『親鸞像の再構築』概要と感想~恵信尼文書を文法的に解析した論文が収録。恵信尼は何者なのかを考えるのにおすすめ

『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』概要と感想~恵信尼文書を文法的に解析した論文が収録。恵信尼は何者なのかを考えるのにおすすめ
今回ご紹介するのは2011年に筑摩書房より発行された大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』です。
早速この本について見ていきましょう。
伝承上の親鸞から歴史学が明らかにする親鸞へ、また現代社会における「他力」思想のよすがとしての親鸞へ、学際的な研究により、新たな人間像を浮き彫りにする。
Amazon商品紹介ページより
本書『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』は上の本紹介にもありますように歴史学の視点や学際的な研究をベースにした親鸞聖人研究の論文集になります。せっかくですので目次も見ていきましょう。
【目次】
発刊の辞/草野 顕之・歴史の中の親鸞
〔歴史学の成果〕
善鸞の義絶と義絶状/平 雅行
親鸞と一乗の系譜 出家・修学旅行から六角堂参籠まで/東舘 紹見
『恵信御房文書』管見/沙加戸 弘
師弟の信頼関係を示す名の贈与「親鸞」の名にちなんで/本多 弘之〔伝承への眼差し〕
親鸞伝における史実と伝承/草野 顕之
親鸞伝における「東国」の発見/塩谷 菊美
語り継がれた親鸞伝記の一史料『良観和讃』をめぐりて/小山 正文
来迎・不来迎の思想的展開 平安時代の来迎信仰~法然・親鸞の来迎観
/石橋 義秀・現代に生きる親鸞
〔近代と向き合う〕
清沢満之の自覚的仏道 「近代の真宗」の確立/水島 見一
真宗教育者、廣小路亨先生の親鸞像 「親鸞にみる〝青年の勇気と決断〟」を読む
/福島 和人
倫理と宗教はどのように関わるのか/池上 哲司
教育学における親鸞の人間学的位置 近代教育学の脱構築に向けて
/川村 覚昭〔他者と向き合う〕
高木顕明 近代日本における仏教者の一軌跡/泉 惠機
「じぶん」中心から「他者」へのまなざしへの転換 親鸞聖人の教えと社会福祉
/佐賀枝 夏文
宗教にとって環境問題とはいかなる問題か/渡辺 啓真
贈与と返礼が開く世界 等価交換を超えて/門脇 健あとがき/安冨 信哉
大谷大学ホームページより
私自身、大谷大学大学院で学んでいましたので本書の著者の先生方には私も大変お世話になっており、なつかしく思います。
そして今回の記事に際してぜひご紹介したいのが沙加戸弘氏の「『恵信御房文書』管見」という論文です。私がこの論文をここで紹介するのには理由があります。それがこの論文の題にもある恵信尼の問題です。

親鸞の妻とされるこの恵信尼ですが、実は彼女が何者であるか、どこ出身の女性であるか歴史学では未だ決着がついていません。
ですがこの恵信尼問題について、以前の記事で紹介した草野顕之著『親鸞伝の史実と伝承』では次のように説かれていました。少し長くなりますが重要な箇所ですのでじっくり読んでいきます。
親鸞と恵信尼との結婚の時期に関しては、以前より、吉水の法然門下にあった時代と、親鸞が流罪によって越後に流されていた時代という二つの説がありました。
吉水時代を採っていたのは赤松俊秀氏であります。赤松氏は親鸞が吉水におもむく契機となった前述の六角堂での夢想の文である「行者宿報偈」は、親鷺の性欲を中心とする悩みを表すものであったとされ、妻帯するために比叡山と絶縁して新しい生活を始めたのであるから、その結婚は当然、吉水時代になされたと推測しています。
逆に、越後時代とするのは松野純孝氏で、松野氏は地方居住の僧は生活のために妻帯せざるをえない場合が多いとします。そして、恵信尼の父を『日野一流系図』は「三善為教」としていますが、『玉葉』治承二年(一一七八)正月二七日条に越後介に任じられた「三善為則」が見られること、親鸞が流された越後国国府の南方にある山寺薬師(現、上越市板倉区)の薬師如来像の胎内墨書銘に「大檀那三善讃阿」とあり、三善氏を名乗る豪族がこの地域にいたことなどを考え合わせ、恵信尼は越後豪族三善氏の娘であったと断定されています。したがって、親鸞との結婚は越後時代であると言うのです。
このような京都説・越後説に、決定的な評価を下したのが今井雅晴氏でした。今井氏は、親鸞が六角堂に百日間の参龍を試み、九五日日に聖徳太子(救世観音)のお告げを受けて、法然のもとに入門する経緯を記した恵信尼の消息に、
(前略)やまをいでて、六かくどうに百日こもらせ給いて、ごせをいのらせ給いけるに、九十五目のあか月、しょうとくたいしのもんをむすびて、じげんにあずからせ給いて候ければ、やがてそのあか月いでさせ給いて、ごせのたすからんずるえんにあいまいらせんとたずねまいらせて、ほうねん上人にあいまいらせて、又六かくどうに百日こもらせ給いて候けるように、又百か日、ふるにもてるにもいかなるだい事にもまいりてありしに、ただごせの事はよき人にもあしきにも、おなじようにしょうじいづべきみちをば、ただ一すじにおおせられ候しを、うけ給わりさだめて候いしかば(後略)
すなわち、「比叡山を出て、六角堂に百日間お寵もりになって、来世での救いを祈られていたところ、その九十五日目の暁に、聖徳太子が姿をあらわし、お言葉をかけられたので、すぐにその暁に六角堂を出られて、来世で救われる縁に逢おうとさがし求られて、法然上人にお会いなり、六角堂に百日寵もられたように、百日間、雨が降ろうと日が照ろうと、どんな大事なことがあっても参られて、ただ後世の事は善人にも悪人にも、同様に生死を離れられる道をいちずに仰るのをうかがったので」とあるのですが、六角堂での場面を記した箇所の過去形が「けり」(けら・けり・ける・けれ、と活用)であり、法然のもとを訪ねて入門するくだりを記した箇所の過去形が「き」(せ・き・し・しか、と活用)であると、その二つの場面に使われる過去形の違いを指摘されます。そして、前者の「けり」は他人から伝え聞いたことを言うときの過去形であり、後者の「き」は自分が実際に経験した事実を言うときの過去形であることから、恵信尼は六角堂に参籠する親鸞は見分していないが、法然のもとに通ってくる親鷺は、自身の目で見ていたと結論づけられました。
これにより、親鸞と恵信尼との出会いが京都、それも法然の吉水であったことが明らかとなり、結婚の時期については事実上決着しました。また、前節との関連で言えば、妻帯を念仏往生の妨げとはしない、否むしろ念仏を称えるのに必要ならば積極的にそうせよと断ずる師・法然のもとにあった時代の方が、親鸞の結婚の時期としてはふさわしいと考えられましょう。
法藏館、草野顕之『親鸞伝の史実と伝承』P53-55
ここで草野氏が今井説によって恵信尼との出会いが京都で事実上決定したと述べていますが、この論争について平雅行氏は『歴史のなかに見る親鸞』で次のように述べています。
話はこれで解決したように思えました。でも、よくよく考えると、大きな問題が残っています。第一は、助動詞「き」「けり」の使用法です。前に述べたように(九二頁)、古田氏らの見解は、恵信尼文書における話法の転換を無視しています。「いかなる大事にも参りてありしに」は親鸞の直接体験を示しているだけで、恵信尼の体験と解する必然性はありません。つまり助動詞の使用法から、親鸞と恵信尼の出会いの時期をさぐる議論は成り立ちません。
法藏館、平雅行『歴史のなかに見る親鸞』P170
そしてこの平氏の反論を補強する論拠として92頁に沙加戸氏の「『恵信御房文書』管見/」が紹介されていたのでありました。
そして実際に本書掲載のこの論文を読んでみるとたしかにその通り。今井説の根拠となった「き」「けり」の語法がたしかに恵信尼の直接体験とは言えないように思えるのです。
ただ、私は古文の専門家でもありませんので恵信尼文書の絶対正しい読み方は何かは断言できません。ですが沙加戸氏のこの論文を読む限り、「恵信尼問題は今井説で確定」とはまだ言えない段階なのではないかと私は感じています。
そしてですが、この沙加戸氏の論文を読んでいて私は驚いたことがありました。その箇所を引用します。
又百か日 ふるにもてるにも いかなる大事にもまいりてありしに
と、天候にも左右されず、身体の調子の好悪もかまわず、また百箇日通い続けられたことを述べられる。「なぜ百箇日、百箇日なのか」という疑問には、現在まで伝えられる比叡山の回峯行が、
初年度 百 日 七里半
二年度 百 日 七里半
三年度 百 日 七里半
四年度 二百日 十 里
五年度 二百日 十 里
九日間の断食・断水・不眠・不臥をはさんで
六年度 百 日 十三里
七年度 百 日 十五里
八年度 百 日 七里半という課程であるのを考えれば、この形式が八百年朔れるかという議論は別にしても、恐らく聖人の御身体に、行の単位としての百日、という時間が刻まれていたのであろう、と推測できる。
筑摩書房、大谷大学真宗総合研究所著『親鸞聖人七百五十回御遠忌記念論集[下巻】親鸞像の再構築』P73
私はこの箇所を読んで震えました・・・!
親鸞の95日の参籠は千日回峰行の伝統と関係があった可能性があるのです!
沙加戸氏は「むすびにかえて」で「本稿は筆者の真宗学に対する無知を言わば逆手にとって、『恵信御房文書』が、文言として、文書として、どう読めるか、どこまで読めるか、を試みたものである。」と述べています。つまり普段真宗学と関係が薄いからこそこの天台の千日回峰行との結びつきが見えたのかもしれません。これはものすごい慧眼です!やはり親鸞聖人は比叡山の伝統の中に深く生きていたのです。
私はこの箇所を読んですぐさま千日回峰行についての本を探しました。そして出会った光永圓道著『千日回峰行を生きる』を読みそれこそ感動しました。こういう凄まじい行が比叡山では行われてきたのだと。千日回峰行の存在は知ってはいましたが、恥ずかしながら深く考えたことはありませんでした。これほど真摯な思いで仏道に励む方がおられることに私は衝撃を受けました。きっと親鸞聖人がおられた時代もこうした行者がおられたことでしょう。親鸞の師匠とされる天台座主慈円もこうした行に没頭していたことが知られています。(史実としては親鸞の直接の師とは言えない可能性が高いですが)
いずれにせよ、親鸞聖人が六角堂に95日山から通ったというのはこの回峰行の伝統があったからこそかもしれません。そして100日ではなく95日で終わるというのも実はこの千日回峰行と関わってくることも本書で知ることができました。次の記事ではこの光永圓道氏の本を紹介しますが、本当に素晴らしい一冊です。ぜひ合わせて読んで頂ければと思います。
恵信尼文書について学ぶために手に取った本書でしたが思わぬ大収穫となりました。この発見にあまりに衝撃を受けたため実際に親鸞聖人が歩いたとされる比叡山雲母坂ルートを登山することになりました。その体験は「比叡山登山記(京都修学院~延暦寺)~親鸞聖人も歩いた雲母坂ルートを追体験!」でお話ししていますのでぜひこちらもご参照頂けましたら幸いです。
以上、「『親鸞像の再構築』概要と感想~恵信尼文書を文法的に解析した論文が収録。恵信尼は何者なのかを考えるのにおすすめ」でした。
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