ブッダ入滅の地クシナガラへ~独特な形の涅槃堂と早朝の聖地。やはり「寺は朝」!
【インド・スリランカ仏跡紀行】(77)
ブッダ入滅の地クシナガラへ~独特な形の涅槃堂と早朝の聖地。やはり「寺は朝」!
カトマンドゥからルンビニーへ帰還した私は、その翌日再び仏跡巡りを再開した。
私達はまず陸路で再びインドへ入国し、次なる目的地クシナガラを目指した。赤丸がルンビニーのおよその位置。ここからクシナガラまではおよそ5時間ほどの行程である。
例によってネパール・インド国境ではかなりの時間を要した。団体バスとかち合うとなかなか列が進まない。だが、耐えるしかないのである。
そしてこのクシナガラへの道中でガイドさんが交代し、前回の10月にもお世話になったスバッシュ・グプタさんと合流することになった。グプタさんは仏跡ツアー歴35年のベテラン日本語ガイドで、10月の旅でも大変お世話になった方だ。私も全幅の信頼を置いている。そのガイドさんとこれから仏跡のメインどころを訪ねることができるのだ。実に心強い!
クシナガラ近郊に着くと、何やらものすごい混雑とぶつかった。ちょうどヒンドゥー教のお祭りが開かれていて、偉いお坊さんの説法があったのだそう。大渋滞と人の波でほとんど車が動かなくなってしまった。しかし私達の目指すブッダ入滅の地へはこの先を通って行かねばならない。
するとグプタさんは車を降りて交通整理の警官?らしき人と交渉し始め、なんと!道を空けてもらえることになったのだ。
その後もグプタさんはまるでモーセのごとく車や人並みをかき分け進み続けた。こうして私達はこの混雑を突破したのである。もしグプタさんの活躍がなければかなりの時間足止めを食らっていたことだろう。合流早々、頼りにます本当に。
さて、いよいよクシナガラのブッダ入滅の地に到着だ。
駐車場で車を下りて境内へと向かう。
境内は広い公園のようになっている。
少し歩くと薄いクリーム色をした涅槃堂が木々の隙間から見えてきた。
こちらが涅槃堂だ。お寺としてはかなり独特な形状をしている。このクシナガラの仏跡は19世紀後半にイギリスの考古学者アレクサンダー・カニンガムによって発見された。
この遺跡も他の仏跡と同じように土に埋もれ忘れ去られた存在だった。興味深いことに、ガイドさんによればカニンガムをはじめとしたイギリスの考古学者は玄奘三蔵の『大唐西域記』を手掛かりに発掘調査を行っていたのだという。アショーカ王柱を残したアショーカ王も私達の大恩人だが、玄奘の偉大さもやはり忘れてはならないだろう。
涅槃堂の中には巨大な涅槃仏像が横たわっている。
この仏像も19世紀末に発見されたものだ。
この涅槃堂自体は1927年にミャンマー教団によって創建され、仏跡の保護も代々ミャンマー教団が行っているそうだ。仏像の修復や金塗りもその一環である。
私がここに到着したのは夕暮れ時であったが、様々な国の巡礼団で賑わっていた。
クシナガラはブッダ臨終の地ということでブッダ八大聖地の中でも特に重んじられている場所である。ブッダ自身、その臨終間際の説法でブッダが生まれたルンビニー、悟りを開いたブッダガヤ、初めて説法したサールナート、そしてこのクシナガラを4つの巡礼地として勧めている。(ブッダの最後の旅が説かれた『大パリニッバーナ経』より)
ブッダはこの四大聖地を巡ることは在家出家問わず喜ばしいことであり、浄らかな心で死んだならばその死後に善いところ、天の世界に生まれるであろうと説いているのだ。仏教の四大聖地はブッダ自身の言葉によって制定されているのである。(もちろん、いくら初期仏典であっても本当に直説かどうかは史実的には確かめようがないのだが)
ブッダはこの地で80歳の生涯を終えた。その臨終のエピソードは「【仏教入門・現地写真から見るブッダ(お釈迦様)の生涯】(24)ブッダのクシナガラでの入滅~従者阿難と共に最後の旅へ出かけるブッダ。80年の生涯に幕を閉じる」の記事でお話ししているのでぜひこちらを参照頂きたい。
ここクシナガラの涅槃堂に来るまでも感じたがやはりここも田舎である。最近は急速に観光地化したためかつてより店や人口もかなり増えたそうだが、少し前までは本当に何もない場所だったそうだ。
それはブッダ時代もそうであったようで、従者のアーナンダが「尊い方よ。尊師は、この小さな町、竹藪の町、場末の町でお亡くなりになりますな。ほかに大都市があります。例えば、チャンパー、王舎城、サーヴァッティー、サーケータ、コーサンビー、バーラーナシー(ベナレス)があります。こういうところで尊師はお亡くなりになってください」と思わず言ってしまうほどの場所であった。ブッダが亡くなられた当時もここは寂しい場所だったのだ。
たしかに、ここクシナガラ周辺に入ると、こうした沙羅双樹の森が広がっていた。ブッダがまさに亡くなろうとしていた時もこうした森や林におられたのではないだろうか。アーナンダが思わず、あなたはこんな誰もいない辺鄙な場所ではなく、大きな街でお亡くなりになってくださいと言ってしまうのもわかる気がする。都会ならばブッダに深く帰依し盛大に弔ってくれる人がたくさんいたであろうことは明らかだからだ。それに、ブッダの臨終に立ち会いたいという信者も多かったことだろう。
しかしブッダは「アーナンダよ、そんなことを言うな。アーナンダよ。〈小さな町、竹藪の町、場末の町〉と言ってはいけない」とたしなめたのみだった。ブッダ自身、もしかすると信頼する数人に見守られながらひっそりと死ぬことを望んでいたのかもしれない。大都市ならば決してそんなことは叶わないだろう。
そしてこの涅槃堂のすぐ近くにはマータ・クアー・シュラインという小さな祠堂がある。
ここはブッダの最後の説法が行われた場所とされている遺跡だ。ここもカニンガムが19世紀に発見した。
祠堂に納められているこの仏像は10世紀から11世紀頃のものだとされている。こちらもミャンマーによる修復のため金色に輝いている。
翌日早朝、私は予定を変更してもう一度このクシナガラの涅槃堂を訪れることにした。ガイドのグプタさんいわく、朝の涅槃堂は静かで空気も澄み、昼間とはまた別の雰囲気なのだそう。というわけでまだ薄暗い中私もここにやって来た。
すると涅槃堂の周りをオレンジの衣を着た僧侶達が一列に並んで歩いていた。
このように右回りでぐるっと歩き続く巡礼作法が見られたが、これはブッダ生誕の地ルンビニーのマヤ・デヴィ寺院内でもそうであり、この後訪れるブッダガヤの大塔でもまさにこうした巡礼が行われていた。
やはり「寺は朝」。朝のお寺参りは実に気持ちがよい!さすがグプタさん。私もこの清々しいクシナガラの空気を堪能しながらゆっくりと散歩した。
次の記事ではこの涅槃堂から車で5分ほどの位置にあるブッダが荼毘に付されたとされる場所に建てられたランバル塚をご紹介する。そしてブッダの火葬とその後の遺骨の分配についての興味深い事実についてもお伝えしたい。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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