ドストエフスキーゆかりの地を巡る旅

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(26)ドストエフスキー夫妻の4年ぶりの帰国!旅を経てすっかり丸くなったドストエフスキーとアンナ夫人の成長とは

四年前、ドレスデンから始まった二人の旅。

新婚早々のドレスデン、バーデン・バーデンの悪夢、ジュネーブでの天国と地獄、フィレンツェでの日々、そしてホームシックのドレスデン。色んなことがあった。ありすぎた。想像を絶する日々を夫妻は二人三脚で乗り越えてきた。

旅に出た当初の二人はもういない。

ドストエフスキーは自身の闇や狂気に打ち克ち、作家として一回り大きくなって帰って来た。そしてアンナ夫人はドストエフスキーを支える名マネージャーとしてこれから抜群の活躍を見せることになる。

この四年間はドストエフスキーにとってまさに運命を変えた旅だったのだ。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(25)カジノの街ヴィースバーデンでドストエフスキーのギャンブル中毒が消滅!!旅の終盤、彼の身に起こった奇跡とは!

ギャンブル熱から解放されたヴィースバーデンでの出来事はドストエフスキーの旅の中でも屈指の重大事件です。作家としての誇りを取り戻した出来事と言ってもいいかもしれません。

自分の筆で、自分の仕事で家族を守る!もうギャンブルの一攫千金には頼らない!と宣言したドストエフスキー。今度こそ嘘ではない。それは歴史が証人だ。本当に彼は生まれ変わったのでした。

そしてその再生をもたらしたのはやはりアンナ夫人あってのことでしょう。やはりアンナ夫人はドストエフスキーの守護天使だったのだ。運命の相手だったのだ。そのことを思うとこの二人を祝福せずにはいられません。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(24)プラハに滞在したかったドストエフスキー夫妻~あのスメタナともニアミス!泣く泣くドレスデンへ。二人の旅も終盤へ

娘の出産のためにフィレンツェからプラハへ向かったドストエフスキー夫妻。

プラハにはスラブ系知識人のコミュニティーがあり、ドストエフスキーは彼らとの交流を願っていました。そして何より、夫妻は美しきプラハに滞在することを楽しみにしていたのです。

ですが、プラハに滞在することは叶わず、ドレスデンへ移ることになります。

歴史に「もしも」は禁物ですが、もし夫妻がここに滞在できたらあのスメタナやドヴォルザークともドストエフスキーは接点があったのかもしれませんでした。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(23)芸術の都ヴェネツィアを訪ねて~美しき水の都にドストエフスキーは何を思ったのだろうか

この記事ではドストエフスキー夫妻が訪れたヴェネツィアと、その道中で立ち寄ったボローニャをご紹介します。

誰もが憧れる水の都ヴェネツィア。ドストエフスキー夫妻はわずか数日の滞在でしたが、楽しい一時を過ごしたようです。私も夫妻が過ごしたヴェネツィアを歩き、彼らの滞在に思いを馳せながらこの街のゆかりの地を巡ったのでありました。

どこを撮っても美しい写真が出来上がる驚異の街でした。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(22)フィレンツェでのドストエフスキーの日々~ゆかりの地や彼お気に入りのラファエロ作品『小椅子の聖母』などをご紹介!

夫妻はバーデン・バーデン・ジュネーブ・ヴヴェイでどん底を見た。そんな彼らに恐いものはもう何もない。這い上がるしかないのだ。

悲しみや苦しみを分かち合い、今や二人は強固な絆で結ばれた。彼らの復活はいよいよここから始まっていく。自分たちをミコーバー夫妻になぞらえたフィレンツェでの生活はこの旅の大きなポイントになったのではないでしょうか。

あぁ、美しきフィレンツェ!できるなら私ももっともっとゆっくり滞在したかった!さすがは花の都。この街の芸術には感嘆させられっぱなしでした。

ドストエフスキー夫妻にとってもこの街での滞在はかけがえのない日々だったと私は信じたい。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(21)ドストエフスキーお気に入りのミラノ大聖堂と夫妻のイタリア滞在の始まり

愛娘を喪い悲しみに暮れるドストエフスキー夫妻。ヴヴェイでの悲しみの夏を過ごした後、二人はいよいよイタリアへ向かうことになります。

彼ら二人が最初に滞在したのはミラノ。ここにはドストフスキーお気に入りのミラノ大聖堂があります。

この記事ではそんな二人がここでどのように暮らしたのかを見ていきます。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(20)ドストエフスキー夫妻のヴヴェイ滞在~悲しみのジュネーブを去り、愛娘の死を悼み暮らした夏

生後3カ月で亡くなってしまった最愛の娘ソーニャ。二人の悲しみはあまりに大きく、もはやソーニャの面影が残るジュネーブにいられなくなってなってしまいます。

この記事ではそんな二人が夏を過ごしたヴヴェイという街について紹介します。

バーデン・バーデンの地獄の日々を乗り越え、ジュネーブ、ヴヴェイで幸せと悲しみを共有した二人。

ドストエフスキーとアンナ夫人の結婚生活で、この時期が二人の関係性における決定的なものではないかと私は思います。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(19)宗教改革の街ジュネーブでドストエフスキーゆかりの地を巡る~夫妻の旅の転換点となった街に思う

前回の記事「ドストエフスキー夫妻待望の第一子ソーニャの誕生と早すぎた死~ジュネーブでの天国と地獄」ではドストエフスキーの喜びと悲しみの両極を見ることになった。

彼にとってバーデン・バーデンのギャンブル地獄とは全く質の違うどん底を見たのがジュネーブでの滞在だったのである。

私たちもそんなドストエフスキーが歩いたこの街をこれから歩いていくことにしよう。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(18)ドストエフスキー夫妻待望の第一子ソーニャの誕生と早すぎた死~ジュネーブでの天国と地獄とは

前々回、前回と2回にわたってジュネーブでのドストエフスキーについてお話ししてきましたが、今回はそのジュネーブ滞在の中でも最大の出来事、ソーニャの誕生とその早すぎる死についてお話ししていきます。

ドストエフスキー夫妻にとって最大の喜びと最悪の悲しみがほとんど同時にやってきてしまったのです。その顛末をこれから見ていくことにしましょう。かわいい我が子を溺愛する父親ドストエフスキーの姿にきっと皆さんも驚かれるに違いありません。

ドストエフスキー、妻と歩んだ運命の旅~狂気と愛の西欧旅行

(17)共産主義、社会主義革命家を批判したドストエフスキー~ジュネーブでの国際平和会議の実態とは

前回の記事ではジュネーブでのドストエフスキー夫妻の仲睦まじい姿をご紹介しましたが、今回の記事ではドストエフスキーという人物を考える上で非常に重要なポイントをお話ししていきます。

ドストエフスキーのジュネーブ滞在は共産主義、社会主義に対する彼の反論が生まれる契機となりました。

ここでの体験があったからこそ後の『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』に繋がっていったと考えると、やはりドストエフスキー夫妻の西欧旅行の持つ意味の大きさというのは計り知れないものがあると私は思います。