慈円『愚管抄 全現代語訳』概要と感想~天台座主慈円による歴史書。慈円は法然教団をどう見たのか

慈円『愚管抄 全現代語訳』概要と感想~天台座主慈円による歴史書。慈円は法然教団をどう見たのか
今回ご紹介するのは2012年に講談社より発行された慈円著、大隅和雄訳の『愚管抄 全現代語訳』です。
早速この本について見ていきましょう。
天皇家・摂関家内部の権力抗争が武力衝突に発展し武士の政界進出の端緒となった保元の乱。そこに、乱世の機縁をみた慈円は、神武天皇以来の歴史をたどり、移り変わる世に内在する歴史の「道理」を明らかにしようとする。摂関家に生まれ、仏教界の中心にあって、政治の世界を対象化する眼をもった慈円だからこそ書きえた歴史書の、決定版全現代語訳。(講談社学術文庫)
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慈円は浄土真宗の開祖親鸞聖人とも大きく関わる人物です。
慈円は比叡山のトップたる天台座主を四度務めた大物中の大物です。そしてこの慈円の下に親鸞は9歳で入室(出家)したという伝承が浄土真宗に伝えられています。つまり、慈円は親鸞のお師匠様ということになります。
ただ、伝承としてはそうであったとしても、様々な事情を勘案するにおそらくこれは史実としては厳しいものがあるのではないかと思われます。詳しいことはここではこれ以上お話しできませんが、史実はどうあれ私達真宗僧侶にとっても大切な存在がこの慈円という高僧になります。
慈円の『愚管抄』については前回の記事で紹介した大隅和雄著『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』が最もおすすめな参考書です。『愚管抄』は正直かなり難解な書でもありますのでまずは解説を読まれてから挑戦することを私はおすすめします。
私自身、解説書を読まずに『愚管抄』に突撃していたとしたら大事なところをかなり見過ごしてしまっていたと思います。『愚管抄』は壮大なスケールで語られた歴史書です。しかもその大きなスケールの語りの中に慈円その人の私的な念もそこに挟み込まれてくるため途中で何が何やらわからなくなってくるということが起こりやすいのです。
ただ、解説書をあらかじめ読んでおくことである程度の道筋を持っておくことができます。そうすると、難解な箇所にぶつかっても「お、これは解説書で言っていたことか」と慌てずに対応することができます。
というわけでぜひ先に大隅和雄著『愚管抄を読む 中世日本の歴史観』を読むことをおすすめします。
さて、その上で本記事ではこの『愚管抄』の中でも特に印象に残った箇所を紹介したいと思います。
それが「慈円が法然教団をどう捉えていたか」という箇所です。法然の弟子たる親鸞聖人を開祖とする浄土真宗僧侶としてこれは非常に気になるところです。
少し長くなりますがその箇所を全文引用したいと思います。
法然上人と念仏宗
また建永年間のこと、法然房(源空)という上人があった。京の市中に住んで、近年になって念仏宗を立て、専修念仏と称して「ただ阿弥陀仏とだけ唱えるべきである。それ以外のこと、顕密の修行はするな」ということをいい出したのである。
ところがこの専修念仏の教えは、異様な、理非もわからず知恵もないような尼や入道によろこばれ、ことのほか繁盛に繁盛を重ねて、教団は急速に大きくなりはじめた。
その仲間に安楽房(中原師広、遵西)という者がいた。安楽房は(高階)泰経入道に仕えていた侍で入道して専修の修行僧となった者であったが、住蓮と一組になって、六時礼讃(昼夜を六つに分け、各時に仏を礼拝し懺悔する行)は善導和上(唐の浄土教家)の教えられた行法であるといって、それを布教の中心とし、尼どもの熱烈な帰依を受けるようになった。
ところが尼どもは教え以上のことをいいふらし、「専修念仏の修行者となったならば、女犯を好んでも、魚鳥を食べても、阿弥陀仏は少しもおとがめにならない。一向専修の道に入って、念仏だけを信ずるならば、かならず臨終の時に極楽に迎えに来てくださるぞ」といい、京も田舎もすべてにこのような教えがひろまっていったのである。
そうするうちに、院の小御所の女房(伊賀局)や、仁和寺の御室(道助法親王)の御母(後鳥羽上皇妃。坊門局)などといった人々もいっしょになってこの教えを信じ、ひそかに安楽房などという者を呼び寄せて、その教えを説かせて聞こうとしたので、安楽房の方も同輩を連れて出かけていくようになり、夜になっても僧どもをとどめておくようなことが起こったのである。
それはあれこれということばもない有様で、ついに安楽・住蓮は首を斬られたのであった。法然上人は流罪となり、京の中にいてはならぬとして追われてしまった。流罪のことも、後鳥羽上皇のしかるべき御処置があったのに、法然を支持する人々がすがって少し手心を加えられたように思われる。
しかし、法然の味方はあまりに多く、赦免されてのちついに東山の大谷(京都市東山区)というところで亡くなった。その時にも往生だ極楽往生だといいたてて人が集まったが、しかるべき往生の証拠はあらわれず、臨終に際しての振舞にも、増賀上人(高名な往生者)などのようにとりたてていうべきことはなかったのである。
しかしこのように臨終に人が集まったりしたので、この教えの影響は最近まであとをひいて、いまだに大方の魚鳥を食い女犯を行う専修念仏の禁止ができないのであろうか、比叡山の衆徒が決起して空阿弥陀仏(法然の弟子)を中心とする念仏の信者を追い散らそうとし、念仏の信者どもが逃げまどうたりしているようである。
だいたい、東大寺の俊乗房(重源)も、自分は阿弥陀仏の化身であるといい出し、自分の名を南無阿弥陀仏と名のり、上に一字を置いた空阿弥陀仏・法阿弥陀仏などという名を誰にでもつけてやったので、本当にそのままそれを自分の名とした尼や法師も多かった。果てには法然の弟子といって魚鳥女犯のようなことなどをしはじめたのを見ると、本当にそこに仏法が滅びていく姿があらわれていることは疑いない。
これを考えてみると、悪魔というものには、人々を従わせていく悪魔と、物ごとにさからう悪魔とがあり、ここでは人々を従わせていく悪魔が悲しくもこういう教えをひろめているのである。阿弥陀仏の教えのみがひろまり、それによって得られる救いのみが増していくということが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救いで罪障が消えて極楽へ行く人もあるであろう。しかし、そのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである。
さて、九条殿(兼実)は、法然上人の説きすすめる念仏の教えを信じて、法然上人を戒師として出家をなさった。その後、仲国の妻のことに驚きあきれ、法然の流罪のことを嘆いたりしておられたが、久しく病床にふして起居も思うようにならない御様子のうちに、法然の流罪が行なわれた建永二年(一二〇七)の四月五日、立派な臨終をとげられたのであった。
講談社、慈円著、大隅和雄訳『愚管抄 全現代語訳』P339-340
これは比叡山のトップたる人物による非常に重要な見解です。さらに言えば慈円は摂関家の御子息でもあり、当代を代表する和歌の達人でもあり、歴史家でもあります。つまりこの時代の政治、文化の中心人物と言ってもよい人物です。そのため当時の事情をもっとも詳しく知れる情報網も持っていたとも言えます。その慈円が法然教団を上のように評しているというのは極めて重要なポイントであると思います。
特に「阿弥陀仏の教えのみがひろまり、それによって得られる救いのみが増していくということが真実であるような世には、本当に阿弥陀仏の救いで罪障が消えて極楽へ行く人もあるであろう。しかし、そのような世にはまだなっておらず、真言と天台の教えが盛りであるべき時に、悪魔の教えに従って救いを得ることのできる人は決してありえない。悲しむべきことである。」という言葉は決定的です。
浄土真宗では平安末期より末法であるから念仏して救われようと考えるのですが、慈円は未だその時期は来ておらず、むしろ「真言と天台の教えが盛りである」と考えています。
これは平雅行著『歴史のなかに見る親鸞』や『中世仏教』で述べられていたように、慈円のみの認識ではなく、当時の比叡山や興福寺、その他ほとんどの寺院がこの認識であったと思われます。この時代、法然教団のような極端な末法思想や専修念仏は少数派の思想だったのです。しかも上で慈円が述べているように、風紀の乱れや治安悪化の原因につながったこの専修念仏の教えは危険であると慈円は批判しています。そして仏法的にもこうした極端な思想は悪魔の仕業と慈円は断じています。
比叡山側が法然教団をどのように見ていたかを子細に記録に残したこの『愚管抄』は非常に貴重な歴史資料です。私達浄土真宗側は弾圧された被害者としてその歴史を叙述しましたが、それに対する立場からの言葉も聞いていく必要があるのではないでしょうか。
以前の記事「多賀宗隼『慈円』概要と感想~『愚管抄』で有名な天台座主の真摯な求道に胸打たれる!親鸞が比叡山にいた頃そこで何が起きていたのか」でも述べましたが、慈円は私達が驚くほど真摯に仏道修行に励んだ僧侶でもありました。一概に彼を悪人視することはできません。
当時の複雑な時代背景を知るにはこうした様々な視点からの歴史を学ぶ必要があります。
そしてそもそもですが、この『愚管抄』はやはり日本を代表する歴史書であることに間違いありません。上でこの本は難解とお話ししましたが、話のひとつひとつは意外とすらすら読むことができます。そして私も驚いたのですが、慈円は物語表現がものすごく達者だということです。特に平治の乱における信西(貞慶の祖父)殺害シーンは一流のドラマを見ているかのような臨場感、迫力で描かれます。やはり慈円は只者ではありません。
親鸞聖人がおられた頃の比叡山にはたしかにこうした傑僧がおられたのです。そのことを私は強調したいと思います。今回の記事では紹介できませんでしたが、慈円が何をもってこの世を救おうとしたのか、自身の仏道をどのように感じていたのかということもこの『愚管抄』で体感することができます。
大隅和雄氏による現代語訳はとても読みやすいので、研究者でない限りこの版で読むのをおすすめします。
実に刺激的な一冊でした。
以上、「慈円『愚管抄 全現代語訳』概要と感想~天台座主慈円による歴史書。慈円は法然教団をどう見たのか」でした。
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