⒁仏教が生まれたインドの時代背景~古代インドの宗教バラモン教の歴史と世界観とは。カースト制についても一言
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仏教が生まれたインドの時代背景~古代インドの宗教バラモン教の歴史と世界観とは。カースト制についても一言
前回の記事「⒀四聖諦~仏教の根本たる四つの真理とは。苦しみを滅し救いへと至る道を説くブッダ」ではブッダの最初の説法「初転法輪」の内容たる4つの真理「四聖諦」についてお話ししました。この「四聖諦」は一見シンプルすぎるように思えてしまう教えでしたが、実は当時のインドにおいてこの教えは非常に画期的なものでありました。
そこで今回の記事では一旦ブッダの生涯から離れて、インドの時代背景についてお話ししていきたいと思います。時代背景を知ればブッダの教えがいかに独特なものだったかがよくわかります。インドの歴史というスケールの大きなお話になりますが、できるだけ簡潔にお伝えしていきますので肩肘張らずにお付き合い頂ければ幸いでございます。
なお、今回の記事ではこれまで参考にしてきた中村元『ゴータマ・ブッダ』だけでなく、『新アジア仏教史01インドⅠ 仏教出現の背景』の解説も大いに参考にしています。
また、以下の「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本~入門から専門書まで私がぜひおすすめしたい逸品を紹介します」の記事ではインドの仏教や時代背景、ヒンドゥー教世界についてのおすすめの参考書も紹介していますのでぜひご参照ください。
では、始めていきましょう。
インダス文明の終焉とアーリア人の侵入
ブッダの生涯からいきなりインダス文明やアーリア人の話まで遡ることに驚かれた方もおられると思いますが、実はこのインダス文明とアーリア人の関係を押さえておくことも仏教理解に地味に効いてきます。
インダス文明は紀元前2600年頃から紀元前1900年頃までインダス川流域で栄えていた古代文明です。有名なモヘンジョダロやハラッパー遺跡などは歴史の教科書にも出てきますよね。
そしてこの地図にもありますように、インダス川は現在のパキスタンを流れる大河です。ただ、この文明には謎が多く、文字も極わずかしか出土していません。さらにこの文明が滅亡した理由も諸説あり、未だに決着がついていません。
いずれにせよ、広大なインドにおいてまず最初に出現した文明がインダス文明であり、巨大な都市機構としてのインダス文明は紀元前1900年頃に滅びてしまいましたが、そこに住む人々が全て死んでしまったわけではありません。それぞれ小さな集落を持ちながら生き延びていたはずです。さらに言えば、インド全域にまだまだ多くの先住民が生き続けていました。
そしてそんなインドにやって来たのがアーリア人という人々でした。
彼らは今のジョージア周辺がルーツなのではないかという説がありますが、いずれにせよアーリア人はインド・ヨーロッパ語族と呼ばれるように、ヨーロッパ人のルーツにもなったとも言われる人々です。このアーリア人が現在のイランやアフガニスタンの辺りを経てインドに侵入し始めたのです。
そしてここで注目したいのがインドの地形です。上の地図で茶色の線が引かれているのが見えますでしょうか。こちらはかなり大まかではありますが山脈を示しています、インドは南は海に囲まれ、東西と北が険しい山脈で囲まれ、ほぼ外界から遮断されているという独特な地形をしています、北の山脈は有名なヒマラヤ山脈です。ちなみに左側の水色の線はインダス川、右側がガンジス川のおおよその流れです。
こうした地形により、インドは独立したひとつの世界を形成していました。
しかし、この山と海に囲まれたインドではありますが、唯一の侵入経路があります。それが赤い四角で囲ったカイバル峠といわれる山脈の隙間でした。ここも厳しい難所ではありますが、かろうじて陸路でインドに侵入できる経路になっています。アーリア人の侵入から始まり、後のイスラーム勢力の侵入もここからです。インドにとってはここは外敵が侵入してくる恐るべき場所として常に悩み続けることになります。
え、でも海から行けばいいのでは?
そう思う方も多いかと思いますが、もちろん海を通しての交流は後世かなり盛んに行われます。あのローマ帝国とも交易が盛んだった程です。ですがそれはあくまで商売の話で、大軍を引き連れて内陸部まで侵攻するというのは到底不可能な話でした。
というわけで、紀元前1500年頃からこの山脈の隙間を抜けてアーリア人が徐々にインドに侵入し始めたのでありました。
かつてはアーリア人が武力で現地民を制圧しながら移動したという説が主流でしたが、今は武力だけでなく、共存共栄という形での移住もあったのではないかとされています。アーリア人と言ってもひとつの巨大な集団が一気に移動したわけではなく、小集団が少しずつ移動していったため、同じアーリア人といっても千差万別です。簡単にひとくくりにはできません。ですがこうしてインド北部から徐々に徐々にアーリア人の勢力が広まっていったのでした。
アーリア人とバラモン教~ヴェーダ信仰とカースト制
紀元前1500年頃からインドに侵入し始めたアーリア人は勢力を伸ばしながらインド深くへ少しずつ支配領域を広げていきます。
そんな彼らが信仰していたのがインドラなどの多数の神々でありました。インドラは戦いの神で、邪悪な悪魔を倒す力を持っていた神です。日本では帝釈天として知られています。こうしたアーリア人の神々を讃える聖典がバラモンという僧侶階級の人々によって編纂されていきます。それがヴェーダと呼ばれるものになります。その中でも最も有名なのが紀元前1200年頃に成立したとされる『リグ・ヴェーダ』という聖典になります。
この聖典では多種多様な神々が登場し、それぞれに讃歌が捧げられます。
こうしてアーリア人は様々な神々を讃え、儀礼を行うことで世界を支配しようとしました。つまり、神の恩寵を願ったのです。
ここで再確認ですが、アーリア人は武力にしろ共存にせよ、各地で支配階級となっていきました。そして制圧した現地民を自分たちの下に位置づけることになります。こうしてカーストの下地が作られていきました。
やがて時を経るにつれカーストは体系化され、インドでは基本的に4つの階級に分けられることになります。
一番上から、バラモン(僧侶階級)、クシャトリア(王侯貴族、武人)、ヴァイシャ(一般庶民)、シュードラ(隷属民)と並んでいきます。正確にはこの下にさらにアウトカーストという不可触民が設定され、過酷な差別を受けることになりました。
さて、このカーストですが、クシャトリアよりもバラモンが上に来ていることに注目です。普通は武力も財力もある王侯貴族が上に立ってもおかしくないのですが、ここではバラモンこそ最上級の位になっています。これは人間の力よりも、神々と直接交流できるバラモンの方が位が高いという発想から来ています。自然現象や戦争の趨勢を司るのは神々です。その神々に祈りを捧げる人間あってこそのアーリア人の勝利です。つまり、いくら武力や財力があろうが、神々の助けなくして繁栄はないという考え方だったのです。となるとバラモンが一番上に来るのも納得できます。
こういうわけでアーリア起源の神々を崇拝し、バラモンを中心とした祭式を重んじる宗教「バラモン教」がアーリア人支配下で信仰されていくことになります。
このカーストについては正式には非常に複雑な問題があり、この仏教入門の記事では話しきれませんので割愛します。興味のある方は藤井毅『歴史の中のカースト 近代インドの〈自画像〉』や池亀彩『インド残酷物語 世界一たくましい民』などの書籍を読まれることを強くおすすめします。
ウパニシャット哲学とブラフマン
アーリア人の信仰を担ったバラモン教は徐々に体系化され紀元前800年頃にウパニシャッド哲学が生まれ始めます。
ウパニシャッド哲学は世界の本質(ブラフマン)と我(アートマン)が一体となる梵我一如の境地を理想とした哲学です。このブラフマンが人格神化されたものが梵天勧請にも登場したブラフマンになります。
バラモン教でブラフマン(梵天)が最高神とされるのはこうした哲学の影響がありました。そしてこのアートマン(我)は私達一人一人の固有の霊魂といった意味合いです。「全なる世界」と「一なる私」の完全なる調和。これが古代インド宗教の理想であり救いでした。
こうして見ると世界の真理たるブラフマンがわざわざブッダのもとを訪れ、人々へ説法することを勧めたことの重大さが見えてきますよね。当時のインド世界の最高神がわざわざブッダのためにやって来た。それほどの男がブッダという存在なのだということがわかります。
この梵我一如のウパニシャッド哲学は非常に難解で、私がここで極簡潔にまとめたものでは到底言い尽くせない深遠な教えになります。ですのでここではあくまで当時のインド社会の世界観を知るための糸口として頭に入れて頂ければと思います。
まとめ
さて、何はともあれ、ブッダが生まれる前のインドの宗教事情はこのようなものでありました。
アーリア人がインドに侵入し、彼ら主体のバラモン教がインドに少しずつ広がることになります。
そしてそれと同時にカーストも定着していき、バラモン、クシャトリア、ヴァイシャ、シュードラ、アウトカーストの概念も生活に根ざすようになっていきました。
上の地図で見ましたように、アーリア人はインド北西部から侵入し始めたため、この地域は特にアーリア人の勢力が強くなります。そこで武力財力を持った王侯貴族がその地域を統治し、さらにそれを盤石にするためにバラモンたちによる加持祈祷が行われます。そして時代を経るにつれその祭式は洗練され、極めて専門的な技術が求められるようになっていきました。この流れによって神々と交流できるバラモンの力はさらに増し、バラモン教の権威が高まることになりました。
これがブッダが生まれる前のインドの宗教事情と時代背景になります。
ちなみにですが、現在インドで主に信仰されているヒンドゥー教はこのバラモン教が紀元前4世紀頃から徐々に姿を変えて生まれた宗教になります。ですのでかなり大まかな見方になりますが、バラモン教とヒンドゥー教には連続性があります。つまり、インドでは紀元前5世紀にブッダが生まれ、13世紀に仏教が滅亡するまで仏教が存在していましたが、同時にバラモン、ヒンドゥー教も人々の間に信仰され続けていました。インドにおいて仏教が興隆した時期もたしかにあったのですが、やはりインドの歴史全体で考えるとその主流はバラモン、ヒンドゥー教文化なのです。
後に改めてお話ししますが仏教はあくまでバラモン、ヒンドゥー教世界に対するアウトサイダーとしての存在になります。思想的にも人々の生活にとってもインドの主流ではないということは強調したいと思います。
では、次の記事ではいよいよブッダが生きたインドの時代背景をお話ししていきます。実はブッダが活躍したインドの時代はインド史においても激動の時期に当たり、まさしく時代がブッダを望んでいたとも言える状況だったのです。どんなに偉大なカリスマでも、時代を無視しては存在しえません。その時代の政治経済、文化、国際情勢など多くの要因が絡まり、新たな教えが人々の間で受け入れられていきます。
そのダイナミズムを感じる上でも次の記事でお話しすることは非常に重要です。引き続きお付き合い頂けましたら幸いです。
次の記事はこちら
※この連載で直接参考にしたのは主に、
中村元『ゴータマ・ブッダ』
梶山雄一、小林信彦、立川武蔵、御牧克己訳『完訳 ブッダチャリタ』
平川彰『ブッダの生涯 『仏所行讃』を読む』
という参考書になります。
※以下、この旅行記で参考にしたインド・スリランカの参考書をまとめた記事になります。ぜひご参照ください。
〇「インドの歴史・宗教・文化について知るのにおすすめの参考書一覧」
〇「インド仏教をもっと知りたい方へのおすすめ本一覧」
〇「仏教国スリランカを知るためのおすすめ本一覧」
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