加地伸行『孝経〈全訳注〉』概要と感想~「孝」は親孝行ではない?仏教と儒教の関係についても知れるおすすめ本
加地伸行『孝経〈全訳注〉』概要と感想~「孝」は親孝行ではない?誤解されがちな「孝」の真の意味とは?仏教と儒教の関係についても
今回ご紹介するのは2007年に講談社より発行された加地伸行著『孝経〈全訳注〉』です。
早速この本について見ていきましょう。
人間観・死生観の結晶 儒教の古典を読み直す
本文18章と付篇1章から成る小篇である『孝経』は、
孝道を論じた儒教の経書で、古来永く読み継がれてきた。しかし、単に親への孝行を説く道徳の書ではなく、中国人の死生観・世界観が凝縮された書である。
『女孝経』『父母恩重経』「法然上人母へのことば」など中国と日本の『孝経』周辺資料も多数紹介・解読し、精神的紐帯としての家族を重視する人間観を分析する。従来、『孝経』と言えば、子の親への愛という、いわゆる親孝行と、孝を拡大延長した政治性という、いわゆる統治思想と、この両者の混在といった解釈がなされることが多く、それが『孝経』の一般的評価であった。そうではない。『孝経』全体としては、やはり死生観に関わる孝の宗教性が根本に置かれている。その上に、祖先祭祀・宗廟といった礼制が載っているのである。――<本書「『孝経』の主張」より>
Amazon商品紹介ページより
著者の加地伸行氏はこれまで当ブログでも紹介した『孔子 時を越えて新しく』や『儒教とは何か』や『論語〈全訳注〉』、『韓非子 悪とは何か』の著者です。
加地伸行の著書を読めば儒教に対するイメージが変わります。
と言いますのも儒教といえば礼儀道徳というイメージがどうしても浮かんでしまいますが、実は儒教には宗教的な側面が強くあるということを加地伸行氏は教えてくれます。特に『孔子 時を越えて新しく』や『儒教とは何か』でそのことについて詳しく書かれているのですが、本書『孝経〈全訳注〉』でもそのことが詳しく語られます。
加地氏は「はじめに」で次のように述べています。少し長くなりますが重要な問題提起がなされますのでじっくり読んでいきます。
『孝経』ーと聞けば、「孝」という文字のつく書名の文字どおり、孝について書かれた書物であるとだれしもが思うのは当然である。それはそれで正しい。
問題は、その次である。すなわち、それではいったい東北アジアにおいて、古来、人々が最も重視してきた、人間としてのありかたである孝とは何かということになる。その瞬間、ほとんどの人は、親に対して物・心ともによく尽くすこと、と道徳的なものとして答えることであろう。もちろん、これもそれはそれで、その限りにおいて正しい。しかし、答えとしては十分ではないのである。なぜなら、物・心ともに親に尽くすことは、伝統的概念の孝としては、三分の一の内容にすぎず、残りの三分の二を加えてはじめて孝の完成となるからである。
にもかかわらず、多くの人は、その残りの三分の二についてほとんど知らない。仮にその内容を知っていても、それは孝とはべつのものと思っている。それが実情である。
そのため、〈孝とは物・心ともに親に尽くすこと〉という孝観念の下で『孝経』を読む人がこれまで多かったのである。その結果、〈孝という道徳〉について記したものが『孝経』であると理解し、今日に至っている。
果たして、それは『孝経』の正しい理解なのであろうか。
もちろん、『孝経』が孝という〈道徳〉を語っていること自体は事実である。これを動かすことはできない。しかし、そのように読む人は、実は始めからその気持ちで読んでいるのであって、すなわちそのような先入観のままに読んでいるのであって、実は、伝統的な孝観念の下に読んでいるとは言えない。
そのような先入観の代表例を挙げれば、たとえば、板野長八『儒教成立史の研究』(岩波書店、一九九五年)の場合、『孝経』の成立を中心にして『孝経』について論じているが、その際、孝それはとりもなおさず封建道徳(親への絶対的服従と献身的対応等)として扱っているのである。孝の中身についての考察は、まったくと言っていいほどなくて、つまりは孝の概念について省みることはなくて、いきなり封建道徳というステレオタイプの価値判断をして論じている。
また、その延長であるが、自分が発した〈封建〉という語の延長として、封建制を持ち出し、封建制という諸侯連合体の上に立つ周王朝から、皇帝を頂点とする郡県制の中央集権制(地方長官は中央からの派遣)の秦漢帝国(ただし、漢は完全な郡県組織にしないで、一部に自治領として小国を認めたので、純粋な郡県制ではなくて郡国制)へという政体の再編成があった歴史的事実にあてはめて孝を位置づけている。これは俗に言う〈後知恵〉の域を出ない。
それはまさに、〈孝〉という字面の表面的な辞書的説明を歴史的事実に単純に貼りつけた、無機的、形式的、〈歴史科学的〉議論にすぎない。
そういう機械的公式的方法を取るのではなくて、孝の持つ内容を分析し、それがその周辺に関わる有機性を明らかにし、孝自体の内発的な思想的意味を追究するのでなくては、とてもではないが『孝経』の成立について論じることはできない。
※スマホ等でも見やすいように一部改行した。
講談社、加地伸行『孝経〈全訳注〉』P118-120
「物・心ともに親に尽くすことは、伝統的概念の孝としては、三分の一の内容にすぎず、残りの三分のニを加えてはじめて孝の完成となる」
「孝」といえば親孝行をイメージしてしまいますが、実はその親孝行が「孝」の三分の一の内容にすぎないというのは驚きですよね。しかもその残りの三分の二を無視したまま『孝経』というものが語られているのが現状であると著者は指摘します。
そして本書ではその三分の二がいかなるものかということをじっくりと見ていくことになります。そこに先ほども述べた宗教的な側面や、親を超えた先祖に対する孝というものが出てくることになります。
また、本書後半ではこの「孝」と仏教の関係性についても語られるのですがこれがまた刺激的です。
何度も申しますように、加地伸行氏は儒教にも宗教的な側面が強くあることを主張します。そしてそのような宗教的土壌がある中国に仏教が伝来した時、中国側はどのような反応を示したのかが語られます。
そして本書では私達仏教僧侶側としても興味深いことも書かれています。
『仏説盂蘭盆教』、『仏説父母恩重経』、『梵網経』は中国で作られたお経でありますが、これらはまさに仏教が中国に馴染めるよう、「孝」をはじめとした儒教倫理と結びついて制作されたお経でした。そうしたお経が日本に伝来して根付いたということは、そもそも日本の仏教がインド仏教とは全く異なる「中国的、儒教的なものを強く含む仏教」であると著者は指摘します。詳しくは本書に述べてありますのでここではお話しできませんが、これはたしかになるほどと思わざるをえないものがあります。
私もここ最近しばらく中国史や中国仏教を学んでいますが、私も日本仏教の故郷はインドではなく、中国であると薄々感じてきました。これは今年インドの仏跡に行っても感じたことです。もちろん、源流をたどればインドが始まりではありますが、最も大きな影響を受けているのはどこかと言われると、やはり中国ということになるのではないかと思います。「日本仏教や日本史を学ぶカギは中国にある」、私はそう感じています。
ただ、加地伸行氏の述べるように中国・日本仏教が儒教の影響を強く受けているのは事実としても、中国仏教=儒教というわけでもありません。むしろ中国宗教界は儒教・道教・仏教が相互に影響を与えつつ展開してきた歴史でもあります。
中国仏教、日本仏教について考える上でも本書は非常に有益です。ぜひぜひおすすめしたい一冊です。
以上、「加地伸行『孝経〈全訳注〉』概要と感想~「孝」は親孝行ではない?誤解されがちな「孝」の真の意味とは?仏教と儒教の関係についても」でした。
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