プラハの偉人ヤン・フス~宗教改革の先駆けと免罪符 チェコ編⑧
ルターより100年も前に宗教改革を宣言した偉人ヤン・フス~宗教改革の先駆けと免罪符 僧侶上田隆弘の世界一周記-チェコ編⑧
プラハ城の散策の後は、階段を下りカレル橋の方向へ進んでいく。
次の目的地は旧市街広場にあるヤン・フス像だ。
プラハの赤い屋根の建物を間近に感じつつ、のんびりと練り歩く。
それからカレル橋を渡り、旧市街広場まで進んでいく。
そして広場の少し奥の方まで歩くと、目的地のヤン・フス像の前に到着する。
こちらに凛々しくたたずんでいるのがヤン・フスの像だ。
突然だが、皆さんは宗教改革といえば誰を思い浮かべるだろうか。
おそらく、多くの人がマルティン・ルターを思い浮かべることと思う。
そのルターがドイツで宗教改革を始めたと言われているのが1517年。
だが、もしこれに先立つことおよそ100年。
すでにここプラハで宗教改革が行われていたとしたら皆さんはどのように思われるだろうか。
歴史の教科書ではこのことはほとんど触れられないが、宗教史上、このことは非常に重要な出来事として知られている。
そしてその立役者となったのが、このヤン・フスという人物なのである。
そして同時にこのヤン・フスの英雄的な人生はチェコ人の精神にとてつもない影響を与え、現在でもチェコ人の誇りとして大きな輝きを放っている。
チェコ人が敬愛してやまない偉大なる指導者、ヤン・フスとは一体いかなる人物なのだろうか。
これからざっくりとではあるがご紹介していきたい。
フス(ここからはフスと呼ばせていただく)の生まれた年は正確には知られていないが1369年頃とされている。
フスはもともと学者として生計を立てていて、1400年に僧職者として任命されている。
そしてフスが歴史の舞台に登場するのは、1402年にカレル大学の学長に就任してからのことだ。
学長就任後、フスは数々の説教を行うことになったのだが、間もなくフスは人々の熱烈な支持を受けるようになっていく。
なぜフスは人々から熱烈な支持を受けることになったのだろうか。
その理由はフスの説教の方法にあった。
フスは『聖書』の説教をチェコ語で行った。
そのわかりやすい解説とチェコ語での説教が人々の心を打ったのだ。
というのも、当時のチェコは神聖ローマ帝国、つまりドイツの支配下にあった。
そのため教会での説教は慣例としてドイツ語で語るよう決められていたのだ。
しかしフスは、自分達の国の、自分達の民族の言葉で説教することを敢えて選んだ。
そのようなことをすれば教会から目をつけられてしまうのを承知で、フスはチェコ語で人々に語りかけ続けた。
そのようなフスの説教によって、抑圧されていたチェコ人の感情が揺さぶられたのは想像に難くない。
そしてフスは、教会そのもののあり方にも疑問を呈するようになる。
ここで言う教会とはローマ教皇を中心としたローマカトリック教会全体のあり方のことを指している。
当時の教会は聖職売買という悪しき習慣がはびこっていた。
聖職者の位が利権として金持ちの王族や貴族によって取引されていたのだ。
教皇の位ですら、そのような利権闘争のターゲットにされていた。
そのような状態でどうやって高潔な聖職者としての務めを果たしていけるのだろうか。
また、どうして正常な教会運営を果たしていけるのだろうか。
フスはそのような現状にNOを突き付ける。
「教皇が自分達の利益のために行動しているのが明白な場合、はたして教皇は権威を持つのだろうか?」
「『聖書』が最終権威であって、『聖書』に従わない教皇には従うべきではないのでは?」
フスはこのように述べたのである。
そしてフスが教会に対して最も激怒したのは、なんと、免罪符だったのだ。
免罪符の発行はルターの時代が初めてではない。
すでにこの時代には広く出回っていたものだったのだ。
免罪符の起源は10世紀の十字軍の時代にまで遡る。
だがフスの時代まで大っぴらに批判したものはいなかった。
いや、いたとしてもすぐに異端として処刑されたのだろう。
何はともあれフスが免罪符に対して激怒した理由はいくつかある。
ちょうどその頃ローマ教皇の命令でナポリへの異端者狩りの戦争が始められようとしていた。
そしてその資金源として免罪符が発行されたのだった。
フスはこう言う。
「教皇が政治的な理由によって免罪符を発行し、金を集めることは神の権限を奪うことだ」
そもそも免罪符とはお金を寄付することで自分の罪が赦され、死後天国に行くことが約束されるというシステムだ。
フスはそのことにも反論する。
「罪の赦しは神のみぞなしうることだ。それを人間の手により販売するのは神への冒涜である」
そしてさらにもう一つ、チェコ人の共感を得る怒りがあった。
免罪符は特に神聖ローマ帝国内で大量に発行されていたという歴史がある。
ルターの宗教改革がドイツで始まったのは偶然ではない。
ローマカトリックの本拠地はローマ。
そのローマの繁栄のために神聖ローマ帝国は莫大な金を民衆から集め、送金していたのだ。
つまり、民衆は絞られるだけ絞られ、それが自分の国のために使われるならまだしも、遠い異国の地のために使われているという現実があったのだ。
フスの怒りはそこにある。
チェコ人はいつまで搾取され続けなければならないのかと。
そしてそれがローマカトリック教会の名で行われるのは恥ずべきことであると。
だからこそ、変わらねばならぬのだとフスは宣言したのである。
そしてフスのそのような言葉に賛同するチェコ人の勢力がどんどん大きくなっていく。
やがてその勢力はフス派と呼ばれるようになり、反カトリックの姿勢を明確に掲げるようになっていく。
だが、そうなってくるとフスという人物は、肥大化したローマカトリックには邪魔な存在なだけ。
ローマカトリックはそんなフスを異端と断罪し、ろくに反論の機会も与えることなく1415年に火刑に処した。
自分の説をすべて撤回すれば処刑はやめようと何度カトリックに言われても、フスは断じて撤回しなかった。
フスは正義を貫こうとした。
教会の堕落にNOを突き付け、チェコ語の説教で民衆を鼓舞した。
チェコ人にとってフスは民族の誇りの象徴だ。
フスの最後の言葉として知られるものに次のようなものがある。
「Pravda vítězí (真実は勝つ)」
この言葉は現在のチェコの大統領府の旗にも使用されている。
大国の支配の中でも毅然として正義を生きる。
チェコ人の誇りを守り抜き、そして死んでいったフスはチェコの英雄であり、誇りそのものだ。
英雄はたいていどこの地域でも武人がその地位を占めている。
しかし、ここプラハでは学者たるヤン・フスこそ英雄なのだ。
ぼくがプラハにこんなに惹かれるのも、プラハがそのような精神を内に秘めているからなのではないかとぼくは感じている。
フスを誇りとする民族性。
力ではなく知性。
そんな文化的な匂いをプラハという街は醸し出している。
長くなってしまったがヤン・フスはプラハの文化を知る上では決定的に重要な人物だ。
次に紹介するカレル橋でもその影響は見て取れる。
さあ、次はカレル城と並ぶプラハのシンボル、カレル橋へご案内しよう。
続く
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