カフカ『審判』あらすじと感想~延々と進まぬ奇妙な裁判。不条理な停滞と戦慄のラストが魅力のカフカの傑作!
カフカ『審判』あらすじと感想~奇妙な裁判に巻き込まれた不運な男の不条理物語
今回ご紹介するのはフランツ・カフカによって書かれ、彼の死後の1925年に発表された『審判』です。
私が読んだのは岩波書店、辻瑆訳の『審判』1994年第31刷版です。
早速この本について見ていきましょう。
Kについてはごく平凡なサラリーマンとしか説明のしようがない。なぜ裁判に巻きこまれることになったのか、何の裁判かも彼には全く訳がわからない。そして次第に彼はどうしようもない窮地に追いこまれてゆく。全体をおおう得体の知れない不安。カフカ(1883-1924)はこの作品によって現代人の孤独と不安と絶望の形而上学を提示したものと言えよう。
Amazon商品紹介ページより
この作品もカフカらしさ全開です。カフカといえば『変身』が有名ですが、個人的には『変身』よりもカフカらしさが出ているように感じました。寒気がするほど不条理全開の作品です。
この作品は上のあらすじにありますように、ごく平凡なサラリーマンのKがある日突然裁判に巻き込まれ、日常が崩壊していくというストーリーです。
Kには何のいわれがあって自分が容疑者とされているのかさっぱりわかりません。それこそある日突然、男が部屋に押し入って来て「お前は逮捕されるのだ」と突きつけられるのです。
さらに不思議なことに、すぐに監獄入りになるのかと思いきや日常生活をそのまま送ることができ、定期的に裁判所に出頭することのみを言いつけられることになるのです。
自分は何をしたというのか。思い当たることはまったくない。しかし、彼らは断固として自分を有罪人としている・・・
裁判所に出頭するも、そもそも伝えられた裁判所がかなり奇妙な場所なのです。明らかにおかしい。普通の裁判所ではない・・・そこにいる人間達も奇妙な者ばかり・・・・
普通ならここでそのおかしさに気づき、物語は急展開をしていくはずなのですがそこはカフカ。
主人公はその不条理を受け入れ、その奇妙な世界にしぶしぶ従うことにするのです。
そしてさあいよいよ裁判が始まるのかと思いきや、これがまた全く進まない!結局自分が何の罪状で起訴されているのか最後の最後までさっぱりわからないのです。
じりじり焦らすかのように時は進んで行きます。そしてついにその日は来ます。それはあまりに唐突な処刑でした。なぜこうなったのか、なぜそうならなけらばならないのか、Kは全くわからぬまま最後まで不条理に飲み込まれることになります。正直、異常です、この小説は。あらすじをこう追って行くのもかなり厳しいです。きっとこれを読んでも何が何だかわからないのではないでしょうか。ですが、小説を実際に読んでもこんな感じなのです。終始奇妙な状況が続いていくのです。そして、そのラストに戦慄するのです。
巻末のあとがきにはこの作品について次のように解説されていました。
作品の解釈は自由である。『審判』はたしかに『城』と表裏一体をなしているが、それをブロートが、城は神の恩寵を示し、審判はそのおなじ神意による審判を示すものとして、宗教的な解釈を行なって以来、『審判』のみならずカフカの全作品が、あるいはユダヤ教的に、あるいはカトリック的に、あるいは実存主義的に、あるいは存在論的に解釈されてきたが、いずれにしても一つの外部的な世界が、ヨーゼフ・Kの処刑を行なうと見る見解は、現在ではすでに拒否されたものと思われるのである。
罪の存在とその認識、および処刑も、あくまでカフカの内面世界の表白として見るべきであろう。この小説が、第九章に出てくる挿話(これは『掟の門』と題されて、のちの物語集『村医者』にも収められている)をめぐって構想されたことは、ほぼあきらかであるが、すでに作品中にも見られるとおり、カフカ自身が僧とヨーゼフ・Kのロをかりて、この話の解釈がいかに困難であるかという事実を示しており、あえていえば、外部から加えられる解釈を拒否しているのである。そこにカフカ自身の作品の、謎と魅力が存在していることを、ここに想起しておきたい。
岩波書店、フランツ・カフカ、辻瑆訳『審判』P390
※一部改行しました
著者のカフカ自身もこの作品の解釈は困難であることを述べています。この作品は合理的な解釈をして楽しむのではなく、不条理を不条理としてそのまま味わうことにこそ意味があるのかもしれません。
こうした不思議な世界観はカフカの出自と絡められて解説されることが多いです。前回紹介した『変身』の記事でも少しお話ししましたがここで改めてカフカの出自を見ていきましょう。
フランツ・カフカは、一八八三年七月三日、現在のチェコスロバキアの首都プラハに生まれた。カフカという姓は、チェコ語でからすの一種を意味しているが、カフカがユダヤ人を両親としてしてこのプラハに生まれ、四十一年の短い生涯を、大部分プラハで過ごしたことは、彼の上にかなり決定的な影響を与えているものと見られている。東欧屈指の大都市であるこのプラハは、カフカの生まれた当時オーストリア・ハンガリア帝王国に属し、政治的にはウィーンの支配下にあり、文化的経済的な力も、まだ伝統的に、指導階級であったドイツ人の手に握られていた。しかしそのプラハを人口の面から見ると、ほとんど八、九〇パーセントまでがチェコ人だったのである。(中略)
そのプラハに、チェコ人でもなくドイツ人でもない人種が住んでいたが、これが十九世紀末以来、膨張するチェコ人人口のなかで、ドイツ文化の主要な担い手となったユダヤ人である。ユダヤ人は、皇帝ヨーゼフニ世の治下(一七八〇-九〇)に、解放政策が行なわれて以来、やはり数多く都市に移り住んで、すでにプラハでも中産階級に進出していたものが少なくなかった。(中略)
要するに、支配的なドイツ文化と経済、圧迫されたチェコ人たちの独立運動、それに流浪のユダヤ民族、これらが複雑にうずまくなかに、宗教的にはドイツ神秘主義の伝統や、スラヴ的で敬虔な心情や、ユダヤ教やらが混然として存在し、それが十九世紀末の閉鎖的な市民社会を形成しているというのがプラハの町であった。
そのただなかで、国籍上はオーストリアに、文化的にはドイツに属し、多数のチェコ人のあいだに生活しながら、血筋の上ではユダヤ人であるというのが、まさしくカフカのおかれた立場である。
こうして、一切のものが存在する都市のなかに、自分の存在のじゅうぶんな根拠となる伝統と理由とを欠いているその立場は、カフカの作品にみられる普遍的な人間像と、社会的な限定を欠き、ないしは社会的な限定を越えた、一種夢のなかのような状況設定とにふかい関係のあるものと解されるのである。
少なくとも、彼の作品にみられる、人間の歴史をぜんぶ包含しているような普遍性と、微細な日常性のなかから浮きぼりにされる一種独特な現実感とは、当時のプラハという都市とそこにおかれたカフカの立場とに、ある照応を見せていることだけはたしかである。前記のウィリー・ハースが指摘していることであるか、素材の点からいっても特に『審判』は、作中の些末な描写に至るまで、当時のプラハの姿を書きとめたものとされている。
岩波書店、フランツ・カフカ、辻瑆訳『審判』P384-386
※一部改行しました
オーストリア帝国民であり、文化的にはドイツ人であり、プラハでチェコ人の中で暮らすもユダヤ人としての出自もあったカフカ。自分がどこに本当に属しているのかがわからない。そうした自己の不確定さ、不安定さが作品にも大きな影響を与えていると解説されています。
実際、『審判』はとにかく掴みどころのない作品です。しかもとにかく冗長です。展開がなかなか進まず、私たち読者も主人公Kと同じくただただ困惑するしかない状況が続きます。「もっとわかりやすくスピーディーに書いてくれないと読むのも辛いよ」と思ってしまったのですが、カフカはきっとわざとそうしているのだなと読んでいる最中にふと思いました。
「不条理な展開を際立たせるためにカフカはわざと冗長で掴みどころのないやりとりを長々と繰り返している。不条理に襲われるというのはこういうことなんだぞとカフカは私たちにそれを示そうとしているのだ。」
そんな風に思えたのです。
カフカも書こうと思えばわかりやすいすっきりしたものを書けたはずです。しかし彼はそうしなかった。そこにはやはり不条理を描こうとしたカフカの確固たる意志があるように感じたのです。
この作品を読むのはかなりの神経戦になります。読み終わった後はかなりぐったりでした。
しかし、読後の満腹感はなかなかのもので、この作品の持つ不思議なパワーにはやはり驚かされます。
また、この作品は以前当ブログで紹介したトビーグリーンの『異端審問 大国スペインを蝕んだ恐怖』という本の中でも紹介されていました。
『審判』の不条理な裁判の過程はかつてのスペインの異端審問を連想させるものであり、カフカの描いた不条理はたしかにフィクションではあるものの、現実世界を生きる私たちにも決して無縁ではないということを考えさせられました。
『審判』は不気味で恐ろしい作品です。読み物としてシンプルに面白いのは『変身』かもしれませんが、不条理の恐ろしさをより感じるのはやはりこの作品です。個人的にも『変身』よりもこちらの作品のほうが印象に残っています。
なかなか手強い作品ではありますが、カフカファンならずともぜひ読んで頂きたい作品です。淡々と進んで行くホラー作品とも言えるかもしれません。カフカらしさ全開の作品です。
以上、「カフカ『審判』あらすじと感想~延々と進まぬ奇妙な裁判。不条理な停滞と戦慄のラストが魅力のカフカの傑作!」でした。
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