(69)インド八大仏跡の一つ、祇園精舎へ~平家物語の「祇園精舎の鐘の声」で有名な仏跡へ

第三次インド遠征~ブッダゆかりの地を巡る旅

【インド・スリランカ仏跡紀行】(69)
インド八大仏跡の一つ、祇園精舎へ~平家物語の「祇園精舎の鐘の声」で有名な仏跡へ

サンカシャを訪れた翌日、私は『平家物語』で有名な祇園精舎目指して出発した。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」のあの祇園精舎である。

サンカシャから祇園精舎までは車で8時間以上かかるという長丁場。スリランカでも長距離は何度となく経験していたがインドの長距離はやはりきついものがある。

高速道路を下りてから祇園精舎に行くまでの道も基本的には畑だ。サンカシャもまさしくそうだったが仏跡はブッダガヤを除けばほぼ田舎の中にぽつんとある。仏跡巡りの道中は忍耐力が試される。ひたすら同じような景色を眺めながらの移動となることを覚悟しなければならない。

さて、祇園精舎周辺までやって来た。さすがにこの辺りは観光客も含め人の往来が多いのか、一応店や建物がある。

こちらが祇園精舎の入り口。このゲートの先にブッダも生活した祇園精舎があるのだ。

では、これから祇園精舎内の様子をお伝えする前にこの地の由来についてお話ししておこう。

この祇園精舎はスダッタという大商人がブッダに土地を寄進したことで生まれた僧院である。スダッタはコーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)の商人で、ブッダにはマガダ国で初めて会っている。この祇園精舎寄進の物語は仏伝においても非常に重要な出来事として語られている。そのエピソードについて、以前私は「(21)スダッタによる祇園精舎の寄進~「祇園精舎の鐘の声」はここから。大商人による仏教教団の支援」の記事でお話ししたのでそちらを引用していく。

ブッダは大教団の長としてマガダ国を訪れていました。そしてビンビサーラ王の寄進も受けブッダ教団はしばらくの間その首都王舎城周辺に滞在していました。

そんな折、ブッダ逗留の噂を聞きつけたある商人がブッダの下を訪れます。それがスダッタでした。

彼はマガダ国と並ぶ大国コーサラ国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)の大商人で、慈善の心に溢れた人物として知られ、「孤独な人々に食を給する人」という意味の「給孤独長者ぎっこどくちょうじゃ」と呼ばれていました。

スダッタはブッダと面会し、衝撃を受けます。ビンビサーラ王もそうでしたが、彼もブッダの素晴らしい教えと光り輝くかのような姿に心から尊敬の念を覚えることになりました。やはり内面の輝きは姿かたち、立ち振る舞い全てににじみ出てきます。

「やはりこのお方は噂通りの素晴らしい方だ。この尊きお方は、人々を苦しみから救うために教えを説いている。であるならば、ぜひ私もその力になりたいものだ」

そう思ったスダッタはすぐさまブッダに自国コーサラ国の首都シュラーヴァスティーへの招待を申し出ました。

ブッダは快く承諾します。

そして後にブッダがその地を訪れた時、スダッタは祇園精舎をブッダのために寄進しました。こうしてブッダ教団の大きな支援者として大商人スダッタの名が歴史に名を刻まれることになります。

さて、こうしてブッダ教団に寄進された祇園精舎ですが、ここは元々スダッタの所有していた土地ではありませんでした。

スダッタは富裕な大商人でしたので、おそらく多くの土地を所有していたことでしょう。しかしブッダに土地を寄進するとなると、マガダ国王ビンビサーラがそうしたように、「街から遠すぎず近すぎず、喧噪もない静かで瞑想に適した土地」でなければなりません。こうなると都市の大商人たる彼が手頃な土地を持っていなかったというのも納得できます。

というわけで自国に帰ったスダッタが急ぎ土地を探し回ったところ最適な場所を発見します。「ここをブッダ様の教団に使って頂こう!ここならば必ずや快適に過ごしていただけるに違いない!」。意気揚々としたスダッタでしたがすぐにがっくり来てしまう事実を知ることになります。なんと、ここがあろうことかコーサラ国の王子ジェータ太子の所有する「ジェータ林」という場所だったことに気づいたのです。

商人や農民が持っている土地ならまだしも、王族が所有する土地をどうやって取得すればいいというのか・・・

悩んだスダッタはダメ元でジェータ太子にこの土地を譲ってほしいと持ち掛けます。

「王子様、私にこの林をお譲りください。ここに僧園を作りたいのです」

「待て待て、ダメに決まっているではないか。ここは譲らないよ。」

「いえ、そこをなんとか!」

「たとえ君がこの敷地に金貨を敷き詰めたとしても私はここを譲らないよ」

「・・・今、「この敷地に金貨を敷き詰めたとしても」と仰いましたね?」

「それがどうしたと言うのかね」

「お付きの皆さん、聞いておられましたか?今太子様はこの敷地の価値を定めました。この敷地の価値は『敷地いっぱいの金貨』だと太子様が仰られたのです。私はその申し出通り、これからそれを実行することに致します。」

「いやいや、ちょっと待ちなさい。私は何も・・・」

「いいえ、もしお断りされるならば法に訴えてでも私はこの林を購入することにします。では!」

何とも、屁理屈といいますか力づくな交渉ではありましたが、スダッタはこうして購入への一歩を踏み出したのでした。それに、太子としてもまさか本当に敷地いっぱい分の金貨を持ってくるだろうとは思っていなかったのでしょう。

しかし太子の見込みは甘かった!彼の覚悟は本物だったのです。

スダッタは荷車に金貨を積み、続々とジェータ林に敷き詰め始めました。その様子を見た太子はさすがに肝を冷やします。

「おいおい、そこまで本気ですることではないではないか!わかったわかった!君がそこまでするほどブッダ様は素晴らしいのだな。よろしい!では私がブッダ様にこの土地を寄進しよう!」

こうした申し出に対しスダッタは驚きの答えを返します。

「いえ、それには及びません。私があなた様から買い取り、寄進しますから」

これには太子もびっくり。「まさかそれほどまでとは・・・!」と呆気にとられるのでありました。

こうしてスダッタは約束通り金貨を支払い、ブッダ教団に寄進することができたのでありました。

「(21)スダッタによる祇園精舎の寄進~「祇園精舎の鐘の声」はここから。大商人による仏教教団の支援」より

祇園精舎が有名になったのもこうした劇的な物語があったからこそなのかもしれない。

ちなみに祇園精舎がある舎衛城はネパール国境とも近く、ブッダが生まれ育ったカピラヴァストゥとも近い距離にある。コーサラ国がブッダの生国を事実上属国としていたのもこうした地理上の関係があったのだ。

祇園精舎へ入った。中は広い公園のよう。

この広い敷地内に数多くの僧院跡が残されているが、これらの多くはブッダの死後増設されたものだ。ここはブッダ亡き後も修行者達の僧院として利用されていたのである。

目の前の人が集まっているところがブッダのために建てられた僧院だ。スダッタによる寄進によって建てられ、ここでブッダが生活していたのだという。

その遺構の前には東南アジアの出家者達だろうか、オレンジの衣を着た僧侶が座っていた。

私もこの僧院にやって来たのだが、すでに先客がいたので待機することにした。おそらく東南アジアの団体。引率僧侶による読経の後、説法をここでしているようだ。しばらく経っても動く気配はないのでここのお参りはまた後にすることにしよう。

菩提樹

敷地内には大きな菩提樹があり、ここでもオレンジの衣を着た僧侶達が瞑想をしていた。

僧院が立ち並ぶエリアから少し離れると、木々が生い茂る小道へと出る。ブッダ達もここを歩いたのだと思うと鳥肌が立った。時代の流れを感じさせない雰囲気がある。

そして近年の発掘により、ブッダ達が沐浴していたであろう池が発見された。現在はこのように整備されている。僧院からは少し離れた場所なのであまりここまでは人はやって来ないようだが、実は私の中で一番印象に残っているのがこの池なのである。他の仏跡ではあまり感じなかったゾクっとするような感覚があったのを今でも覚えている。ブッダがここにいたのだという感覚を強く感じたのがなぜかここだった。ブッダのための建物でもなく菩提樹の木でもなく、ここに私が惹かれたというのは自分でも不思議な思いだった。

池付近の発掘風景

ここでは現在も手作業での発掘が続いているが、インド政府としては仏跡調査にはそれほど予算をかけられないとのことで今も手つかずのままとなっている場所が多々存在している。上の写真もまさに少し掘り出されてそのままという状況だ。インドでは仏教徒は極々少数だ。そして現在のモディ政権ではヒンドゥー教を強く支持する政策が取られているのでおそらくこの状況はなかなか変わらないだろう。(観光客誘致のためのインフラ整備は行われているが)

かといって他の国が作業をするにも、発掘には莫大な予算と手間がかかる。各国の共同プロジェクトという形でなんとか調査を続けているのが実情なのだ。厳しい状況だがこれからの進展を期待するしかない。

祇園精舎は広い。ゆっくり歩けばあっという間に時間が経ってしまう。静かでゆったりした空気が漂うこの場所はとても居心地がよい。ブッダが長い時を過ごしたのも納得だ。僧院として理想的な環境がここにはあったのだ。

さて、ブッダの僧院まで戻って来たのであるがまだ彼らはそこにいる。

1時間近く経ってもまだいるのである。さすがに長すぎはしないか・・・?

ガイドさんは「気にせずどうぞどうぞ」とその中へ私を連れていこうとするのだが、そんなこと私にはできない。近づいただけで彼らはこちらをじろじろ見てくる。邪魔をするなと言わんばかりのその視線の中でどうやって落ち着いてお参りをすればよいのだろうか。私はインド人ではない。そんな我よ我よと前に出ることなどできないのだ。私は「いいですいいです、気にしないでください。私には行けません」と丁重にお断りした。

東南アジアからの団体はこの後の仏跡でも必ずと言ってよいほど会うことになる。そしてどこに行ってもだいたいこのような状況であった。

このことについてはいずれまたお話しすることになるだろう。

こうしたちょっとしたアクシデントもありつつも、祇園精舎は現在もブッダ在世時の雰囲気を感じられる素晴らしい場所であった。数ある仏跡の中でもここは特にお気に入りの場所となった。ブッダ達もここを歩いていたのだろうと考えながらゆっくり散歩できるのは素晴らしい体験だった。

ちなみに『平家物語』の有名な冒頭「祇園精舎の鐘の声」だが、実はここには鐘はなかったそうだ。ブッダの時代にはそのような鐘を鳴らす習慣もなく、その後も存在しなかったとされている。この鐘の存在は当時の日本人のイメージが反映されていたものだったのだろう。そしてそのイメージが今にも続いているというのはなかなか興味深い話ではないだろうか。

※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。

「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」

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