MENU

オウム真理教とお寺と私―ドストエフスキーとの出会い

ドストエフスキー
目次

オウム真理教とお寺と私―ドストエフスキーとの出会い

皆さんこんにちは。

前回の記事「回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・」では「宗教は人間が作ったものではなく、人間の中から生まれてきたのではないか」ということをお話しさせて頂きました。

あわせて読みたい
回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・ 宗教は人間が作ったのか、それとも人間から生まれてきたのか。この問題に一度捕えられたら最後、私はこれからもずっとこの問題と戦い続けることになるでしょう。ブログの名にあるように、まさしく自問自答です。わからないからこそ問い続けるしかありません。これからも「宗教とは何か」という大きな問いに向き合っていきたいと思います。

この記事は「私にとって宗教とは何か」という問題について、改めてまとめてみたものでありました。

さて、その記事をアップしてからある方からこんな質問を頂きました。

「宗教が人から生まれてきたのなら、新興宗教もそうなの?ならオウムのあの事件はどう考えたらいいの?」

そうなのです。これは非常に重要な問題です。

この問いを私に引きつけて言い換えてみると、

「私はオウムと何が違うのか」

という問いかけになります。

これこそ私が苦しみ続けた、いや今も苦しみ続けている問題なのです。

地下鉄サリン事件が起きた1995年、その頃私はまだ5歳でした。

事件が起きた当時のことは詳しくは思い出せませんが、子供ながらになんとなくではありますが大変なことが起きていると心配しながらテレビのニュースを見ていたのを覚えています。

私は三人兄弟の長男で妹が2人います。そのため生まれた時から跡継ぎとして育てられてきました。

私自身も中学入学の頃にはお坊さんになって跡を継ぎたいと考えるようになっていました。父の後姿に憧れを持つようになっていたのです。

ただ、この頃にはまだお坊さんになるということがどういうことなのかわかっていませんでした。そこまで深くは考えていなかったのです。

しかし高校生になる頃には、「自分はいずれお坊さんになって家を継ぐけれども、自分は本当にそれに値する人間なのだろうか」と漠然ながら考えるようになっていきました。

そうです。この頃から私の中に「オウム」の影が巣食うようになっていたのです。

幼い頃にニュースで見た地下鉄サリン事件。

高校生にもなると自分でそれについて調べることもできるようになります。

大人のようにしっかりとした研究とまではいかなくとも、その時なりにオウムとは何か、あの事件で何が起こったのかということが少しずつわかってきました。

麻原彰晃を教祖とするオウム真理教という宗教団体がたくさんの人を洗脳したという事実。

宗教の名の下に無差別に多くの人を殺害し、生存者にも後遺症を負わせた地下鉄サリン事件。

私にはこれらの事実が全く他人事のようには感じられませんでした。

なぜなら私もいずれ僧侶になり、宗教に携わるからです。

オウムは宗教であり、その宗教が人を洗脳し、無差別に人を傷つけました。

仏教も宗教です。

もちろん、オウムのような事件を起こしたりはしていないし、明らかにオウムとお寺は違うように思えます。

ですが、突き詰めて考えれば考えるほど、その違いが段々とわからなくなっていきました。

「人が神仏など目に見えない何かを信じ、それに基づいて行動する」

これが宗教の定義だとすればオウムと自分の違いがわからなくなってしまうのです。あえてその中で違いを見出すのならば、「本質的な違い」というよりオウムと私の「程度の差」ぐらいしか私にはわかりませんでした。

オウムも仏教も宗教という一つの大きな枠組みの中にあります。

そういった意味ではオウムも私も変わりません。

しかしオウムは宗教のシステムの中の「権威主義」や「排他性」を極限まで高め、信者の思考を奪い、麻原彰晃のみが真理であり正義であると信じ込ませました。

そして世の中を救うためには人を殺すことも辞さずというところまでその信仰はエスカレートしていきました。

これは許されざる行為であると私は思います。

しかしです。それでも私は本当にオウムと違うのかと言われたら確信が持てなかったのです。なぜなら人類の歴史上、宗教が原因の争いが数え切れないほど存在していることもこの時には知っていたからです。もはや子供のように何も知らない無邪気な気持ちのままではいられなかったのです。

私は当時からお寺が好きでしたし、仏教を学ぶことに対しても、お寺を継ぐということについても全く嫌悪感は持っていませんでした。むしろ「継がせてください」と思っていたほどです。

これは父の影響が大きかったと思います。そう思わせてくれるようなお坊さんなのです。私には幸運にもそういうお坊さんが身近にいてくれていたのです。

ただ、問題は私自身でした。

私自身が宗教に対して確信を持てずにいました。

「私はオウムと何が違うのか」

「私はお坊さんになってどうなりたいというのだろうか。何をしようとしているのだろうか」

そんなことを高校生の頃には思うようになっていたのです。

そして大学に入学し、様々な授業を受けているうちに宗教学という分野と出会うことになり、仏教だけではなく様々な宗教を学んでいくようになっていきました。

私が宗教学を学び、「宗教とは何か」と考えるようになったのは実は「自分はオウムと何が違うのか」という葛藤から来ていたのです。

そしてそのような葛藤の中にあった大学時代、私はある決定的な出会いをすることになります。

それがドストエフスキーだったのです。

次の記事からは「私とドストエフスキー」についてお話ししていきます。

私とドストエフスキーのつながりは何なのか。そもそもドストエフスキーは何を主張していた人なのか。そしてなぜ今私がここでドストエフスキーを持ち出さなければならなかったのか。

読んで下さっている皆さんは今急に出てきたドストエフスキーにぽかんとされているかもしれませんが、私にとってはこれは必然なのです。このことは後の記事で示していくことになります。

さて、「オウムと私は何が違うのか」、そのことについて今回は詳しくお話しできませんでしたが、私の立場についてはおぼろげながらもお伝え出来たのではないかと思います。

本日も最後までお付き合い頂きありがとうございました。引き続きお付き合い頂けましたら幸いでございます。

次の記事はこちら

あわせて読みたい
僧侶の私がなぜドストエフスキーを学ぶのか~私とドストエフスキーの出会い⑴ 地元を離れた東京での学生時代。 「お坊さんになるなら『カラマーゾフの兄弟』を読んでみてほしい」 偶然出会ったある人の言葉が私にとって一生を変えるほどの衝撃をもたらすことになりました。 私とドストエフスキーの初めての出会いをこの記事ではお話ししています。

前の記事はこちら

あわせて読みたい
回想の世界一周~宗教は人が作ったものなのか、それとも・・・ 宗教は人間が作ったのか、それとも人間から生まれてきたのか。この問題に一度捕えられたら最後、私はこれからもずっとこの問題と戦い続けることになるでしょう。ブログの名にあるように、まさしく自問自答です。わからないからこそ問い続けるしかありません。これからも「宗教とは何か」という大きな問いに向き合っていきたいと思います。

関連記事

あわせて読みたい
「なぜ僧侶の私がドストエフスキーや世界文学を?」記事一覧~親鸞とドストエフスキーの驚くべき共通点 親鸞とドストエフスキー。 平安末期から鎌倉時代に生きた僧侶と、片や19世紀ロシアを代表する文豪。 全く関係のなさそうな2人ですが実は重大なつながりがあるとしたらいかがでしょうか。 このまとめ記事ではそうした私とドストエフスキーの出会いと、なぜ僧侶である私がドストエフスキーを学ばなければならないのかを紹介しています。
あわせて読みたい
『カラマーゾフの兄弟』大審問官の衝撃!宗教とは一体何なのか!私とドストエフスキーの出会い⑵ 『カラマーゾフの兄弟』を読んで、「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私の上にドストエフスキーの稲妻が落ちます。 私は知ってしまいました。もう後戻りすることはできません。 これまで漠然と「宗教とは何か」「オウムと私は何が違うのか」と悩んでいた私に明確に道が作られた瞬間でした。 私はこの問題を乗り越えていけるのだろうか。 宗教は本当に大審問官が言うようなものなのだろうか。 これが私の宗教に対する学びの第二の原点となったのでした。
あわせて読みたい
(7)源信の『往生要集』と現代の地獄巡り~なぜ戦争や弾圧、虐殺を学ばなければならないのか 実は最近、「戦争のこととか大量殺人ばかりで読むのもつらくなってきました。なぜそこまでやらなきゃいけないのですか」という言葉を頂くことが何度もありました。 この記事ではその質問に対する私なりの答えをお話ししていきます。
あわせて読みたい
マルクス主義者ではない私がなぜマルクスを学ぶのか~宗教的現象としてのマルクスを考える マルクスは宗教を批判しました。 宗教を批判するマルクスの言葉に1人の宗教者として私は何と答えるのか。 これは私にとって大きな課題です。 私はマルクス主義者ではありません。 ですが、 世界中の人をこれだけ動かす魔力がマルクスにはあった。それは事実だと思います。 ではその魔力の源泉は何なのか。 なぜマルクス思想はこんなにも多くの人を惹きつけたのか。 そもそもマルクスとは何者なのか、どんな時代背景の下彼は生きていたのか。 そうしたことを学ぶことは宗教をもっと知ること、いや、人間そのものを知る大きな手掛かりになると私は思います。
ドストエフスキー

この記事が気に入ったら
いいね または フォローしてね!

  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

真宗木辺派函館錦識寺/上田隆弘/2019年「宗教とは何か」をテーマに80日をかけ13カ国を巡る。その後世界一周記を執筆し全国9社の新聞で『いのちと平和を考える―お坊さんが歩いた世界の国』を連載/読書と珈琲が大好き/

目次