森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』あらすじと感想~あの玄奘三蔵法師を外交官にスカウト!?唐王朝の驚きの裏話も知れるおすすめ参考書!
森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』概要と感想~あの玄奘三蔵法師を外交官にスカウト!?唐王朝の驚きの裏話も知れるおすすめ参考書!
今回ご紹介するのは2023年に中央公論新社より発行された森部豊著『唐ー東ユーラシアの大帝国』です。
早速この本について見ていきましょう。
六一八年、李淵(高祖)が隋末の争乱の中から、唐を建国。太宗、高宗の時代に突厥・高句麗を破り、最盛期を築く。武則天、玄宗の治世は国際色豊かな文化を生み、大帝国の偉容をほこった。安史の乱以降は宦官支配や政争により混乱し、遊牧勢力と流賊の反乱に圧され、九〇七年に滅亡した。本書では、歴代皇帝の事績を軸に、対外戦争、経済、社会制度、宮廷内の権謀術数を活写。東ユーラシア帝国二九〇年の興亡を巨細に描く。
Amazon商品紹介ページより
本書『唐ー東ユーラシアの大帝国』は唐の歴史の全体像を学ぶのにおすすめの参考書です。
前回の記事で紹介した平田陽一郎著『隋ー「流星王朝」の光芒』も多種多様な民族や地域との関連性から中国史を見ていく作品でしたが、本書もグローバルな視点からその歴史を見ていくことになります。本書冒頭で著者は次のように述べています。
唐は、文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族からなるハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが、鮮卑族の血、あるいはその文化を色濃くひくばかりか、唐の歴史をひもとくと、いたるところでテュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、あるいは朝鮮半島出身の人など、さまざまな出自の人たちが活躍する姿を見ることができる。
中央公論新社、森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』Pⅱ
本書ではこうしたハイブリッドな王朝の中身をじっくりと見ていくことになります。そして唐のある東アジアだけでなく、ユーラシア全体の多様な世界の中でどのように唐という王朝が成り立っていたかを見ていきます。
中央アジアの人々や鮮卑や匈奴など、様々な異民族との関係を無視しては中国の歴史は見えてきません。この本ではものすごく大きなスケールで唐の歴史が語られていきます。これは刺激的でした。
そして僧侶である私にとっては唐の第二代皇帝太宗と玄奘三蔵法師についてのエピソードが特に印象に残っています。
第二代皇帝太宗(在位626-649)は唐の名君として有名です。彼は貞観の治と呼ばれる善政を行い、唐の大いなる発展に寄与しました。そして一方玄奘はといいますと629年に唐から不法出国し単独で西域に渡り、645年に帰国することになります。そうです、まさに太宗の治世とドンピシャの時代に玄奘は出国帰国を果たしていたのでありました。
この太宗と玄奘についての興味深いエピソードが本書で説かれることになります。せっかくですのでその全文を引用することにしましょう。
太宗と玄奘
太宗の時代、玄奘(六〇二~六六四年)の活動を無視することはできない。のちに『西遊記』の三蔵法師のモデルともなったこの仏僧は、中国での仏教教義の研究に限界を感じ、唐を密出国してインドへ求法の旅におもむいた。
長安を出発した玄奘は、河西回廊に沿って西へすすみ、高昌国をへて、現在のキルギス共和国のトクマク近くのスイアーブへいたり、西突厥のカガンに会った。高昌国王が、玄奘のインド行を助けるようにカガンあてに書いた手紙が功を奏し、ここから先は西突厥カガンの保護をうけて旅をつづけることができ、無事、ハルシャ王が統治するヴァルダナ朝のインドへ到達した。ナーランダーの僧院で研鑽をつんだ玄奘は、大量の仏典をもって帰国した(六四五年)。
そして玄奘は太宗の援助をうけ、インドからもちかえった大量の仏典の翻訳に従事した。玄奘は、それ以前の仏典の漢語訳の語彙とは異なる訳語をもって仏典を翻訳した。その訳語の選定には厳密さと刷新性、そして首尾一貫性があり、従前とは一線を画するものだった。それゆえ、これを「新訳」といい、玄奘以前のものを「旧訳」とよんでいる。
玄奘のおもな関心は、唯識の教えにあった。その教団は、太宗および次の高宗政権と深くむすびついて、唐の皇室の保護政策のもと、唯識教学(法相学)を大成してさかんとなり、中国仏教界に大きな足跡をのこした。ちなみに、この教学は、玄奘に師事した道昭(六五三年、第二回遣唐使で渡唐。六六一年に帰国)によって日本に伝えられた。
現在の仏教学者や仏教史研究家は、太宗の仏教保護の側面を強く説く。いわく、太宗が玄奘を厚くもてなし、彼の大翻訳事業を支援したのは、その経典の中に密教系のものがあり、国家護持の役割を期待したのだ、と。あるいは、親仏派の門閥勢力をとりこむために仏教を保護したのだ、と。
しかし、この時期の唐の皇室が重視したのは、道教であった。これは、唐に先立つ隋が仏教帝国だったこととは、大きく異なる。唐室が道教を大切にしたのは、道教の始祖にまつりあげられた老子(本名李耳)と同姓だからとか、隋唐革命のとき、長安の西郊にある楼観(道教最初期の宮観。老子から『道徳経』を授けられた尹喜の旧宅)の道士が李淵を助け、大きく貢献したからだといわれる。さらに玄武門の変のときも、仏教グループが李建成らを支持したのに対し、道教グループは太宗を支持した。そのため、太宗は「〔今後はあらゆる儀礼の場において〕道士と女冠は僧や尼の前におくのがよい」と詔を出した(六三七年)。
この道教を重視する「道先仏後」の唐朝の姿勢は、武則天が仏教を重視した一時期をのぞいて、その後も一貫したものだった。その姿勢には、隋を否定して登場してきた唐にとって、隋の文帝が仏教を統治イデオロギーに据えたことに対するアンチテーゼとして、道教を重視したという側面も考える必要があるだろう。
中央公論新社、森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』P74-76
「現在の仏教学者や仏教史研究家は、太宗の仏教保護の側面を強く説く。いわく、太宗が玄奘を厚くもてなし、彼の大翻訳事業を支援したのは、その経典の中に密教系のものがあり、国家護持の役割を期待したのだ、と。あるいは、親仏派の門閥勢力をとりこむために仏教を保護したのだ、と。
しかし、この時期の唐の皇室が重視したのは、道教であった。」
この箇所は私達僧侶にとって非常に重要な指摘だと思います。私達僧侶はどうしても仏教の側から玄奘を見てしまいがちですが、事はそう単純ではなかったのです。そして次の箇所で驚きの事実が語られます。
『大唐西域記』
ところで、太宗が玄奘を重用したのは、純粋な仏教信仰からではない。中央アジアに覇権をとなえる西突厥をほろぼすため、玄奘がもつ最新の中央アジアの情報を太宗は必要としていたのだ。そのため、玄奘がインドから帰国したとき、太宗は、彼を還俗させ、外交官として採用したがった。政治上、軍事上の目的から仏僧玄奘を利用しようとしたのだといえる。
しかし、玄奘は訳経をライフワークに決めており、当然、太宗の要請にはしたがえない。そこで、両者の折衷案として、インド往復の旅行に関する報告書の提出におちついたという。それが、現在、私たちが見ている『大唐西域記』である。
ところで、この『大唐西域記』には、おもしろいエピソードがある。現存する『大唐西域記』の構成がいびつなのである。この書は全一二巻から成るが、そのうち、中央アジアの諸国について記されているのは第一巻(インドへの往路)と第一二巻(インドからの復路)にすぎない。さらに、当然、書かれてしかるべき情報が記されていない。たとえば、西突厥のカガンに会ったという話は、この書には見えない。
実は、私たちが現在見ることができる『大唐西域記』と、玄奘が太宗に提出した原本『大唐西域記』は別ものだったのではないか、という説がある。原本はもっと情報が多かったが、とりわけ西突厥にかかわる最新の中央アジア情報は、唐の西域経略上、重要な軍事機密ということで、世間に流布させるわけにはいかず、中央アジア部分の情報を秘匿したものが編集しなおされ、第二版として流布したというのだ。
この仮説を裏付けるように、『大唐西域記』を実際に編集し執筆した玄奘の弟子の弁機は、太宗の娘の高陽公主(房玄齢の次男の妻)と密通したとされ、腰から下を斬られるという刑に処されている。これは、もとの『大唐西域記』の内容を知っている弁機のロを封じるためのでっちあげの事件だったのではないか、というのだ。ちなみに、このときは、高陽公主には、とがめはなかったが、高宗が即位して間もなく、大逆事件に連座して死を賜っている。
もう一つ、玄奘が亡くなったとき、完成していた玄奘の伝記も一緒に埋められた、という事実がある。それは、伝記の中に、世間に流布することがはばかられる情報、すなわち玄奘が見聞した中央アジアの最新情報が記されていたからだと考えると、つじつまが合う。実際、西突厥がほろんだあと、この伝記はほりだされ、修正を加えたうえで、『大慈恩寺三蔵法師伝』として完成している(六八八年)。この伝記には、『大唐西域記』に見えない西突厥などの情報が、しっかりと書かれている。それは、この伝記が唐の世にでまわったとき、西突厥はすでに唐の支配下に入り、機密情報ではなくなっていたからなのだという。
中央公論新社、森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』P76-78
太宗が玄奘に還俗して外交官になるよう依頼していたというのは驚きですよね。そしてあの『大唐西域記』の裏話も実に興味深いエピソードでした。
本書では他にも則天武后による洛陽遷都が仏教とどのようなつながりがあったかなど、仏教と唐の関係も学べるので仏教の参考書としてもおすすめです。
則天武后に関しては当ブログでも以前「氣賀澤保規『則天武后』あらすじと感想~中国史上初の女性皇帝!男社会に風穴を開けた驚異の才覚とは」の記事でも紹介しましたが、やはり唐の歴史を考える上でも非常に重要な人物です。その人物についてまた違った角度から本書では見ることができたのでこれも嬉しかったです。
本書は唐の全体像を学ぶのにおすすめの参考書です。ただ、入門として知識なしでいきなり読むには少し難しいかもしれません。塚本善隆著『世界の歴史4 唐とインド』などの入門書を読んでざっくりとでも隋唐の歴史を知ってから読むとより刺激的で楽しい読書になるのではないかと思います。
以上、「森部豊『唐ー東ユーラシアの大帝国』~あの玄奘三蔵法師を外交官にスカウト!?唐王朝の驚きの裏話も知れるおすすめ参考書!」でした。
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