シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』あらすじと感想~シェイクスピア初期の恋愛喜劇!最低男ここに極まれり
シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』あらすじと感想~シェイクスピア初期の恋愛喜劇!最低男ここに極まれり
今回ご紹介するのはシェイクスピアの初期作品『ヴェローナの二紳士』です。私が読んだのは筑摩書房の松岡和子訳版です。
早速この本について見ていきましょう。
ヴェローナの青年紳士プローティアスは、親友ヴァレンタインとミラノで再会する。ヴァレンタインはミラノ大公の娘シルヴィアと相思相愛の仲になっていた。ところが、プローティアスも彼女に会った途端に一目惚れ。一方、プローティアスの恋人ジュリアは、小姓に変装してミラノにやってくるが―。シェイクスピア初期の恋愛喜劇。
筑摩書房商品紹介ページより
『ヴェローナの二紳士』はシェイクスピアの初期に書かれた恋愛喜劇です。
この作品は実は問題作としても知られていて、実際に読んでみるとたしかにこれは物議を醸しだしそうな内容でありました。
この作品について巻末の解説では次のように語られていました。
シェイクスピア劇の中で批評家や演出家、俳優を困らせてきた最もお騒がせの台詞を選ぶとすれば、『ヴェローナの二紳士』の第五幕第四場でヴァレンタインが語る「シルヴィアに対する俺の権利はすべて君に譲る」で決まりである。「俺の権利」とは婚約者のシルヴィアと肉体関係を結ぶ権利だから、ヴァレンタインは人身売買まがいのことを言いだしている。つい今しがた、相手の「君」が自分の婚約者にねちっこく言い寄り、レイプに及ぼうとする現場を目の前で目撃したにもかかわらず、である。しかも譲るこの相手こそ自分の秘密結婚をシルヴィアの父親に密告し、二人を離れ離れにした張本人なのである。
観客(読者)にとって、こんな裏切り者を赦すという発想がありえないし、権利を譲る云々に至ってはドン・キホーテか宇宙人の発言に聞こえる。舞台の上でもこの台詞はしばしば厄介者扱いを受けてきた。
筑摩書房、シェイクスピア、松岡和子訳『ヴェローナの二紳士』P177
記事のタイトルにも書きましたが、この作品ではプローティアスという主要キャラの最低男ぶりが展開されます。
プローティアスは地元ヴェローナで婚約した女性がいるにも関わらず、出向先のミラノで美人のシルヴィアにあっさり首ったけになってしまいます。このシルヴィアはミラノ大公の娘で、すでに密かに親友ヴァレンタインと結婚を誓い合っていたのでした。
プローティアスは恋人ジュリアを裏切り、さらには親友のヴァレンタインも裏切ってシルヴィアをものにしようとします。そして言葉による誘惑でなびかないとわかれば、「力で犯す」と宣言し、レイプしようとまでします。もしそこに親友ヴァレンタインが現れなければ本当にその通りになっていたことでしょう。
最低中の最低男です。
ですが驚くべきことに、この後当の被害者ヴァレンタインは彼を許します。しかも問題の「シルヴィアに対する俺の権利はすべて君に譲る」という言葉も添えて・・・
これは不可解。とてつもない飛躍です。なぜシェイクスピアはこんなぶっ飛んだ大団円を描いたのでしょうか。
巻末解説では次のように語られていました。
若きシェイクスピアは観客(読者)をあっと言わせるお芝居に挑戦したかったらしい。理屈の上で、シェイクスピアに降ってきた最初の霊感は喜劇としてギリギリ赦せる範囲で最悪(サイテー)の裏切り男を作ってみたい、であったはずだからである。(中略)
シェイクスピアがこの喜劇を執筆したのはおそらくニ〇歳代の頃で、まだ劇団専属の劇作家ではなくフリーランスの時期だった。たぶん『ヴェローナの二紳士』が将来をかけた勝負作、生涯を通じて最も創作エネルギーを注ぎ込んだお芝居である。恋の裏切りあり、仁義破りあり、本物のワンチャンの登場あり、道化も大サーヴィスで二人分、歌と演奏と変装も盛りだくさんで究極の嫌われキャラ付き、フィナーレは予測不能のどんでん返しーこの喜劇には、サーヴィス精神と野心、気概がいやと言うほど詰めこまれている。
筑摩書房、シェイクスピア、松岡和子訳『ヴェローナの二紳士』P180-183
シェイクスピアはあえてこうしたぶっ飛んだ劇を作っていた。そしてそのぶっ飛び具合を楽しめる舞台になるようサーヴィス精神満載の台本を作っていたと。
ふむふむ、なるほど。
そう言われてみると、こうやって本を読んだだけの印象と実際の舞台とではずいぶんと違ったものがあるのではないかと思えてきました。
実際、訳者の松岡和子氏は次のように自身の体験を回顧しています。
何年ぶりかで読んで思った、「このあいだケンブリッジ大学で会ったピーター・ホランドさん(現在はアメリカ、インディアナ州のノートルダム大学教授)は、今シーズン最高のシェイクスピア劇は『ヴェローナの二紳士』だと言ってたけど、ほんとにホントかな?」ホランドさんの言葉をにわかには信じられなかったのは、突っ込みどころ満載の、オソマツと言っていいはどの筋立てのせいだ。中野春夫さんが本書の解説冒頭で指摘なさっているヴァレンタインの「シルヴィアに対する俺の権利」云々は言うに及ばず、「え、なんでいきなり山賊の親玉に?」に代表される唐突な展開、しり切れトンボ状態のサー・エグラモーに代表されるかなり杜撰な人物造形。
ところが、見てびっくり。いまもありありと目に浮かぶ紛れもない名舞台だった。(中略)
演出はデヴィッド・サッカー。場面が変わる度にラブソングが挿入され、その歌詞が芝居内の状況と重なってくる。舞台美術も、白を基調とした衣装も小道具も、ロバート・レッドフォード主演の映画『華麗なるギャッツビー』の雰囲気で、まことにおしゃれな仕立てだった。本水、本火ならぬ本犬のクラブ(ダブルキャストで、私が見たのはグレーの毛糸のカタマリのような中型犬ウーリー)の名演技(大受け)もさることながら、理知的でどちらかと言えば小柄なプローディアスと、長身で男っぷりがいいだけに縄梯子のくだりの間抜けっぷりが際立つヴァレンタインとの対比、これぞ美貌とため息を誘うシルヴィアなど、どの場面も忘れがたい。娘も私も、ホテルに戻ってからもしばらくのあいだ余韻に浸ってぼうっとしていたものだ。(中略)
いわばご都合主義の集積とも言いたくなる『ヴェローナの二紳士』だが、スワン劇場の舞台ではそのご都合主義が反転し、有り得ないことが次々に起こり大団円に結実する奇跡にまで高まっていた。
筑摩書房、シェイクスピア、松岡和子訳『ヴェローナの二紳士』P169-171
舞台の演出次第で百戦錬磨の松岡さんをして「娘も私も、ホテルに戻ってからもしばらくのあいだ余韻に浸ってぼうっとしていたものだ」と言わしめる名作に昇華する、ここに演劇の面白さがあるなと感じました。
たしかに音楽あり、美男美女あり、お洒落な舞台、衣装あり、名台詞あり、さらに本物の犬の登場ありとこれでもかというサーヴィス精神です。観客に楽しんでもらおうというシェイクスピアの心意気が見えるようです。
シェイクスピアが当時小難しい古典作家としてではなく、ひとりの現代作家として観客を楽しませようとしていたことを感じさせます。これは中野好夫著『シェイクスピアの面白さ』でも語られていたことでした。
肩肘張らずに楽しめる演劇。そうした側面が特に強いのが『ヴェローナの二紳士』という作品なのではないでしょうか。本だけ読むとなかなかに厳しいシナリオではありますが、松岡さんが感じられたように舞台演出次第ではものすごい魅力を持った作品に化けるという恐るべき作品です。
これは面白い読書になりました。
以上、「シェイクスピア『ヴェローナの二紳士』あらすじと感想~シェイクスピア初期の恋愛喜劇!最低男ここに極まれり」でした。
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