東大安田講堂を訪ねて~あの安田講堂事件は何だったのか。当時の学生紛争について思う
【インド・スリランカ仏跡紀行】(58)
東大安田講堂を訪ねて~あの東大安田講堂事件は何だったのか。当時の学生紛争について思う
前回の記事「(57)私は「この人」を知っている…!帰国便で知った衝撃の事実。「彼は早稲田で死んだ」のだ。」でお話ししたように、私は成田到着後そのまま東京大学に向かった。
もちろん、行く先は安田講堂である。
学生運動といえばこの安田講堂攻防戦が連想されるほどこの事件はよく知られた出来事だろう。1969年1月18日、19日の2日間にかけて全共闘の学生と機動隊が衝突したこの事件は日本中をテレビに釘付けにさせたと言われている。
もちろん、1990年生まれの私にはその時のことはわからない。こうしたことがあった程度のことしか知らなかったというのが正直なところである。私は大学時代東京にいたので、何度かこの有名な東京大学を見学がてら散歩したことはある。だが恥ずかしながらこの安田講堂事件の深刻さに思いを巡らしたことは一度もなかった。
そんな東京大学に私はこれから向かうのである。
私はインド・スリランカを旅しながら学生紛争についての本を読み漁った。特に佐々淳行著『東大落城安田講堂攻防七十二時間』ではこの安田講堂事件の裏側が生々しく描かれていた。
そして私は機内で読んだ『彼は早稲田で死んだ』のショックを未だに引きずっている・・・。学生紛争の闇に私は打ちひしがれていたのだ・・・。
11月末の東京大学は秋模様。黄色く紅葉した銀杏並木が美しい。私は安田講堂正面の正門から構内へと入っていった。
安田講堂のすぐ近くにあるこれらの棟も全て学生たちが占拠し、激しい攻防が繰り広げられたという。
さあ、安田講堂に到着だ。ここであの事件が起きたのである。私はここに過去何度も来ている。だが、これほどの感情になったことがあるだろうか。「ここだ・・・ここで学生たちが蜂起したのだ・・・」と鳥肌が止まらなかった。
見上げたその姿はたしかに要塞のようにも見えてくる。
そして講堂真下までやって来た時、私は戦慄した。こんな高さから投石されたら死んでしまうではないか・・・!
この講堂の高さに私は改めて驚いた。佐々淳行さんの本ではその恐ろしさが生々しく書かれていた。彼らははるか上階から人間の頭めがけてコンクリート片を投下する。人間の頭よりも大きなコンクリ片が重力を利用してさらに加速して飛んでくるのだ。それは恐るべき破壊力になる。映像でも地面を叩きつけるコンクリ片の音が何度も響いていたのを覚えている。実際、こうした攻撃によって一生残る後遺症を負った機動隊も数多く存在する。学生の暴力は致死力のある攻撃だったのだ・・・。
ここに立てこもって学生達は何をしようとするつもりだったのか・・・
私はあなた達の最初の志は認めよう。しかしあなた達が突き進んだその先は一体何だったのだろうか・・・
ここで学生達が戦った相手は機動隊だった。学生達は殺すつもりで機動隊に攻撃を仕掛けた。それに対し機動隊側は学生を一人も殺さないことを厳命されていた。つまり、この戦いはそもそも非対称なものだった。学生達は機動隊が殺しにかかってこないことを知っていた。その上で学生達は攻撃を続けた。
投石や火炎瓶だけではない。彼らは機動隊に向かって硫酸まで使用したのだ。火炎瓶の炎に包まれるだけでなく、硫酸を浴びた機動隊もいたのだ。彼らがどれほどの重傷を負ったのか想像するのも恐ろしい。それでも機動隊は彼らを無傷で投降させなければならなかったのである。
そして戦いの最終局面、彼ら学生はバリケードを突破した機動隊についに追い詰められた。その時彼らは「暴力はやめてくれ」と懇願したという。佐々淳行さんの本は機動隊側からの語りである。そのため学生側からすると認められないものもあるかもしれない。だが、私はこうした戦いの流れを知ってやり切れない気持ちになった。
私はここ安田講堂に来て改めて思ったことがある。この事件は日本とスリランカにおける学生紛争の強烈なコントラストを示しているのではないかと。
「(46)キャンディのペラデニヤ大学で1971年のマルクス主義学生による武装蜂起について考える」の記事でもお話ししたように、1971年にスリランカでマルクス主義学生達による武装蜂起が発生した。これは全土に波及するほどの大きな事件だった。しかしこの武装蜂起はあっという間に収束する。なぜなら政府軍が学生達を容赦なく射殺したからだ。
「(55)AFP通信社コロンボ支局長にスリランカ内戦や今後のスリランカ情勢についてお聞きしました」の記事でもお世話になったAFP通信コロンボ支局長アマル・ジャヤシンハさんによれば、政府発表では1万だが、実際には2万人ほどが政府軍によって殺害されたという。これによってスリランカのマルキスト運動は終了したそうだ。
学生達の武装蜂起に対して軍を投入し、完全制圧をしたスリランカ。
それに対し、軍を投入せずあくまで警察たる機動隊で一人の死者を出さずに治安維持を目指した日本・・・。
もちろん、スリランカでは学生たちが銃火器で完全武装していたのに対し、日本ではそこまでの武装もなかったことも考慮に入れなければならない。もし何千人規模で学生たちが完全武装していたらどうなっていただろうか。銃刀法が厳しい日本ではそう簡単に銃火器による武装ができないというのが不幸中の幸いだったのかもしれない。
そして私はこの安田講堂をぐるっと一回りしてみた。正面の平面的な姿と違ってその背後はどっしりしている。
こうした講堂を眺めながら歩いていると、やはり東大全共闘と三島由紀夫の討論が私の脳裏に浮かんできた。
安田講堂事件が終結した後の1969年5月、東大駒場キャンパスで行われた伝説の討論である。
この討論については小阪修平著『思想としての全共闘世代』や伴野準一著『全学連と全共闘』、渡辺 眸著『フォトドキュメント東大全共闘1968‐1969』などの本でも学んだが、何よりこのドキュメンタリー映画の迫力は凄まじいものがある。私が三島由紀夫という人物に強烈な関心を持ったのはこの映画がきっかけだった。やはり三島由紀夫を学ばなければならぬ。この時代を知るためには、三島由紀夫を避けては通れないのだ。
私はインド・スリランカの旅を経て学生紛争について知ることになった。そして帰国した今、私はいよいよ三島由紀夫と向き合おうとしている。これまで避けていた存在といよいよぶつかる時が来たのだ。
私は東大のキャンパスを歩きながら、三島由紀夫のことを考えていた。あの学生達と向き合った三島は何を思っていたのだろうか。三島はあの時代に何を感じていたのだろうか。日本の歴史を考える上でこの男はどんな意味があるのだろうか。
私はもう居ても立ってもいられなかった。やるべきことは決まった。あとは突き進むのみである。
私の第二次インド・スリランカ遠征はこうして幕を閉じた。
だが、私に残された時間はあとわずかである。この2か月後には第三次インド遠征が控えているのだ。この旅が私の最後の旅となる。この旅で私はいよいよブッダの生涯を辿るのである。そのための準備をこれからせねばならない。例のごとく、現地に行く前に徹底的に下調べをするのが私のモットーである。
しかし私はすでに掴まれてしまった。私は三島を知らねばならぬのである。もはや逃げ場はない。どんなに時間がかかろうとこれを避けるわけにはいかないのだ。
私はここから猛烈な勢いで三島由紀夫を読み始めたのであった。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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