孔子『論語』概要と感想~仏教にも大きな影響を与えた儒教の聖典。『論語』の語りのプライベート感に驚く。
孔子『論語』概要と感想~仏教にも大きな影響を与えた儒教の聖典。日本仏教の歴史を学ぶためにも
今回ご紹介するのは2009年に講談社より発行された加地伸行訳の『論語』です。
早速この本について見ていきましょう。
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人間とは何か。溟濛の時代にあって、人はいかに生くべきか。現代と交響する至高の古典に、われわれは親しみ、学んできた。だが、さらに多くの宝石のように美しいことばが、人知れず眠っている――。儒教学の第一人者が『論語』の本質を読み切り、独自の解釈、達意の現代語訳を施す。漢字一字から検索できる「手がかり索引」等を増補した決定新版!
前回、前々回の記事で孔子の伝記『孔子 時を越えて新しく』と参考書『儒教とは何か』を紹介しましたが、今作ではいよいよその本丸の『論語』をご紹介していきます。
『論語』といえばもはや言わずもがなの古典中の古典です。ただ、誰しもがその名を聞いたことがある名著ではありあすが、意外とこの書物を通読するとなるとなかなか機会がないというのが実際の所ではないでしょうか。かく言う私もまさにその一人です。今回初めて『論語』を読んでみて、「あぁ!あの名言はここでこういう流れで説かれていたのか」という刺激的な読書になりました。
本書冒頭で訳者の加地伸行氏はこの古典について次のように述べています。
『論語』は、東北アジアにおける最高の古典である。
古典は、人々に智慧を与え、生きる力の源となっている。古典には、いつの時代にも、まただれにとっても共通のことばが豊富に残されている。すなわち、古典は常に現代と交響しているのである。
たとえば、われわれは次のようなことばを知っている。いや、学んできた。
過ちては則ち改むるに憚ること勿れ(過ちては改むるに憚ることなかれ)
和もて貴しと為す(和をもって貴しとなす)
十有五にして学に志す
三十にして立つ
故きを温ねて新しきを知る―温故知新
義を見て為さざるは、勇なきなり(義を見てせざるは勇なきなり)
任重くして、道遠し
後世畏るべし
死生 命あり
己の欲せざるところ、人に施すこと勿れこれらは『論語』のことばである。もちろん、これらのほかに『論語』にはわれわれが知っている、学んできたことばが多くある。
しかし、それらのよく知られたことば以外、さらに多くの知られざる、しかし宝石のような美しいことばが『論語』の中に記されているのである。ただ、人知れず眠っている。とりわけこの五十年、人々が古典を読まなくなったこの五十年、『論語』は静かに眠ってきた。
だが、いま時代は、これまでの五十年のような騒がしい生活に対して反省を求めている。日々の表面だけの薄っぺらな生活ではなくて、たまたま人間として生まれ、限られた人生の中で、精一杯〈生きようとする〉われわれにとって、人間とは何か、生きかたとは何か、ということは大きな重い問題である。
その大きな重い問題において、その解決の方法や方向を示してくれるのが古典である。
その古典はさまざま存在するものの、東北アジアのわれわれにとっては、やはり『論語』が最も近しく、親しみやすい。
『論語』を読もう。読んでみよう。読み込んでみよう。
講談社、加地伸行訳『論語』P3-4
ここで紹介された有名な言葉と出会えるのはもちろん、他にも様々な名句が語られるのが『論語』です。
私個人としてはこうした有名な言葉を読めたのはありがたかったのですが、それよりも『論語』全体の雰囲気が特に印象に残っています。
と言いますのも、『論語』がプライベート感満載のように感じられたのです。孔子と弟子との対話ということで人物名もたくさん出てきますし、ある特定の状況下における孔子の箴言が語られます。つまり、どんな時、どんな人間においても普遍的に通用する言葉というよりは、その状況に応じた孔子の言葉という雰囲気があります。具体例を見ていきましょう。
子 子貢に謂いて日く、汝と回と孰れか愈れる、と。対えて日く、賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や、一を聞いて以て十を知る。賜や、一を聞いて以て二を知るのみ、と。子曰く、如かざるなり。吾と女と如かざるなり、と。
〈現代語訳〉
講談社、加地伸行訳『論語』P105
老先生が子貢に向かってこうおっしゃった。「君は、回(同門の顔回)君と比べてどうかね」と。子貢は申し上げた。「私ごときが、どうして回君と比べることなど望みましょうか、回君は、一を聞けば十が分かります。私などは一を聞いてニを知るくらいのものです」と。老先生はつぶやかれた。「及ばぬな。私も君も、〔顔回には〕かなわない」と。
この対話には孔子と子貢と顔回という3人の人物が出てきますが、きっと皆さんも思ったことでしょう。
「子貢と顔回って誰なんだ?」と。
孔子はともかくとして、この二人が何者で孔子とどのような関係なのかがわからないときっとこの対話もあまりぴんと来ないのではないでしょうか。
私は『論語』を読む前に孔子の伝記、加地伸行著『孔子 時を越えて新しく』を読んでいましたので何となく2人のことはわかりますが、初見ではまず困ってしまうのではないでしょうか。
『論語』はこのようにたくさんの人物が雑談のような気楽な雰囲気で語ったような言葉がどんどん出てきます。となるとある程度孔子を取り巻く人物やその関係性も知らないと『論語』を読むのが辛くなってきます。つまり、『論語』を学ぶというのは単にここに説かれている言葉だけでなく、孔子の大きな物語世界も知らなければならないのではないでしょうか。
かつて中国人はもちろん、日本人も『論語』を学んでいたというのは現代を生きる私たちもイメージできます。寺子屋のイメージですね。ただ、そのイメージはただひたすら『論語』の言葉を暗唱して記憶するというものになりがちですが、もしかすると『論語』という書物を通して「孔子の物語世界」を学んでいたのではないかと私は想像してしまいました。「孔子の物語世界」という、ある意味「学んだ者にしかわからない特殊な言語空間」を共有すること、そのことに意義があったのではないかとすら思ってしまいます。
もちろん、人間形成という重大な意義は当然あったことでしょう。ですが「学んだものにしかわからない特殊な言語空間」を共有することの意義は見逃してはならないのではないでしょうか。ある社会に入り込むための必須の条件として『論語』があった。その『論語』は単に暗記するだけでなく、その物語世界そのものも共有せねばならず、そのためには並々ならぬ労力と時間をかけなければならない。それほどのことをしているのであるから、我々の仲間に入る覚悟、資格がある。よし、こちらに来なさい。
もしかしたらそういう側面もあったのかもしれません。
あくまでこれは私の想像です。『論語』を読みながら感じたことをつらつらとここに述べさせて頂きました。私は中国思想の専門家ではありませんのでここでお話ししたことは全く根拠はありませんのでご容赦ください。純粋な感想です。
ですが、『論語』という古典を読んで素直に自分が感じたことをお話しさせて頂きました。きっと皆さんもこの古典を読めば人それぞれ様々なことを思うと思います。その幅の広さ、奥深さが古典の素晴らしさなのではないかと私は思います。
以上、「孔子『論語』~仏教にも大きな影響与えた儒教の聖典。『論語』の語りのプライベート感に驚く」でした。
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