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メンデルスゾーンのスコットランド旅行と文学のつながり~あの名曲『スコットランド交響曲』はこうして生まれた

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メンデルスゾーンのスコットランド旅行と文学のつながり~あの名曲『スコットランド交響曲』はこうして生まれた

メンデルスゾーンは1829年、彼が20歳の時にイギリス・スコットランドに大旅行に出かけます。

この時代の名家の跡継ぎたちは教養旅行(グランドツアー)という名目でヨーロッパ中を旅するという習慣がありました。若い頃に旅に出て経験を積み、さらには人脈も広げることも目的とされていました。

メンデルゾーンもそうした教養旅行の一環としてこのスコットランドを訪れたのでした。

そしてそこで目にしたある建築物から彼の「スコットランド交響曲」は始まることになります。

それがエディンバラのホリルード宮殿の廃墟となった礼拝堂でした。

ホリルード宮殿の廃墟となった礼拝堂 Wikipediaより

ここで得たインスピレーションから彼の13年にもわたる「スコットランド交響曲」の作曲の道が始まったのでした。

クラシック音楽の中で私が一番好きなのがこの曲です。

今回の記事では星野宏美著『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』を参考に彼のスコットランド旅行について見ていきたいと思います。

スコットランド旅行の旅程

まず、メンデルスゾーンのスコットランド旅行の大まかなルートを確認しておこう。1829年7月22日、彼はクリンゲマンとともにロンドンを出立する。ヨーク、ダラムを経て、7月26日にエディンバラに到着した。ここには数日滞在し、ホリルード宮殿等を観光している。7月31日にはアボッツフォードに作家のウォルター・スコット Sir Walter Scott (1771-1832)を訪問した。

翌日から、2人のハイランド地方の旅行が始まる。8月1日にエディンバラを出発し、スターリングを経由してパースに着く。2日にはダンケルド等を通って、ブレア・アソールまで進んだ。3日にはブレア・アソール近郊を観光し、4日にスコットランド北西岸へと向かう。ロッホ・テイ、べン・モーア、ロッホ・トゥラ、グレンコーを通って、6日には大西洋側の港町、フォート・ウィリアムに着いている。

7日早朝から9日の朝までは、へブリディーズ諸島を周遊する海の旅となった。7日はフォート・ウィリアムからオーバンへ、オーバンからマル島のトバモリへと進む。8日にはトバモリからスタッファ島を訪れ、「フィンガルの洞窟」を観光した。本来はその日のうちにオーバンに戻ってくる予定だったが、嵐のためトバモリに停泊することとなり、9日の朝にオーバンに到着した。

9日には陸路でインヴァレアーリまで進み、10日には陸路と水路を継いでグラスゴーに到着する。その後、グラスゴーを拠点にロッホ・ローモンドなどをめぐり、おそらく14日にグラスゴーから南下を始めた。そして、8月19日に2人はリヴァプールで別れる。クリンゲマンは仕事のためロンドンに戻り、メンデルスゾーンはひとりでウェールズ地方へと向かった。ウェールズでは知り合いの家に滞在して、久しぶりにゆったりと過ごした。メンデルスゾーンがロンドンに戻ったのは9月10日である。

音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P64-5

言葉だけだとなかなかイメージしにくいですが、地図を見ながらそのルートを辿ってみるとかなり大規模な旅行だったことがわかります。

教養旅行としてのスコットランド旅行~文学、特にゲーテとのつながり

前項では、メンデルスゾーンの大旅行が「音楽教養旅行」あるいは就職活動としての意味を持っていたことを強調した。しかし、彼の大旅行にはもうひとつの側面があったことも見逃せない。すなわち、当時のヨーロッパ市民層の間で一般的だった教養旅行の側面である。とくに、夏の休暇を兼ねて出掛けたスコットランドと、大旅行中で最も長い滞在となったイタリアは教養旅行の人気スポットであり、メンデルスゾーンもそこでは音楽に限らずに幅広い経験を積んでいる。

教養旅行としての側面は、従来の研究では、専らイタリア旅行について指摘されてきた。なかでも、文学者の立場からメンデルスゾーンのイタリア旅行中の手紙を分析したミラーの論考は示唆に富む。彼の論述を要約しよう。メンデルスゾーンは、イタリアからの手紙の中で「私」をいわば小説中の人物に仕立てつつ、自己の体験を物語るような書き方をしている。とくに、家族あての手紙にはその傾向が強い。(中略)

もう一方で、メンデルスゾーンのイタリアからの手紙には、ゲーテJohann Wolfgang von Goethe (1749~ 1832)の圧倒的な精神的影響が読みとれる。それは文体ではなく、手紙の全体的な雰囲気、考え方と言葉遣いに感じられる。ゲーテの『イタリア紀行』(1816年出版)を直接に引用している部分はもちろん、そうでなくとも、旅行中の体験を報告する際に、メンデルスゾーンは意識的にも、無意識的にもそれを指標としているのである。つまり、彼はイタリアの風景や遺跡、建築や芸術品などを現実に目にする前に、既にゲーテを通して対象についての知識を得、さらには解釈も与えられていた。「彼はイタリア、とくにローマとナポリに滞在中、実はゲーテのイタリアに生きていた」とも言えるのだ。これは。この時期にイタリアに向かったすべての旅行者に多かれ少なかれ共通する傾向であった。

本節では以下、ミラーの論考を参考にしつつ、メンデルスゾーンのスコットランド、旅行についても、当時の教養旅行の脈絡に位置づけ、とくにその文学的背景を明らかにしたい。後に引用するが、メンデルスゾーンのスコットランドからの手紙には独特な雰囲気が漂い、文学からの影響が感じられる。また、既に引用した手紙の中でも、彼は例えばバグパイプに何度も言及しているが、それをスコットランド特有のものとして認識し、実際の音楽体験に期待を高めていたのは、それまでに読んだ文学書からの知識に基づくのであろう。当時、文学を通してスコットランドのイメージが形成され、それをメンデルスゾーンと彼の時代の教養市民層が共有していたことは疑いなのである。

音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P65-6

ゲーテがいかに当時の人たちに影響を与えていたかがわかります。

そしてメンデルスゾーンはこの時すでにゲーテと3度直接会っており、親交を結んでいます。ゲーテはメンデルスゾーンを特に気に入り、メンデルスゾーンが屋敷に滞在している時は彼の音楽に耳を傾け、大いに語らったとされています。

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メンデルスゾーンもそんなゲーテから多大な影響を受けた一人なのでした。

文学上のスコットランドブーム

18世紀後半から19世紀にかけて、ヨーロッパではスコットランドへの関心が急速へに高まった。文学や絵画、音楽等の芸術諸分野でスコットランドが題材に取り上げられたが、中でも特筆するべきは、文学上の動きである。

1760年代、スコットランドの詩人で歴史家でもあったマクファーソンJames Macpherson(1736~1796)が、スコットランド・ハイランド地方に伝わる古い歌、いわゆる「オシアンの歌」を近代英語に訳して発表し、ヨーロッパ中で爆発的な反響を喚んだ。(中略)

ハープを奏でながら時には朗々と、時には物思いに沈みつつ、一族の歴史を回顧するオシアンは、当時の人々の心を強く揺さぶった。人々は、スコットランドという北方の未開拓な地の過去に、野性的で神秘的でメランコリックなイメージを抱き、遠く憧れるようになる。

英訳の出版後まもなく、「オシアンの歌」は各国語に訳されて広く読まれ、ヨーロッパ全域のロマン派文学運動に大きな影響を与えることになった。それがとくに顕著に観察できるのがドイツである。1764年を皮切りに、18世紀を通していくつものドイツ語訳―抄訳および全訳―が出版された。当時のドイツの詩人たちはこぞって「オシアンの歌」に感化され、それを何らかの方法で自作に取り入れた。最も有名な例は、「オシアンの歌」のいくつかを自ら訳して、小説の終幕に効果的に取り入れたゲーテの『若きウェルテルの悩み』 (1774年)であろう。しかし、このゲーテの師でもあったへルダーJohann Gottfried Herder(1774 ~1803)こそ、1760年代から1770年代にオシアンにとりわけ熱中し、その影響をドイツ文学界に持ち込んだ立役者であった。彼は「オシアンの歌」を通して、素朴で力強い民衆の文化、すなわち「民謡Volkslied」に開眼したのであった。


音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P66-7

スコットランド文学がヨーロッパ、特にドイツで人気となっていたという流れがあったのですね。しかもここでまた出てくるのがゲーテ。やはりゲーテの影響力はすさまじいですね。

参考までに『若きウェルテル』の紹介記事を以下に掲載します。

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スコットランド文学の王ウォルター・スコット~『アイヴァンホー』など騎士道物語や歴史小説で有名な大作家。あのドストエフスキーも絶賛

こうして一方ではスコットランドの過去に対する関心が喚起され、もう一方では民謡を基盤とする新しい文学の誕生が準備された時代に現れ、当時、スコットランドの国民的英雄と崇められたのがウォルター・スコットである。彼はエディンバラの生まれだが、両親ともスコットランドとイングランドが接する国境地方の出身であり、彼自身も幼少時代をそこで過ごした。国境地方は美しい自然に恵まれるのみならず、占い民謡や民話、伝説の宝庫であり、スコットは早くからそれらに親しんだ。彼はまた、同時代のドイツ・ロマン派文学からも大きな影響を受け、その英訳を手掛けている。(中略)

彼の本領は『ウェーヴァリー、または60年の昔』(1814年)に始まる歴史小説においてこそ最大限に発揮された。「ウェーヴァリー小説」において彼は、スコットランドの歴史を題材とするだけでなく、城や教会など歴史的建造物とそれを取り巻く美しい風景―湖や山々―を鮮明に描き出し、この土地に歴史の重みをはっきりと刻み込んだ。加えて、そこで繰り広げられる愛と冒険は、大衆小説に通じるものでもあり、当時の多くの人々を魅了した。

19世紀のスコット崇拝者は数え切れない。ヴィクトリア女王Queen Victoria(1819-1901.在位1837-1901)と夫君のアルバート公Prince Albert(1819-1861)もスコットを愛読し、その詩句をそらんじていたという。1842年に2人は初めてスコットランドを訪れるが、その時にアルバート公が記した文章が興味深いので引用しよう。「歴史的伝統がこれほど忠実に保存されている地方はない……。あらゆる場所が何か興味深い歴史的事実と関係があり、その大部分はウォルター・スコットの正確な描写のおかげで私たちが親しく知っている歴史的事実なのである。」この時代のヨーロッパの人々は、ゲーテの『イタリア紀行』を通してイタリアを知り、イタリアを見ていたのと同様に、スコットの歴史小説を通してスコットランドを知り、スコットランドを体験したと言えるだろう。

こうして、「オシアンの歌」とスコット文学によって高められたスコットランドへの関心は、初期の観光産業の発達と結びついたこともあり、人々を実際にこの北方の地へと誘った。メンデルスゾーンとクリンゲマンが旅行した1829年は、このような教養旅行の目的地としてスコットランドが熱い視線を集め、その人気がピークに達した頃だったのである。

音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P67-8

ウォルター・スコットについてはロシアの文豪ドストエフスキーも大絶賛しています。

ドストエフスキーも子供の頃から彼の作品を読んでおり、その魅力にとりつかれた一人です。

そして晩年も子どもの教育に何を読ませたらかよいかを悩む手紙に対して返事を書いています。その一部を紹介します。

 十二歳のとき、小生は休暇中に田舎でウォルター・スコットの作品をぜんぶ読破しましたが、よしんばそれが小生の空想と感受性を発達させたにもせよ、そのかわり、決して悪いほうでなく、よい方面に発達させました。とくに、そうしたいっさいの読書から、数え切れないほどの美しい、高遠な印象を得て、生涯それを心に秘めていたので、それが小生の心に、誘惑と、情欲と、腐敗に充ちた印象と戦うための、大きな力を形成してくれたのですから、なおさら小生は自分の言葉の真実さを信じます。

 小生はご令嬢にいまウォルター・スコットをお読ませになるよう勧告します。まして、スコットはいまロシヤで完全に忘れられているから、なおのこと必要です。後日、ご令嬢がすでに独立の生活を営まれるようになったら、ご自分でこの偉大な作家と親しもうなどということは、不可能でもあるし、そうした要求も感じられないでしょう。そういうわけですから、ご令嬢が両親の家におられるあいだに、スコットと親しませる時機をお捕えになるといいです。ウォルター・スコットは、高い教育的な価値を持っています。

河出書房新社 米川正夫訳『ドストエーフスキイ全集18 書簡下』 P430

子どもの教育にはスコットが最適!ドストエフスキーはこの手紙でお墨付きを与えています。

ウォルター・スコットは日本ではあまり知られていませんが、ドストエフスキーにとってはとても大切な作家であったことがこの手紙からもうかがわれることでしょう。

スコットについては以下の記事で紹介したJ・G・ロックハートの『ウォルター・スコット伝』という伝記がとてもわかりやすくおすすめです。また、『アイヴァンホー』というスコットの代表作は文句なしに面白い傑作です。こてこての騎士道物語で、あのロビンフットも登場します。ぜひスコットはおすすめしたい作家です。

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そしてメンデルスゾーンもそんなスコットに憧れていた一人であり、スコットの邸宅を訪ねることをこの旅の大きな目的としていました。折悪く、彼らが到着した時に、スコットは所用で出かける寸前であり、「30分ほど取るに足りない会話」をしただけでお別れとなってしまったようです。これにはメンデルスゾーンもがっくり来たようですが、アポなしでの突撃ではやむなしといったところでしょうか。ですが、現代を生きる私たちからすればそんな偉大な作家と30分もお目通りできたなんて羨ましすぎですよね。本当に羨ましい限りです。

『スコットランド交響曲』着想の地ホリルード宮殿

ホリルード宮殿の歴史は12世紀に遡る。1128年、キリストが処刑された十字架(=ホリルードHoly-Rood)の破片を聖遺物として祭るための礼拝堂が建てられ、その後さらに付属の迎賓館として宮殿が増築された。歴代の王が居城としたことから、ホリルード宮殿は、スコットランド史に残る数々の逸話の舞台となった。16世紀にほぼ現在の形になるが、1768年に礼拝堂が崩壊し、そのままの姿で今日まで残されている。廃墟となった礼拝堂は、ロマン派の文学や絵画の格好の題材となった。

スコットの歴史小説においても、ホリルード宮殿は好んで取り上げられている。なかでも注目に値するのが『修道院長』(1820年)である。ここでは、スコットランドの悲劇の女王、メアリー・スチュアートQueen Mary Stuart (1542-1587)との関連でホリルード宮殿の一場面が印象的に描かれている。政治的、宗教的勢力争いの渦中に生き、波乱に満ちたメアリーの生涯の中でも、リッチョ殺害という最も劇的な事件の舞台となったのがホリルード宮殿であった。


音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P69
ホリルード宮殿の廃墟となった礼拝堂 Wikipediaより

ホリルード宮殿はエディンバラにあります。

ここは上の解説にもありましたように、メアリー女王の悲劇の地として知られています。

メンデルスゾーンはここでインスピレーションを受け、『スコットランド交響曲』の着想を得たのでした。

ここで起きた悲劇の歴史については長くなりますのでこの記事では割愛させて頂きます。

必見!手紙で語られたメンデルスゾーンのスコットランド旅行⑴~手紙から見えてくる圧倒的な文才

メンデルスゾーンとクリンゲマンは、1829年7月26日にエディンバラに到着した。翌々日の28日、メンデルスゾーンは早速、父アーブラハムにスコットランドの第一印象を伝えている。

エディンバラに折よく日曜日に到着。そこで草地を越えて、アーサーの座という名のものすごく険しい2枚の岩盤に近づき、よじ登る。眼下では、ありとあらゆる男と女と子供と、そして牛が緑の中を歩きまわっている。四方八方に広大に街が広がる。その真ん中に城郭が、あたかも鳥の巣のように、斜面に聳える。城郭の向こうには草地が見え、そしていくつかの丘が、そして幅の広い川が見える。川の向こうにはまた丘があり、そしてやや険しい山がある。その山の上にスターリングの建物が姿を見せている。それはもう青い空の彼方だ。その後ろにぼんやりとした影があるが、人々はそれをべン・ローモンドだと言っている。これらすべては、アーサーの座から見える半分でしかない。もう半分は実に簡素だ。それは水平線まで広がる、青い海である。果てしなく広大で、白い帆船や蒸気船の黒い煙突、小さな昆虫のような小舟やボートや岩などがあちこちに見える。いったい、どうお伝えすればよいのでしょうか。皆さんも、自分の目で見なければなりません。神がパノラマ画を手掛けたら、素晴らしいものになるでしょう、スイスの思い出の中でも、これに匹敵するものはほとんどありません。ここではすべてが厳粛で剛健に見えます。そしてすべては、薄もやか煙か霧の中に半分埋もれています。その上、翌日にはハイランド人たちのバグパイプの競演が行われるので、多くの人々が正装をして教会から出てきて、腕には誇らしげに着飾った女性たちをエスコートし、堂々と勿体ぶってあたりを見渡しました。長い赤い髭をして、色とりどりのマントを着、羽飾りの付いた帽子をかぶって、膝を露出し、手にはバグパイプを持ち、たいへんゆったり、草地の上に横たわる半分て朽ち果てた灰色の宮殿を通り過ぎていきました。かつてここでメアリー・スチュアートは輝かしい人生をおくり、またリッチョが殺害されるのを目の当たりにしたのです。私には、時間がとても速く過ぎ去ったかのように思われます。というのも、私の前には、現代と並んでこんなにも多くの過去があるからです。

前半では「アーサーの座」からのパノラマ、果てしなく広がる大地と大海―初めて目にする北方の雄大な風土が詳細緻密に把握されている。その完璧なまでの描写、そして大自然の中にたたずむ自己の孤独感の表現には、明らかに当時の文学作品の影響が窺える。後半では、メンデルスゾーンの視線は民衆の営みに向けられ、それとともに土地の印象や率直な感想が綴られる。薄もやに覆われた風景。色とりどりのマントを着た人々。都会の洗練された人間には考えられない、膝を露出した民族衣装。スコットランドのシンボルであるバグパイプも欠けていない。文学作品を通して知ったスコットランドのイメージがそのまま現前にある。一方、朽ち果てた宮殿の姿は、ここを舞台に繰り広げられたスコットランドの歴史のひとこまが今や遠い昔のものであることを物語っている。現実と虚構、現在と過去が混然と一体化し、時空間の感覚を一瞬狂わせるような独特の雰囲気をメンデルスゾーンは体験していると言えよう。

音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P72-3

太字で書かれているのがメンデルスゾーンの手紙なのですが、その文才には驚かされますよね。もはや作家の域です。ここまで完璧に目の前の風景や人々の様子を描写できる彼の分析力、表現力には脱帽です。こうした能力が音楽にも生かされていると考えると、メンデルスゾーンの驚くべき才能には圧倒されるばかりです。

必見!手紙で語られたメンデルスゾーンのスコットランド旅行⑵~『スコットランド交響曲』着想の瞬間

メンデルスゾーンのスコットランドからの第二信は、第一信の翌々日、すなわち、7月30日の夜分に書かれている。ここでメンデルスゾーンは、第一信でも触れていたホリルード宮殿をこの日の夕刻に観光したと伝える。

深い黄昏の中、私たちは今日、女王メアリーが人生を送り、愛を営んだ宮殿へ行きました。そこでは、ひとつの小部屋を見ることができます。扉近くには螺旋階段。そこを彼らは昇り、小部屋にリッチョを見つけ、その外へ引きずり出しました。そこから3つ目の部屋に真っ暗な角があり、そこで彼らは彼を殺害しました。宮殿の脇の礼拝堂には今は屋根がなく、草や蔦が中に茂っています。今は壊れた祭壇で、メアリーはスコットランド女王の冠を戴きました。そこではすべてが壊れ、朽ち、そこに明るい空が光を差し込んでいます。思うに、私は今日そこで、私のスコットランド交響曲の始まりを見つけました。それではごきげんよう。

この手紙でもまた、メンデルスゾーンの描写は具体性に富み、読み手の脳裏にその場の光景を―過去の出来事も含めて―現前化させる。単なる手紙というよりは歴史小説の一節のようである。「女王メアリーが人生を送り、愛を営んだ宮殿」”wo Königin Maria gelebt und geliebt hat”と韻を踏んでいる一と始め、彼はホリルード宮殿と隣接する礼拝堂を歴史的シーンの舞台として描写する。今は廃墟となった礼拝堂に蔦が茂り、太陽の光が差し込む様子を記した後、彼はこの日、この場で「スコットランド交響曲の始まり」を着想したことを報告するのである。

音楽之友社、星野宏美『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』P73-4

私はこのメンデルスゾーンの言葉に痺れてしまいました・・・!

なんと詩的でドラマチックなんでしょう・・・!

自分の大好きな曲がどのようにして生れたのかというのはものすごく興味深いものですよね。

それがここまで美しい言葉で語られたならば私はもう完全にノックアウトです。

エディンバラ、特にホリルード宮殿にはものすごく行きたくなってしまいました。メンデルスゾーンがこの曲を生んだ地をぜひ自分の目で見てみたい!そんな気持ちでいっぱいになってしまいました。

おわりに

これまでメンデルスゾーンの名曲『スコットランド交響曲』が生まれるきっかけとなったスコットランド旅行について見てきました。

こういう背景を知ってからこの曲を聴いてみると、また違って聴こえてきますよね。

特にこの曲の始まりはまさにホリルード宮殿での着想から生まれています。その部分を聴いているとまさにホリルード宮殿の風景やその地のドラマが目の前に浮かんでくるようです。

ぜひぜひこの曲は多くの方に聴いて頂きたい名曲です。

この曲についてもっと知りたい方はぜひ星野宏美さんの『メンデルスゾーンのスコットランド交響曲』や、以下の関連記事にもリンクを掲載しますがメンデルスゾーンの伝記をおすすめします。

この記事でもお話ししましたがメンデルスゾーンと文学とのつながりは非常に大きなものがあります。特にゲーテの影響は非常に大きなものがあります。

19世紀を代表する天才音楽家メンデルスゾーンと偉大なる万能の詩人ゲーテ。

この二人のつながりは私にとっても非常に興味深いものがありました。この2人については改めてお話ししていきたいと思います。

以上、「メンデルスゾーンのスコットランド旅行と文学のつながり~あの名曲『スコットランド交響曲』はこうして生まれた」でした。

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この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

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