこうなりやすいのではないかと感じております。
ドストエフスキーが小さな暗い部屋で何人かが集まりやんややんやと奇怪な言葉のやりとりを繰り返す物語を書くとすれば、トルストイはロシアやカフカースの広大な世界や華やかな貴族の大広間のイメージです。
ドストエフスキーが人間の内面の奥深く奥深くの深淵に潜っていく感じだとすれば、トルストイは空高く、はるか彼方まで広がっていくような空間の広がりを感じます。
深く深く潜っていくドストエフスキーと高く広く世界を掴もうとするトルストイ。
二人の違いがものすごく感じられたのが『戦争と平和』という作品でした。
万人におすすめできる作品ではありませんが、凄まじい作品であることに間違いはありません。一度読んだら忘れられない圧倒的なスケールです。巨人トルストイを感じるならこの作品です。
以上、「トルストイ『戦争と平和』あらすじと感想~ナポレオン戦争を舞台にしたトルストイの代表作」でした。
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※『戦争と平和』のおすすめ参考書『ナターシャの踊り』について
この記事では川端香男里著の『100分de名著』をおすすめ参考書として紹介しましたが、以前当ブログでも紹介したO・ファイジズの『ナターシャの踊り ロシア文化史』という作品も非常におすすめです。
この作品のタイトルにあります「ナターシャの踊り」はまさしく『戦争と平和』に出てくる話が元になっています。
このことについて訳者解説では次のように述べられています。
「ナターシャの踊り」が意味するもの
「ナターシャの踊り」という、想像をかき立てる本書の標題は、序章で明らかにされるようにトルストイの小説『戦争と平和』の有名な一場面に由来している。
小説の主人公の一人、貴族ロストフ家の令嬢ナターシャが、猟のあとで森の中にある「おじさん」の丸太小屋を訪れる。バラライカの音色や民謡の調べを耳にした彼女は、「おじさん」に促されると農民のような身のこなしで踊り出す。むろん、伯爵家に生まれ育った彼女がそんな踊りを習い覚える機会など、それまでにあったはずがない。
では「どうしてナターシャは踊りのリズムをこれほど直感的にわがものとすることができたのか?どうして彼女は社会階層によっても教育によっても自分から隔たっている農村文化に、これほどたやすく入り込むことができたのか?ロシアのような国は生まれながらの感性という目に見えない糸でひとつにまとまっているのかもしれないと考えるべきなのか?」(本書一七頁)
本書の冒頭でこのエピソードが紹介されるのは、ファイジズがそこに本全体のコンセプトと共鳴する象徴的な光景を見ているためである。
十八世紀初頭のピョートル改革をきっかけとして、ロシアではヨーロッパ化したエリートと従来の生活習慣の中にとどまる民衆との文化的な隔絶が決定的となった。トルストイの描く上記の場面で前提とされているのもその点である。
一方、そこで問題となるのは、ロシアの社会がそのように分裂を抱えていたのであれば、彼らの文化をまとめて「ロシア文化」と称することがどうして可能なのか、そもそも「ロシア文化」とは誰によって担われていたのか、といった点である。
実際、『戦争と平和』が描いた時代の、ヨーロッパ式の教育を受けフランス語を日常語とした首都の上流貴族にとって、自分の領地の農民よりも遠い西欧のエリートの方が文化的に近い存在と感じられても不思議ではなかっただろう。
ファイジズは本書を通じてそんな根源的な問題に読者の注意を促している。本書が前提とするのは、「ロシア性」というものが決して時代を超えて普遍的に存在する実体ではなく、歴史上の諸局面で人びとの意識の内に「作られてきた」概念である、という認識である。もっとも、著者の狙いはこの概念を虚構に過ぎないとして退けることではない。むしろこの虚構がいかに豊かな文化を生み出してきたか、また逆にこの概念が作られ伝達されるプロセスにおいて文化がいかに重要な役割を担ってきたか。この観点から二五〇年にわたるロシア文化史を描いたのが、本書『ナターシャの踊り』なのである。
従って、ここにはロシア文化史を彩る多くの固有名詞が登場するが、その主眼はあくまでロシア文化の「ロシア性」を形作っている要素を浮き彫りにすることにある。著者も序章で述べているように本書の目的は包括的な歴史記述ではなく、そのため重要な文化人にそれに見合った紙面が割かれていないことも多い(チャイコフスキーの扱いがムソルグスキーやストラヴィンスキーなどに比して小さいことなどはその一例であろう)。本書の最大の主人公は「ロシア文化」という概念そのものなのである。
白水社、オーランドー・ファイジズ、鳥山祐介、巽由樹子、中野幸男訳『ナターシャの踊り ロシア文化史』下巻P420ー421
※一部改行しました
いかがでしょうか。この解説を読むだけでワクワクしてきますよね。ものすごく刺激的な内容です。文化はいかにして生まれてくるのか。それは自然発生的なものなのか、人為的なものなのか、はたまた相互作用的なものなのか・・・
こうしたことを幅広い視点からじっくりと考えていくのがこの本の最大の特徴です。ものすごく面白いです。
この参考書を読んでから『戦争と平和』を読めば、「なるほど!そういうことだったのか!」という発見がたくさん出てきます。『戦争と平和』をより深く味わうためにもぜひともおすすめしたい参考書です。
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