教会と修道院の違いを考える~断崖絶壁のマルサバ修道院 イスラエル編⑲
ベツレヘム・断崖絶壁のマルサバ修道院~教会と修道院の違いを考える 僧侶上田隆弘の世界一周記―イスラエル編⑲
生誕教会の見学を終えると、車に乗り込み、ベツレヘム郊外のマルサバ修道院という場所に向かう。
ツアールートの説明にはたしかにマルサバ修道院が入っていたのは知っていたが、さすがに勉強不足。聞くと、ベツレヘムに来る観光客でもここまで来る人はほとんどいないそうだ。
やはりマイナーな場所らしい。
一体どのような修道院なのだろうか・・・
生誕教会があるベツレヘム中心街から10分も走れば、そこは郊外の少し寂し気な集落が広がりだす。
ここまで来ると道の分岐もなく、なんとか車がすれ違うことができるくらいの一本道が続くだけだ。
景色がまた変わる。
急に荒野が現れてくる。
起伏の激しさに加え、道はものすごいヘアピンカーブの連続だ。
学生時代に回った四国のお遍路の道を思い出す。
こんなところに修道院なんてあるのだろうかと少し不安になるような道を進むこと15分。
ようやくマルサバ修道院に到着する。
マルサバ修道院はなんと、断崖絶壁に沿って建てられていた。
人を寄せ付けない切り立った断崖絶壁の谷に、人工物が紛れ込んでいる。
そんな印象だった。
少し進んでみると、目の前にはこんな景色が迫ってくる。
ぼくはまだ見たことがないが、思わず「グランドキャニオンみたいだ・・・」と心の中でつぶやいてしまった。
ぼくは今までこんな切り立った谷を見たことがない。
その圧倒的な迫力に足がすくんでしまった。
下を見てみると、ここがどれだけ深い崖なのかを思い知らされる。
そして意外だったのがこの谷には川が流れているということだった。
イスラエルの荒野でも水は流れているということに改めて驚いてしまった。
さて、このマルサバ修道院は5世紀に建てられ、現在でも修道士がここで祈りを捧げて生活をしている。
なぜこんな人を寄せ付けない断崖絶壁にわざわざ修道院を建てたのだろうか。
だが実はそれこそ、修道院にとって最も必要なことだったとすれば皆さんはどのように思われるだろうか。
ぼくの故郷函館の近郊にもトラピスト修道院というバターやクッキーで有名な修道院がある。
特にそのトラピストバターは絶品だ。
味がとにかく濃厚で、なおかつ口どけも素晴らしい。
焼いたトーストの上にたっぷりとバターを塗っていく。
たったそれだけで高級店で味わっているかのような満足感を得られる。
これを食べてしまえば他のバターを食べられなくなるほどの美味しさ。
函館空港でもお土産として販売しているのでぜひ食べてみてほしい。
さて、話はそれてしまったが、
修道院と教会の違いはどこにあるかと問われたら、皆さんはピンとくるだろうか。
意外とその違いについて考えてみたことはなかったのではないだろうか。
ぼくも知ったのはつい最近のことだ。
修道院は4世紀の前半頃、エジプトで始まったと言われている。
なぜ4世紀なのか?なぜエジプトなのか?
そこにはローマ皇帝コンスタンティヌスによってキリスト教の弾圧が終わったという背景が存在している。
そう。イスタンブールの時に出てきたあのコンスタンティヌス帝だ。
彼が4世紀前半からキリスト教を庇護するようになり、キリスト教は急激に発展した。
そして以前のような弾圧はもう見られなくなった。
もう迫害され、キリスト教徒だからという理由で殺されることはなくなったのだ。
教会も急激に大きくなりだす。
司祭もそれまでは質素な平服でお祈りをしていたのに、装飾をふんだんに施した豪華な服を着るようになった。
各地の有力者も大きな教会を建てることでこぞって自らの権威を示すようになっていった。
これまで弾圧される側だった、貧しくて質素でつつましくて、信仰深かったキリスト教団を取り巻く環境が急激に変わってしまったのだ。
そしてその流れに抗しきれず多くの聖職者が堕落していってしまった。
神の教えに真摯に向かい合っている熱心な信徒はこう思う。
「あぁ、どうしたら私は真のキリスト者となれるのでしょうか。私は何をなせばいいというのでしょうか・・・」
弾圧されていたころは、「殉教」という名の究極の善が存在していた。
神のために自分の命を捧げ、殉教者になることが、最も神の御心に適うことであると心から信じられていた。
しかし、弾圧が終わってしまった今、殉教者になるという究極の道も断たれてしまったのだ。
だからこそ、熱心な信仰者は「どうしたらいいのだ」と悩み、苦しんだのだ。
巨大化していく教会は本当に神の御心に適っているのだろうか。
ここにいながら、社会的な栄誉、安全な生活という悪魔のささやきに抗い続けることはできるのだろうか。
そのような苦悩が広大なローマ帝国のキリスト教徒の中で生まれてきたのであった。
そんな苦悩が広がっていた時代にエジプトにアントニオスという人物が現れる。
当時エジプトもローマ帝国の支配下で、キリスト教が盛んだったのだ。
彼は持っていた財産をすべて貧しい人々に与えたあと、砂漠へと歩き出した。
彼は街にあるすべての誘惑から離れ、人里離れた険しい土地で祈りを捧げることに決めたのだ。
当時のローマ帝国ではギリシア思想の影響がとても大きかった。
プラトンやストア学派、グノーシス。
なんとなくぼくらも聞いたことがあるような面々の思想がキリスト教にものすごく影響を与えていたのだ。
その典型的な考え方が、
「肉体は精神の牢獄である。完全に霊的な生き方をするには肉体を抑圧して罰しなければならない。」
というものだった。
簡単に言えば、
「真のキリスト教徒になるには苦行して肉体を極限まで制御せよ。そしてその上で行われる祈りこそ神の御心に適うのだ」
ということだった。
アントニオスはこれを忠実に実行する。
全てを捨てて苦行に打ち込み、祈りに己の全てを捧げる。
そのような鬼気迫るアントニオスの姿に、多くの人が弟子入りを志願する。
そうして出来上がったのが修道院なのだ。
だから基本的には修道院は俗世間を離れた修行者のための場所と言うことができる。
それに対して教会は司祭を中心とした、一般の生活を送る人々のための祈りの場所と言うことができる。
これが大まかな修道院と教会の違いだ。
その後時代を経て修道院も様々な形を生み出していく。
アントニオスを理想としてそのままの形を維持する修道院や、寄付に頼らず自ら畑を耕したり物を生産することと両立して祈りの生活をする修道院、学問に専心する修道院などそれは様々だ。
函館近郊のトラピスト修道院はおそらく2番目の、ものを生産するタイプの修道院なのだろう。だからこそバターが売られている。
そう考えてみると「修道院ビール」というものの存在も納得できる。
それを生産することで生活基盤を得ていたのだ。
なんで修道院でビールを作るのだろうとぼくはずっと不思議だったのだ。
長くなってしまったが、マルサバ修道院を通して修道院と教会の違いについて考えてみた。
ベツレヘムツアーはこれにて終了。
とても学ぶことが多いツアーだった。
充実感と心地よい疲労感を感じながら、マルサバ修道院を後にするのであった。
続く
※ここでお話ししたキリスト教の歴史についてはフスト・ゴンザレス著『キリスト教史』を参考にしています。
アメリカで出版されたこの本はキリスト教史の教科書として最も広く用いられているようです。訳者あとがきでは次のように述べられています。
本書はアメリカで出版された当初から注目され、その記述の明快さ、平易さ、そして歴史的・神学的視点の明確さのゆえに、きわめて高い評価を受けている。現在、少なくとも英語圏の神学大学、神学校におけるキリスト教史の教科書としては、本書が最も広く用いられているようである。
新教出版社 石田学、岩橋常久訳、フスト・ゴンサレス『キリスト教史』上巻P453
世界一周記の記事を書くにあたり、キリスト教の歴史についてはこの本に負うものが大きかったです。とてもわかりやすく、全体像を知る上で非常にすばらしい参考書です。
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