失われた古都ポロンナルワの仏像に感動!スリランカ彫刻のハイライトがここに!
【インド・スリランカ仏跡紀行】(38)
失われた古都ポロンナルワの仏像に感動!スリランカ彫刻のハイライトがここに!
私にとって「がっくり来た体験」となってしまったダンブッラを訪れた翌日、私が向かったのは世界遺産の古都ポロンナルワという街。
ダンブッラのあまりのがっかりぶりに「もしかするとスリランカは最後までこの調子なのではないか・・・」とすっかり意気消沈してしまっていた私だったがご安心いただきたい。ここポロンナルワは一味も二味も違ったのである。
「(32)スリランカの植民地時代の歴史についてざっくりと解説~ダルマパーラ登場の時代背景とは」の記事でお話ししたように、ポロンナルワはインドのチョーラ朝軍の侵略によって王都アヌラーダプラが放棄されたことで歴史の表舞台に登場することになった。
チョーラ朝軍はアヌラーダプラからさらに進んだここポロンナルワにスリランカ統治の拠点を置き、しばらくの間この地を支配した。だがその後1055年頃にヴィジャヤバーフ一世がこの地を奪還。シンハラ王朝が再びスリランカを統治することになった。これが仏教古都ポロンナルワの始まりである。
しかしこの時代も長くは続かず、1255年にはポロンナルワも放棄せざるを得なくなってしまう。それ以来ここもアヌラーダプラと同じくジャングル化し、19世紀にイギリスに発見されるまで忘れ去られることとなったのだ。
そして「(34)スリランカ内戦と急速に進んだ仏教聖地復活の背景~シンハラ仏教ナショナリズムと聖地の関係とは」の記事でもお話ししたように、このポロンナルワもシンハラオンリー政策によって急速に聖地化が進められた仏跡だ。ジャングルに埋もれ廃墟となっていたこの地が今、聖地、観光地として光を浴びているのである。
さあ、今日も出発だ。
見ての通り、この辺りは緑が深く、ジャングルと言ってもよい。こうした強力な植物達が遺跡をすっかり覆いつくしてしまったのだ。
そしてついに私は「あの動物」と出会うことになった。
そう!野生の象である!
出ます出ますとガイドさんから言われていたが本当に出てきた!
こんなに大きな象が「普通に出てくる」というのは正直怖い。こんなのが庭先にやって来たらひとたまりもない。実際、スリランカでは毎年死傷者が出ているという。
さて、ポロンナルワの遺跡群に到着だ。
こちらが王宮跡。遠くから見るとそこまで大きさを感じなかったのであるが近づくにつれ驚いた。
思いの外迫力があるのである!何といっても、デカい!
現在は3階部分までの柱しか残っていないが、かつては7階建てだったというのである!このサイズ感で7階まであるとすればもはや信じられないくらい巨大な宮殿である。古代ローマの建築のようだ。ポロンナルワ時代の全盛期の国力はかなりのものだったことがうかがわれる。
実際、ポロンナルワには巨大な人造湖があるのだが、その整備もこの王朝が行ったのだ。水の少ないドライゾーンにおいてこうした治水技術は不可欠だ。これほど巨大な治水事業を行うには高度な技術と膨大な労働力の動員が必要だ。それをするためには強い王権がなければならない。逆に言えば、強い王権があるからこそそうした大事業が可能になるのである。今なお謎が多い古代スリランカの高度な治水技術については中村尚司著『スリランカ水利研究序説』が非常に興味深い本なのでぜひおすすめしたい。
この後も私はポロンナルワの遺跡を歩き続けた。
他にもお見せしたい写真がたくさんあるのだが、ここで私がぜひ紹介したいのが次のランカティラカという仏堂跡である。
広い境内の中に突如現れたこの巨大な建造物に私は一瞬で引き込まれた。縦にぐっと伸びた鋭いフォルムからすらりと伸びた褐色の仏像が目に入る。これは素晴らしい・・・!
なんという美しさだろう。まさに朝の不安が吹き飛んだ瞬間だった。鳥肌が止まらない。
間近に来てみるとものすごい迫力である。
中に入ると、まるで断崖絶壁の谷間にいるかのような感覚になった。外界と遮断され、自分が異空間にいるかのようである。一歩一歩仏像に近づくほど興奮が高まる。これはすごいぞ。
そしてこの仏像そのものも素晴らしかった!これは私のスリランカ滞在のベストである。
損傷も大きく、頭部も欠損しているがそれがかえって神秘的な空気を醸し出す。
頭部のない彫刻でもどんとこいだ。何せ私はサモトラケのニケが大好きなのである。カジュラーホーの天女像にも感動した私だ。「欠損の美学」というものがある。ないからこそ引き立つ美しさがあるのだ。
仏像の足元も苔むしていて実に味わい深い。やはりこうでないと!
それにしても美しい・・・
すっと伸びた体のラインが実に優美。足元の衣の裾が少しだけ残っているのも想像力を掻き立てる。
そして印象的なのがこの太ももだ。大地に根差した農耕民たるスリランカ人の身体つきが反映されているのだろうか。この腰回りと太ももの力強さが特に印象に残っている。
ここを去るのは実に名残惜しい。まさに異空間。ここでの時間は本当に素晴らしいものだった。
ちなみに後に訪れたコロンボ国立博物館には発見当時のランカティラカの絵が展示されていた。
まさにジャングルの中に佇む古代遺跡という雰囲気だったのだろう。発見者の驚きは想像に余りある。
さて、次に紹介するのが「ポロンナルワといえばここ!」と言われるほど有名なガル・ヴィハーラという場所だ。楠本香代子著『スリランカ巨大仏の不思議』によれば、「スリランカの人々は、最も外国人に見せたい場所に、ガル・ヴィハーラ寺院をあげる」のだそうだ。
ここには12世紀に作られたスリランカを代表する傑作大仏がなんと4体も並んでいる。
そのガル・ヴィハーラに間もなく到着だ。すでに一番手前の仏座像が見えている。
これは壮観・・・!本で読んだ通り、本当に横長の一枚岩から4体の大仏が彫り出されているではないか!
一番手前の仏座像から見ていこう。横にラインが入っているように見えるが、これぞまさに岩の模様そのものなのである。純粋な一枚岩からこの美しい大仏が生み出されているのである。こうして見るとまさに岩山と一体化しているようにも見える。
かっちりと組まれたその両足からは絶妙なバランスと絶大などっしり感を感じる。肩口から下腹部にかけての逆三角形も実に美しい。力強さと優美な静けさが同居した素晴らしい仏像である。表情も瞑想の澄み切った境地が感じられて、見ているこちらの心も洗われるようだ。なんと静かで落ち着きのある像だろう。
そして手前から二番目の仏像は他の大仏と趣が異なる。ここだけ石窟のように掘り進められ、その奥に小さめの仏像が彫られているのである。楠本氏によればこの仏像は他の三体と明らかに顔が違うため、それら3つを手掛けた石工とは別の人物が制作したのではないかとされている。
また、楠本氏によればこの座像はスリランカ仏像の中でも最高水準のものだそうだ。たしかにそのバランスといい、両腕の力感といい、明らかにレベルが違うものを感じる。
だが、ガル・ヴィハーラといえばやはり次の大仏だろう。
この二尊がポロンナルワの、いやスリランカを象徴する仏像と言えるほど有名な仏像なのである。
特にこちらの立像は先ほどのランカティラカと並んで私がスリランカで最も感銘を受けた仏像のひとつである。
やはりこの仏像のクオリティは出色だ。
優美な動きがある。
そしてこの仏像もすらっとしたスタイルながら太ももの力強さを感じる。
そして何よりこの表情である!私はこの仏像から目が離せなかった。
高い芸術性は普遍的に人間に訴えうる。それぞれの「人生の文脈」を超えてくるのだ。
そしてこの仏立像には興味深いエピソードがある。実はスリランカにおいてかつてはこの像がブッダ入滅を悲しむアーナンダであると信じられていたのである。現在は様々な観点からの調査研究が進み、これがアーナンダではないことは学術的に証明されている。
しかしかつてこの仏像がアーナンダであると信じられてスリランカ人の精神に大きな影響を与えていたというのは実に興味深いことである。
このことはスリランカを代表する作家エディリウィーラ・サラッチャンドラの名作『明日はそんなに暗くない』でも言及されていた。この小説によればこの立像だけでなく最初の座像ですらアーナンダと考えられていたようだ。スリランカに来る前から私にはこれが強烈に印象に残っていたのである。せっかくなのでその箇所をご紹介しよう。
アーナンダ僧は、現世のことにのみ心を砕いていた人ではなかっただろうか。釈迦との別離によって、彼はどんな悲しみの火を胸の内で燃やしたのだろう。像の目から流れ出る涙は、すばらしい出来映えだった。博士はそれを造った石工の腕の良さに感心していた。
南雲堂、エディリヴィーラ・サラッチャンドラ著、パドマ・ラタナーヤカ、中村禮子訳『明日はそんなに暗くない』P116-117
坐像がアーナンダ像だと思っていたら、どんなにか味わい深くなるでしょう。経典で説かれている悲しみの一瞬がことごとく想像できますからね。その瞬間をこれほどうまく表現している像が外のどこにあるでしょうか。今は思い出となった話ですが、私はかつてガル・ヴィハーラにやってきて、今と同じようにこの像を見ていたことがありました。その時は参拝客が大勢いました。その中の一人が突然大きな声で泣き始めて、こう言ったのです。アーナンダ僧よ。どうしてあの時私たちの仏陀にもう一カルパヤ(約四十三億二千万年)生きていてください、と頼まなかったんですか。あなたは何てつまらないことをしたんです。あの時死ななかったら、私たちも仏陀を見て極楽へ行くことができたでしょうに……
南雲堂、エディリヴィーラ・サラッチャンドラ著、パドマ・ラタナーヤカ、中村禮子訳『明日はそんなに暗くない』P118-119
かつてのスリランカ人の感じ方をサラッチャンドラはこのように表現している。
なるほど、これは面白い。仏像の制作者はたしかにブッダを彫ったのである。しかし後代のスリランカ人はこれを尊敬するブッダに先立たれたアーナンダと捉え、心震わせていたのである。
「何をどう信じるか」というのは非常に複雑多様な展開を見せることを感じさせるエピソードである。
また、この小説の真骨頂はそうした伝統的な考え方をマルクス主義的なイデオロギーに染まった学生たちが徹底的に破壊していこうとするそのせめぎ合いにある。上の引用には含まなかったがこのガル・ヴィハーラのシーンはこの小説を象徴する名場面だと私は考えている。スリランカを知るためにもぜひこの『明日はそんなに暗くない』という小説はおすすめしたい。
このガル・ヴィハーラは実に素晴らしい場所であった。ポロンナルワ、すごく良い!これはぜひおすすめしたい仏跡だ。
ランカティラカに続いてここも変えるのがものすごく名残惜しかった。何度振り返り振り返りしたことだろう。それほど素晴らしい場所であった。
それにしても、ポロンナルワの芸術水準の高さには驚いた。この後に訪れたティワンカ・ピリマゲ寺院の大仏も圧倒的な素晴らしさだった。写真撮影が禁じられているので堂内の様子をお伝え出来ないのが残念だが、日本の東大寺法華堂の仏像を連想させるような体の作りだった。
やはりポロンナルワは何かが違う。
インドのネルーも絶賛したこの仏像は別として、アヌラーダプラにも様々な彫刻が残されていたがそれと比べてもポロンナルワは明らかにレベルが違うのだ。
なぜこんなにもポロンナルワは違うのだろうか。
おそらく、それはインドのチョーラ朝の優れた文化がスリランカに入ってきたからではないかと思われる。
チョーラ朝の強大さは、はっきり言って半端がない。圧倒的スケールの大国だった。私はこの後この国の首都だったタンジャープールを訪れたのだがその巨大さや技術の精巧さにそれこそ度肝を抜かれてしまった。こんな国に侵略されたらそれは勝ち目はない。
そんなチョーラ朝がポロンナルワにしばらくの間拠点を置いていたのである。そしてそこにシヴァ派のヒンドゥー教寺院が多数建てられていたのである。寺院が建てられたということは様々な彫刻技術も伝えられたことだろう。
こうしてスリランカに優れたインド文化が入ってきたのだ。その優れた文化とスリランカ的なものが結び付きこの素晴らしいポロンナルワ彫刻が生み出されたのではないだろうか。
これはあくまで私の推測ではあるが、この旅の終盤にコロンボ国立博物館を訪れて「やはりな」と思うことが多々あった。
ポロンナルワ時代の展示室にヒンドゥー教の優れた彫刻が数多く展示されていたのである。
やはり優れた文化が入ってくることでスリランカの文化水準もぐっと上がったのではないだろうか。
もしかすると、これは中国と日本の関係と似ているかもしれない。かつて日本も中国から進んだ文化や技術を積極的に取り入れ、そこから日本風の文化を生み出していくことになる。
進んだ外来文化と土着文化の融合がその地に根差した新たなものを生み出すのである。
そんなことを感じながらのポロンナルワ訪問となった。
ここは実に素晴らしい。私のスリランカ仏跡訪問におけるハイライトと言えるだろう。スリランカに来たらここは外せない。ダンブッラとの対比はこのポロンナルワの魅力を引き立たせることになった。ぜひそうした意味でも両方の仏跡を訪ねてみてほしい。面白い体験ができること請け合いである。
楽しくなってきたぞスリランカ!
次の記事ではスリランカの観光広告で必ず出てくるあのシーギリヤロックを紹介しよう。
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※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
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