V・ハヴェル『謁見』あらすじと感想~「何もかもクソくらえ」な世の中で私達は何をすべきかを問う不条理劇
V・ハヴェル『謁見』あらすじと感想~「何もかもクソくらえ」な世の中で私達は何をすべきかを問う不条理劇
今回ご紹介するのは1976年に初演されたヴァーツラフ・ハヴェル作『謁見』という戯曲です。私が読んだのは松籟社より2022年に発行された阿部賢一、豊島美波訳『〈東欧の想像力〉20 通達/謁見』所収の『謁見』です。
早速この本について見ていきましょう。
チェコスロヴァキアの民主化運動を牽引し、のちに大統領に就任したヴァーツラフ・ハヴェル。しかし彼の本領は、「言葉の力」を駆使した戯曲の執筆にあった。
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官僚組織に人工言語「プティデペ」が導入される顛末を描いた「通達」、ビール工場を舞台に上司が部下に奇妙な取引をもちかける「謁見」の二編を収め、「力なき者たちの力」を考究したこの特異な作家の、不条理かつユーモラスな作品世界へ誘う戯曲集。
作者ヴァーツラフ・ハヴェルについては前回の記事「V・ハヴェル『通達』あらすじと感想~官僚組織と人工言語をテーマに人間性の喪失を描いた傑作不条理劇!」でもご紹介しましたが改めてプロフィールを紹介したいと思います。
1936年、プラハ有数の富裕な家庭に生まれる。第二次大戦後にチェコスロヴァキアが社会主義体制になると生家は財産を没収され、ブルジョア家庭の出自のため進路にも掣肘が加えられた。
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兵役終了後にプラハのABC劇場に職を得、演劇の道に入る。のち欄干劇場に移り、「不条理演劇」の表現の多様性を追求する戯曲を執筆した。代表的作品に本書収録の二編のほか「ガーデン・パーティ」「ラルゴ・デゾーラート」などがある。
「プラハの春」挫折後の「正常化」時代には作品の発表を禁じられ、収監も経験したいっぽうで、体制側に異議申し立てをする「ディシデント」として活動。「ビロード革命」で民主化運動を主導した「市民フォーラム」でも中心的な役割を果たし、のちには大統領に就任している。
晩年、戯曲「サナトリウム」を執筆していたが、脱稿は叶わず、2011年12月に逝去した。
チェコ大統領を務めた劇作家というすさまじい経歴の持ち主がハヴェルになります。
私がこの人物に関心を持つようになったのは彼の主著『力なき者たちの力』がきっかけでした。
私は2019年にプラハを訪れたことがきっかけで1968年の「プラハの春」事件に興味を持つようになり、その流れでハヴェルの存在を知ることになりました。
そしてこの『力なき者たちの力』という作品に衝撃を受け、私はハヴェルの著作を読むようになったのでした。また、この作品を読むにあたり参考にしたのが阿部賢一著『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」という本でした。
阿部賢一先生の解説は非常にわかりやすく、「プラハの春」の流れやハヴェルの言葉の意味を味わうための最高の手引きとなっています。そしてその解説の中で言及されていたのが今回の記事で紹介している『謁見』と前の記事で紹介した『通達』という作品になります。
ではこの作品について見ていきましょう。参考にするのは『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」です。
ハヴェルを「戯曲家」と紹介してきましたが、実はかれは一九七四年、北ボヘミアのトルトノフという町にあるビール工場で、九か月にわたって働くことになります。この時ビール工場で働いた体験は、戯曲家、文筆家として活動してきたハヴェルに、多くのことをもたらしました。その一つが、生々しい「仕事」の感覚です。
ハヴェルの作品の中に、ビール工場を舞台にした『面接』(※『謁見』のこと。ブログ筆者注)という一幕物の戯曲があります。登場人物は、ハヴェルを想起させる戯曲家のフェルディナント・ヴァニェクと、上司である気さくなビール職人の二人だけ。肉体労働の経験のないヴァニェクは、ある時、上司に呼び出されます。ビールを飲みながら、仕事はどうだとか世間話をするのですが、そのうちに上司はヴァニェクに「暖かい場所で、ゆっくり物書きもできる倉庫番に配置換えしょうか?」と提案します。なぜかというと……
職人 何が最悪かわかるか?
ヴァニェク 何です?
職人 毎週、やつらに何を言えばいいか悩ましいのさ―だって、俺はお前のことをまったく知らない―お前と親しくなるわけないからな―耳に入るのは―お前さんが実験室に潜りこんだとか―瓶詰係のマルシュカと町でいっしょにいるのを見たとか―メンテナンスの連中が家の暖房の修理をしたとか―他愛のないことばかり―でも、こんなこと書けるか?だから、教えてくれ―やつらに何を言えばいいんだ?いったい、何を?
ヴァニェク 気分を害して欲しくないんですが、そういうお役には立てないかと―
職人 いや、できる。その気になりさえすれば―
ヴァニエク 私が?どうやって?
職人 お前はインテリだろ?政治的にも目配りがきくだろ?文章も書けるな?やつらが何を知りたがっているか、お前以外に誰がわかるっていうんだ? (『面接』一九七五年、著者訳)
要するに上司は、ヴァニエクの勤務状況について「やつら」、つまり秘密警察(戯曲では「やつら」という表現しか使われていません)に密告する報告書を、ほかでもないヴァニェク本人に書いてもらおうとしているわけです。上司は、ビールの醸造については詳しくても、報告書に何をどう書いていいのか、分からないからです。
作家がビール工場で働き、ビール職人が警察への報告書を書き、さらには監視する人と監視される人が入れ替わる。この戯曲で描かれているのは、不条理極まりない、常軌を逸した出来事です。しかし、これこそが、ポスト全体主義体制下の人々を取り巻く状況を表しています。
NHK出版、阿部賢一『NHK 100分de名著 2020年2月』「ヴァーツラフ・ハヴェル『力なき者たちの力』」P55-58
この引用の最後に書かれていた「ポスト全体主義体制』というのはプラハの春以降のソ連支配下のプラハのことです。ハヴェルはまさに共産主義イデオロギーの下厳しい弾圧を受けていたのでありました。そしてそれはハヴェルだけでなく国民全体に及んでいたのです。そうした恐るべき時代をハヴェルはこの作品で表現しています。
「プラハの春」についてはこちらのまとめ記事でお話ししていますのでぜひこちらも参照して頂ければと思います。
そして『通達/謁見』の巻末解説ではこの作品について次のように述べられています。
ヴァニェクという人物造形は、干された作家、言葉遣いといった点から、ハヴェル本人を想起させる。なによりも、これまでの作品でよく見られた、官僚制度の虜になっていく無機質な人物とは異なり、醸造長も、人間味あふれる人物たちである。逆にそのような親しみやすい人物も、制度のしがらみに取り込まれてしまうという点に本作の肝がある。
そういったこともあってか、国内の公の場で上演されることがなかったにもかかわらず、この作品は大反響を呼んだ。ハヴェル本人によれば、たまたまレストランで遭遇した人、あるいはヒッチハイクで車に乗せた人がこの作品の一節を披露することが幾度となくあったという。国外でも、ハヴェルの戯曲の中では最も翻訳、上演される作品となった。(中略)
ハヴェルという人物を多少なりとも知っていれば、ヴァニェクという人物にハヴェルの姿を見出すのは当然だろう。けれども、この作品内で私たちが目にするヴァニェクの姿は断片にすぎない。ただ醸造長と言葉を交わすだけである。しかも何度も同じ話題が上がり、まるで時間が進んでいないかのようにも思える。
けれども、二人の人物の振る舞いや言葉を抽出してみると、ある種の「原則」が機能していることがわかる。醸造長は、ビール製造に誇りをもっているが、今はデスクワークをしている。しかも、「奴ら」(秘密警察を含意している)に報告書を書かなければならないのに、書くべきことがわからず途方に暮れている。一方、劇作家のヴァニェクは仕事を干されて、ビール醸造所で慣れない仕事をどうにかこなしている。そう、この二人はともに望まない状況に直面しており、その状況からどうにか脱しようと試みている。
醸造長は、調査対象の本人に報告書の執筆を求めるほど追い詰められている。だから、この短い「謁見」(もちろん、この表現にはハヴェルなりの皮肉が込められている)のあいだに、かれは(もちろんビールが好きだという前提もあるが)何本ものビールを空けるのだ。
暖かい場所で仕事ができるという条件を提示されたヴァニェクは「信条」からできないと一旦は断る。だが劇はそこでは終わらない。醸造長が積年の想いを打ち明け、ヴァニェクはその話し相手もまた苦悩していることを知る。つまり、上司と部下という異なる立場にいると思われた二人が「一本のロープ」を引っ張っていることを改めて意識するのである。
倫理、良識、良心、そういったものが明快な答えを与えてくれないとき、人はどのように選択をするのか。「ヴァニェクの戯曲は本質的にヴァニェクについての戯曲ではなく、ヴァニェクが対峙する際に現われる世界についての戯曲である」とハヴェルは述べている。そう、「何もかもクソくらえだ」と罵りたくなる世の中で、私たちはどうすべきか。この戯曲が投げかけるものは大きい。
松籟社、ヴァーツラフ・ハヴェル、阿部賢一、豊島美波訳『〈東欧の想像力〉20 通達/謁見』P240-243
※一部改行しました
「醸造長が積年の想いを打ち明け、ヴァニェクはその話し相手もまた苦悩していることを知る。つまり、上司と部下という異なる立場にいると思われた二人が「一本のロープ」を引っ張っていることを改めて意識するのである。」
これはこの戯曲を読んで最後の最後で「おぉ~!」となる解説です。ぜひ作品そのものを読む前に巻末の阿部賢一先生の解説を熟読することをお勧めします。この解説を読んでいなかったら『謁見』の奥深さには気づくことはなかなか難しいかもしれません。
この作品はこれまで紹介した引用にありますように、不条理劇です。ヴァニェクと醸造長の会話はいかにも味気なく、どうも噛み合いません。時間が巻き戻されたかのようなやりとりが延々と繰り返されます。
ですがこの劇の最終盤です。そこで上の解説にありますように、醸造長が内に秘めた想いをさらけ出します。プラハの春以後の人間性を失った社会の中で、本来出してはいけぬ「己の想い」が現れてくるわけです。
そのことにヴァニェクも気付き、それまでのインテリ風の丁寧な口調を改め、「何もかもクソくらえだ」と己の想いを表明します。
誰が密告するかもわからない官僚社会で、人間はそれぞれの役割を押し付けられます。そして決められた言葉を使い、決められた職務をただ命じられるままに遂行しなければなりません。
もしそれに批判や疑問を述べてしまえば反体制派として即刻処罰される世界。
ヴァニェクは作家です。しかもすでに反体制派として目をつけられているのか執筆活動を禁じられています。
そして醸造長も本来はビール造りを本業としていたのに、秘密警察の手先として働かされています。
二人はそうした立場の下謁見し、不条理なやりとりを続けていたのでありました。そしてそのラストが二人の想いの表明、つまり人間性の爆発です。
「自分の想い」を言うことが何で人間性の爆発なのか。現代日本を生きる私たちにはなかなか想像しにくいかもしれません。ですが1970年代のプラハはそれほど凄まじい抑圧の世界だったのです。時代背景を知った上でこの作品を読むとよりその恐ろしさが伝わってくると思います。
上の引用の最後に出てくる、
「倫理、良識、良心、そういったものが明快な答えを与えてくれないとき、人はどのように選択をするのか。「ヴァニェクの戯曲は本質的にヴァニェクについての戯曲ではなく、ヴァニェクが対峙する際に現われる世界についての戯曲である」とハヴェルは述べている。そう、「何もかもクソくらえだ」と罵りたくなる世の中で、私たちはどうすべきか。この戯曲が投げかけるものは大きい。」
という阿部賢一先生の言葉は非常に大きな意味があると思います。
ハヴェルの作品はプラハの春以後の抑圧体制を痛烈に批判していますが、それはこの時代だけでなく現代にも通ずる批判です。人間はいつどこであってもこうなりうる。そうならないために私たちは何をすべきなのかということを問いかけてきます。
これもまたものすごい作品でした。ハヴェル作品はどの作品も強烈です。ぜひ日本でももっと知られてほしいなと心の底から思います。
ぜひぜひおすすめしたい作品です。
以上、「V・ハヴェル『謁見』あらすじと感想~「何もかもクソくらえ」な世の中で私達は何をすべきなのかを問う不条理劇」でした。
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