『セレンディップの三人の王子たち』あらすじと感想~セレンディピティの語源となったスリランカの物語

セレンディップ スリランカ、ネパール、東南アジアの仏教

『セレンディップの三人の王子たち』あらすじと感想~セレンディピティの語源となったスリランカを舞台にしたペルシアのおとぎ話

今回ご紹介するのは2006年に偕成社より発行された竹内慶夫編訳の『セレンディップの三人の王子たち』です。

早速この本について見ていきましょう。

旅にでたセレンディップ(いまのスリランカ)の三王子はベーラムの国でかけられたラクダどろぼうのうたがいをずばぬけた機転によって晴らし、皇帝の命をもすくう。皇帝の信頼をえた三人は、うばわれたベーラムの宝「正義の鏡」をとりもどすため、インドへむけてふたたび旅にでた―十八世紀の英作家ウォルポールが読み「セレンディピティ」ということばを生むきっかけとなった物語。小学上級から。

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『セレンディップの三人の王子たち』はセレンディピティの語源となった物語として知られています。

このセレンディピティという言葉について、前回の記事で紹介した庄野護著『スリランカの冒険』では次のように解説されています。

「セレンディピティ」(serendipity)ということばは、一八世紀イギリスの作家ホレス・ウォルポールがぺルシアのおとぎ話『セレンディップの三人の王子たち』からヒントを得て創造した新語である。物語の王子たちが求めてもいないものを偶然と英知で発見してゆく……。その様を表現するために「セレンディピティ」ということばが生まれた。

南船北馬舎、庄野護『スリランカの冒険』P8

「求めてもいないものを偶然と英知で発見してゆく」

これがセレンディピティという言葉の意味になります。

そして意外なことに、本書『セレンディップの三人の王子たち』自体はスリランカで語られたものではなく、ペルシアで語られていたスリランカのおとぎ話になります。あくまでスリランカは王子たちの出身国でその舞台になったというのにすぎません。ですが当時のペルシア人からしてもスリランカには何かそうした憧れや楽園的なものを想像させるものがあったのでしょう。

本書の巻末には編著者の竹内慶夫氏による解説が掲載されていて、こちらもものすごく興味深いのでその一部を紹介します。

十八世紀のなかばにイギリス人の文筆家として知られているホリス・ウォルポール伯爵が、「セレンディピティ」ということばをつくりだしました。それは、彼が幼年時代に読んだことのあるおとぎ話『セレンディップの三人の王子』の表題にちなんだものです。

ウォルポールによると、このことばは「偶然と才気によって、さがしてもいなかったものを発見する」ことを意味します。このことばがしだいにひろまるとともに多くの人が使うようになり、「しあわせな偶然」の意味で使われるようにもなってきました。たんに「しあわせな偶然」であれば、わざわざ「セレンディピテイ」のようなことばを使う必要はまったくありません。

セレンディピティの典型的な例として、第一回のノーベル物理学賞にかがやいたX線の発見があります。レントゲン教授(一八四五~一九二三年)は、ある研究に夢中になっているさなかに、光るはずのない場所においてあった蛍光板が光っているのに偶然に気がつきました。「はてな?」と不思議に思い、いろいろ工夫をこらして(才気をふるって)その原因を徹底的に追究して調べた結果、いままで研究していたものとはちがった、まったくあたらしい性質をもつ放射線を発見しました。それをX線と名づけたのです。この発見の過程は、さきほどしるした「セレンディピティ」のことばの意味に、ぴたりとあてはまったものであることがわかります。

このようにセレンディピティは、本来なら表現するのにいくつものことばが必要なことがらを、ひとつのことばであらわしている、ひじょうに意味のふかいことばです。したがって、その正しい意味を理解していれば、たいへん便利なことばといえます。

しかし、ただ便利だというだけでは、それほどの魅力はありません。重要なことは、たんに科学技術者だけではなく、私たちすべてがセレンディピティを体験しても決して不思議ではないという点にあります。では「どのようにすればセレンディピティを体験できるのだろうか?」そんな疑問もわいてきます。

このことばを私がはじめて耳にしたのは、いまから四十年ほどもまえのことでした。そのとき、「学生たちに教えなくてはならないほど大切である」とも聞かされました。それ以来、私はこのような意味のふかい重要なことばについて調べるとともに、それを生んだ物語にたいへん興味をひかれて、物語の本をさがしだし、その翻訳を思いたちました。

偕成社、竹内慶夫編訳『セレンディップの三人の王子たち』P188-189

セレンディピティ的発見の鍵は、偶然を生かすことができるかどうかで、それは実験や観察をする人たちの心がまえしだいです。なにごとかに集中する意識があって、周囲のできごとを注意ぶかく観察し、それに瞬間的に無心に反応する心がつねにそなわっていることが必要です。

先入観は禁物です。これがセレンディピティ的発見の必要条件とすれば、気づいた偶然を解析する能力と根性をもっていることが十分条件といえるでしょう。

いままでの例にあげたように、セレンディピティは科学の分野のみで注目されているかのような印象を受けます。しかし、そもそもウォルポールの手紙にみられるように、彼が「セレンディピティ」の定義に使った例は、ラクダの話にしても、シャフツべリ卿の話にしても、これに似た例はわれわれの日常活におこりうることなのです。

このことは、心がまえひとつで、私たちも日常生活のなかでセレンディピティに遭遇しても不思議ではないことを意味しています。自分をみがき、いま述べたセレンディピティ的発見の必要条件にかなった性格さえ身につければ、だれでもセレンディピティを体験できるはずです。

偕成社、竹内慶夫編訳『セレンディップの三人の王子たち』P200-201

セレンディピティが「学生たちに教えなくてはならないほど大切である」とここで述べられていましたが、たしかにこの解説を読めばその言わんとしていることがよくわかりますよね。

そして私自身も学生時代に読んだ『思考の整理学』という本の中でまさにこのセレンディピティが大切だいうことを読んだ記憶があります。

「自分をみがき、いま述べたセレンディピティ的発見の必要条件にかなった性格さえ身につければ、だれでもセレンディピティを体験できるはずです。」

ということがまさにこの本の中でも説かれていました。

セレンディピティという言葉を初めて知ってから十年以上の月日を経てついにその本家本元の物語を読むことができたというのは何かしみじみするものを感じました。

『セレンディップの三人の王子たち』の物語自体はおとぎ話ということでとても読みやすいものとなっています。そしてこの三人の王子たちの有能っぷりがこれでもかと出てきます。上の解説にありましたように、ただ単に幸運な発見を待っているだけではだめなのです。やはり観察力、洞察力あってこその「思いがけない発見」です。

この本ではイラストも挿入され、漢字のふりがなも振られていますので子供でもすらすら読み進めていくことができます。お子さんの教育にも、もちろん学生や大人にもおすすめの一冊です。

有名なセレンディピティという言葉の大元となった作品を読めるというのはなかなかに刺激的な体験です。

私の場合はさらにスリランカについてもっと知りたいという思いもありましたのでさらに興味深い読書となりました。

ぜひぜひおすすめしたい作品です。

以上、「『セレンディップの三人の王子たち』あらすじと感想~セレンディピティの語源となったスリランカの物語」でした。

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