他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く
他人の過失を見るなかれ。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ―お釈迦様のことばに聴く
五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P17
今回のことばはメディアやSNSなどで炎上が相次ぐ現代において非常に重要なものではないでしょうか。
今や芸能人だけでなく、一般の人ですら炎上することも珍しくありません。
そういう世の中において、今回のことばを皆さんはどのように感じますでしょうか。
今の世の中はこのお釈迦様のことばと真逆なもののように思えてきますよね。
特にコロナ禍の今、皆が互いに監視し合い悪者探しに躍起になっている。そんな空気さえ感じさせられます。
なぜこんなにも日本人は他人の過失に不寛容になってしまったのでしょうか。今回はそのことについて考えていきたいと思います。
他人の過失を責めずにはいられない心―寛容さはどこへ?
炎上騒ぎやコロナにおける自粛警察の問題は最近よく目にしますよね。
仕事をするにしてもやれコンプライアンスコンプライアンスと、炎上しないための決まりごとで私たちはがんじがらめになってしまっています。コンプライアンスを遵守することは大事なことですが、そうした決まりごとにあまりに縛られすぎると人と人との温かいつながりまで失われてしまうように私は思うのです。
過失を恐れるあまり何もできなくなってしまう。「自分が行動することでもし何か起きてしまったら批判される。ならば何もしない方がいいや。」となってしまうのも無理のないことです。
そして有名人が何か問題を起こせば鬼の首を取ったように「そんなことをするなんてけしからん。信じられない」と非難が加えられます。メディアでもそうですがネット空間は見るも恐ろしい状態です。
中傷を浴びた人間がどう思うかなどまったくお構いなしに、人を傷つける言葉を指のタッチひとつで匿名で送れてしまう・・・これは恐ろしいことです。
そうして起こった悲劇のひとつがプロレスラーの木村花さんの自殺でした。
有名人の自殺はメディアでも大きく取り上げられることになりましたが、日本にはこうした誹謗中傷によって自殺を選ぶ人や精神を病む人が大勢います。これは有名人だけの問題だけではなく、私たち一人一人がそうなりかねない問題です。
どうしてこんなにも人は他者を攻撃せずにはいられないのでしょうか。どうして他人の過失や気に食わないところを責めずにはいられないのでしょうか。
たしかに不祥事を起こしてしまったりして批判されてしまうことも当然あるでしょう。ですが法的にも社会的にも制裁を受けたのであれば、それ以上寄ってたかってその人を責め続けるのは単なるいじめです。
反抗できない弱い立場の人をただサンドバックにしているだけです。
ですがそれをやめられない世界になっている。それを求めている人がたくさんいる。それが現実です。
なぜそういうことをやめられないのでしょうか。
他者を悪とすることで自分は正しい、善い者になれる
他人の過ちや悪いところを指摘することで自分は正しい、善い人間であることを実感できる。これが大きな要因なのではないかと思います。
誹謗中傷はそもそも、どんな人がしているものでしょうか。
皆さんはどのような人が思い浮かびますでしょうか。
具体的にこういう人というのはなかなか難しいかもしれませんが、おそらく、「満たされていない人」とか、「生活に不満を抱えている人」というイメージが浮かんでくるのではないでしょうか。
仕事や私生活において充実している人はおそらく誹謗中傷はあまりしないのではないかと思います。もちろん例外もあるでしょうが、うまくいっている時や、自分に自信がある時、こういう時はあまり人は他人を誹謗中傷して自分を保とうとはしません。なぜならその必要がないからです。
つまり仕事や私生活ですでに「自分は良し」という感覚を得ているから、あるいはすでに自分で「自分を良し」と思える精神的な柱や軸を持っているから他者を誹謗中傷してまで自分を保つ必要がないのです。
ですが、そうではない人は仕事や私生活でなかなか「自分はよし」という感覚を得ることはできません。といって自分で「自分を良し」と思うことも非常に難しい。
やがてストレスや不安が高まり、自分を守ろうとします。
その方法のひとつが他者を悪い者として攻撃し、自分は正しいものである、善人であるという感覚を得ようとすることなのです。
こう考えてみると、他者を攻撃せずにはいられないのは個人の問題だけでなく時代や社会状況によるものも大きい、そう言うこともできるかもしれません。
もう一度お釈迦様のことばを聴いてみましょう。
五〇 他人の過失を見るなかれ。他人のしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
岩波書店、中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』P17
お釈迦様は「他人の過失を見るなかれ。他人のしなかったことを見るな。」と述べます。他者のことは気にしてはならない。それよりも「自分のしたこととしなかったことだけを見よ」と述べるのです。
もし自分を棚にあげて他者の過ちや間違いばかり見ようとすると、自分を正当化するために相手を利用してしまうことになるのです。
もし自分のしたことしなかったことをはっきりと見たならば、他人の過ちや間違いに対する見え方も変わってくるのではないでしょうか。なぜなら自分も過ちや間違いを犯してしまう存在だからです。
もちろん、誹謗中傷や不寛容の原因は「他者を悪者にすることで自分は善い者であると思いたい」という心だけではありません。他にも様々な要因があることでしょう。
ですが昨今の状況を見ていると、何が正しくて何が悪いかわからない、そんな不安定な世界のように思えます。
そんな世界において「自分は良し」とされる感覚、これがあるかないかで精神的な状況はかなり違ってくるのではないかと私は思うのです。
では「自分は良し」とされる感覚は実際どういうものなのか、どうすれば得ることができるのか、そのことについては次の記事で引き続き考えていきたいと思います。
次の記事では『「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美は本当にいいことなのか~善悪の基準を失った私達―不寛容の原因のひとつの仮説として』というテーマでお話ししていきます。
なぜ私たちは他者を攻撃せずにはいられないのでしょうか。
これは非常に重要な問題です。その問題の根っこに『「個性、自分らしさ、ありのまま」讃美』があるのではないかと私はふと思ったのです。
「個性は大事、ありのままでいいのよ」という世の中の風潮こそ他者を攻撃せずにはいられない要因なのではないかと感じたのです。いきなりそう言われてもぴんと来ないかもしれませんが次の記事を読んで頂ければきっとその意味するところが伝わってくれるのではないかと思います。ぜひ引き続きお付き合い頂けましたら幸いです。
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