「蛇が脱皮し旧い皮を捨て去るように」~お釈迦様のことばに聴く
一 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
二 池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。-蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
三 奔り流れる妄執の水流を涸らし尽して余すことのない修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。―蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。
中村元訳『ブッダのことば』「第一、蛇の章、一.蛇より p11」
さあ、早速中村元訳『ブッダのことば』を読んで参りましょう。
上の太字の文章がまさしくこのお経のスタートを飾る詩句の一節です。
このお経はまず「蛇の章」という、蛇の脱皮の譬えを用いたお釈迦様の説法で始まります。
やはりお経の最初に説かれているだけあって、仏教の最も重要なエッセンスのひとつがここに盛り込まれております。
第一の詩句では怒り、次の詩句では愛欲、そして3つ目には妄執という言葉が説かれています。
皆さんも煩悩という言葉を色んな場面で耳にしたり、あるいは自ら口にしたことがあるのではないでしょうか。
煩悩煩悩となんとなく言葉にはしてみるものの、意外とその具体的な意味を聞かれてみると案外ぼんやりしたままだったりします。
私たちがよく使う意味での煩悩はおそらく2番目の愛欲、つまり欲望の意味で用いられることが多いのではないでしょうか。
ですが実は煩悩というのは欲望という意味だけではなく、「怒り、愛欲、妄執」という3つの煩悩が基本になって出来上がっています。
できるだけシンプルに考えていくならばまず「怒り」。
これは自分の気に食わないものを遠ざける、否定するはたらきを言います。
そして「愛欲」。
これは怒りとは逆のベクトルです。
すなわち、自分の気に入るものを近づけ、保持しようとするはたらきです。
これはAという対象物(これはものだけでなく出来事でも何でも構いません)が自分の目の前に現れたときの図です。
嫌いな人がいたら遠ざけたい。トラブルは寄ってこないでほしい。
だからこそそれらが近づいてきたら怒りの煩悩が働きだすのです。
ある人は文字通り相手を怒鳴りつけ、ある人はストレスで自らの心を痛めつけます。
その一方、好きな人が現れたり、幸運なことが起こりそうだとなったらそれらが私たちの元に来ることを望みます。
そしてたいていはその希望が叶えられず、手に入らない苦しみにもがくことになります。たとえ手に入れたとしても今度はそれが離れていきはしないかと不安に陥っていくのです。
こうして見てみますと、怒りと欲望はまったく違う心のはたらきであるように思えて実は自分を中心にした矢印の向きの違いにすぎないことが明らかになってきます。
自分に都合の悪いものを遠ざけ、好ましいと感じるものを近づけたい。
人それぞれ怒り方や欲望の形は違えども、基本的には好きか嫌いかの勝負になってしまうのです。
そしてその好き嫌いによって怒り、欲望に溺れ苦しむことに気がつくことができない。それを「妄執」と呼びます。
誤った考えに囚われ続けること、それこそ3つ目の煩悩、「妄執」であります。
お釈迦様はこの3つの煩悩から解放されることを仏教修行者の目指すべき道であると説きました。
つまり「好きか嫌いかでのみ世界を見続け、それによって苦しむ迷いの世界から抜け出しましょう」というのがお釈迦様の教えの根本、いわば出発点なのです。
仏教で「悟る」というと何か超人的、スーパーマン的な人間になることがイメージされがちですが、このお経ではお釈迦様はそのようなことは求めてはおりません。
むしろ、あなたのものの見方、生活の仕方を改めて見つめ直していきましょうねというシンプルなものが中心となっています。
自分個人の好き嫌いでのみ生きることはそもそも苦しいことだ。しかし好き嫌いにこだわらずに生きていける道がある。その道を生きることによって蛇が旧い皮を捨て去るように新しい人生が始まるのだとお釈迦様はここで説いています。
「・・・いやいや、それが出来るんだったら全く苦労しないよ!嫌いなものはともかく、好きなものまで無くしちゃうんだったら生きていて何が楽しいのさ。そんなのまっぴらごめんだね!」
こんな反論が聞こえてきそうです。
しかしお釈迦様はこうした反論にも優しく微笑みかけてくれることでしょう。
お釈迦様は人それぞれの性格や状況に合わせて説法をする方だったと言われています。
お釈迦様はこうした反論もすべて承知の上で教えを説かれています。
お釈迦様はたとえ話の達人です。
人それぞれの持つ縁にぴたっとくるようなお話をお釈迦様は優しく語りかけるのです。
ではお釈迦様は具体的に何を説いていったでしょうか。好きなものを失って生きていくことはつまらないという反論にどう答えていくのでしょうか。
それがこのお経で後に説かれていくことであり、またその後私たちの時代へとつながるそれぞれの宗派の教えに引き継がれてきたのです。
ここではこれ以上お話しすることは出来ませんが、何はともあれ『ブッダのことば』の一番最初の部分が「新しい人生、新しい生き方へ」という説法から始まるのは何とも意義深いものであるように感じはしないでしょうか。
以上、本日はここまでとさせていただきます。
最後までお付き合い頂きありがとうございました。
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