レコンキスタとは~スペインにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の因縁の戦い スペイン編⑤
スペインにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の因縁の戦い―レコンキスタ 僧侶上田隆弘の世界一周記―スペイン編⑤
先の記事ではキリスト教徒のトレド征服によってかつて失われたギリシア哲学が発見され、暗黒時代からの目覚めをもたらしたことをお話しした。
スペインがかつてイスラム教徒によって治められていたことは、スペインの文化を知る上で欠かせない要素だ。
今回の記事ではスペインにおけるキリスト教徒とイスラム教徒の歴史についてお話ししていきたい。
ではまず古代のスペインから見ていこう。
スペインは紀元前200年頃からローマ帝国の支配下になり、ローマの進んだ技術がスペインに伝わったことで数多くの建築物が建てられた。
スペインの代表的な都市は新しくできた街であるマドリードを除けば、ほとんどこのローマ時代に起源を持つか、あるいはそれ以前にあった町がこの時代に本格的に発展したものと言われている。
しかしローマ帝国が崩壊すると北ヨーロッパ系の西ゴート族がスペインに侵入し5世紀前半にはスペインを制圧。スペインは西ゴート王国となったのであった。
さて、ここまでがスペインにキリスト教文化が根付くまでのざっくりとした歴史だ。
こうしてローマ帝国とその後の西ゴート人による支配によってキリスト教の土壌がスペインに出来上がっていくことになる。
しかし、それも長くは続かない。
ここでイスラム教徒がいよいよ登場する。
時は西暦711年。
北アフリカから押し寄せたイスラム教徒の軍勢が西ゴート勢を圧倒。
彼らは破竹の勢いで侵攻し、スペインを一気に北上していく。
その勢いはとどまることを知らず、西ゴート勢はピレネー山脈の辺りまで撤退することとなってしまったのだ。
これによってスペインのほとんどがイスラム教勢力によって制圧され、ここからスペインはイスラム教徒の国へと姿を変えていくことになったのだ。
さて、ここまででイスラム教徒がスペインに侵攻し、スペインがイスラム教徒の国へと変貌していくところまでお話しした。
だが、それにしてもイスラム教徒はなぜこんなに簡単にスペインを手に入れてしまうほど強かったのだろうか。
そもそもイスラム教は西暦610年頃、ムハンマドが神の啓示を受けたことによって始まった宗教だ。
そしてムハンマドが亡くなった西暦632年の後も、彼の教団は爆発的な勢いでアラブ地域や西アジア、さらには北アフリカ地域にも広がっていった。
そして680年頃にはシリアのダマスカスを首都としたウマイヤ朝という王朝まで成立する。これがイスラーム帝国のはじまりだ。
つまりイスラム教という宗教が単なる宗教教団という枠を超えて、国家そのものになっていったのだ。
スペインへの進撃はイスラーム帝国がさらに領土を拡張していこうという流れの中から生まれてきたものだ。
アラブからエジプトに入り、ひたすら西へ進みモロッコへ。
モロッコからスペインは海峡を隔てて目と鼻の先だ。
そしてイスラーム帝国の強みは、違う民族同士でも、イスラームという信仰の絆によって協力が可能だった点だ。
北アフリカからスペインに進軍していくときも、どんどん仲間が増えていく。
たとえ民族や言語が違ったとしても、イスラム教徒でさえあれば同盟は成立する。
内紛ばかりしていた西ゴート人では一枚岩のイスラーム帝国軍になす術もなかったことだろう。
こうしてイスラム教徒の土地となったスペインは他のヨーロッパ世界とは異なった独自の世界を構築していくことになる。
特に8世紀後半以降からスペイン南部のアンダルシア地方でイスラム文化は花開き、特にコルドバは当時世界に誇るほどの大都市となっていった。
その繁栄ぶりがいかに大きなものであるかというと、10世紀当時の全盛期ではコルドバ市内に600のモスク、300の公衆浴場、50の病院、17の高等教育施設、そして何十万冊もの蔵書を持つ20の図書館が存在していたほどだそうだ。
これがどれほどものすごいことだったのか、当時のヨーロッパの状況を見てみれば一目瞭然だ。
当時のヨーロッパではコンスタンチノーブル(現イスタンブール)を除けば人口3万人以上の街はほとんどなく、ましてや上に挙げた公共施設などほぼ存在していなかったというありさまだったという。
ヨーロッパ暗黒時代とスペインイスラム世界の繁栄ぶりの差はここに極まれりと言えるだろう。
さてさて、これで中世スペインのイスラム世界までをざっくりとお伝えしてきた。
ここからいよいよ本題のレコンキスタへと入っていく。
レコンキスタとは再征服、国土回復戦争という意味の言葉だ。
つまり、ピレネー山脈まで押し出されたキリスト教徒がイスラム教徒に奪われた土地を再び取り返していく戦いをレコンキスタと呼んだのだ。
レコンキスタの始まりは722年。
そう、711年にイスラム軍が侵略してキリスト教徒がピレネー山脈まで追い出されたすぐ後だ。
実は割と早くに戦いの火蓋は切って落とされていたのだった。
しかし、戦いと言ってもそれは散発的にしか行われず、国土奪還は遅々として進まなかったのが実情だったようだ。
しかしその後の西暦1002年、ついに膠着状態が破られる。
スペインをまとめていたコルドバの最後の王が亡くなり、イスラムの領土は多数の小国に分裂していってしまったのだ。
これによりスペイン全土は小国同士で覇権を争う戦国時代に突入。
誰がスペインを支配するのか、武力での戦いだけではなく誰と同盟を組みそして裏切るかという権謀術数渦巻く混沌状態へとスペインは陥ってしまった。
これは日本の戦国時代とほとんど同じ状況ということができるだろう。
だが、何はともあれこれが転機となりキリスト教徒勢が一気に攻勢をかける。
そして1085年についにトレドを奪還。
その後もレコンキスタは続き、1248年までにはスペインに残るイスラム教の国はグラナダを残すのみになった。
上納金をスペインキリスト教国の王に納めることでなんとか生きながらえていたグラナダ王国であったが1492年、ついにこの国も陥落。
これでレコンキスタは完了し、スペインは完全にキリスト教徒の手に帰ることになったのだった。
1492年。これにてスペインはキリスト教国たるカスティーリャ王国によって統一されることになったのだ。
ここからスペインはキリスト教全盛の時代へと入っていき、1517年ルターによって始められた宗教改革に対しては、反宗教改革の中心地として大きな役割を果たしていくことになる。
スペインはローマカトリックと密接なつながりを持った国だ。
もともと古代ローマ帝国の支配下だった影響やレコンキスタを支えたのもローマカトリックの流れだ。
だからこそルターが宗教改革を始めた時も、ローマカトリックを擁護しプロテスタントに反対する立場を表明した。
それほどスペインはローマに匹敵するほど熱烈なカトリック信仰を持つ国なのだ。
そのおかげで先の記事でも紹介したトレドのカテドラルやセビリアのカテドラルなど、世界屈指の巨大な大聖堂が建てられた。
スペインはイスラム文化が花開いた国でもあり、カトリック文化が花開いた国でもある。
どちらも歴史上最高峰の文化遺産をぼくたちに残してくれている。
だからこそスペインはおもしろい。
スペインがヨーロッパでも独特な文化を持っているのもここまでお話ししてきたイスラム教徒の支配とキリスト教徒によるレコンキスタによる影響がものすごく大きい。
スペイン文化に触れるとき、イスラム教とキリスト教のせめぎ合い、そして文化の交流があったということを意識してみるとまた違ったスペインを感じることができ、より楽しむことができるだろうと思う。
続く
※ローマやイタリアを知るためのおすすめ書籍はこちらのカテゴリーページへどうぞ
「ローマ帝国の興亡とバチカン、ローマカトリック」
「イタリアルネサンスと知の革命」
次の記事はこちら
前の記事はこちら
関連記事
コメント