多賀宗隼『慈円』概要と感想~『愚管抄』で有名な天台座主の真摯な求道に胸打たれる!親鸞が比叡山にいた頃そこで何が起きていたのか

多賀宗隼『慈円』概要と感想~『愚管抄』で有名な天台座主の真摯な求道に胸打たれる!親鸞が比叡山にいた頃そこで何が起きていたのか
今回ご紹介するのは1989年に吉川弘文館より発行された多賀宗隼著『慈円』です。
早速この本について見ていきましょう。
平安末―鎌倉初頭の転換期に仏教界に君臨。すぐれた和歌と史論により不朽の名を残す大思想家の伝。
吉川弘文館商品紹介ページより

今作の主人公慈円は浄土真宗の開祖親鸞聖人とも大きく関わる人物です。
慈円は比叡山のトップたる天台座主を四度務めた大物中の大物です。そしてこの慈円の下に親鸞は9歳で入室(出家)したという伝承が浄土真宗に伝えられています。つまり、慈円は親鸞のお師匠様ということになります。
ただ、伝承としてはそうであったとしても、様々な事情を勘案するにおそらくこれは史実としては厳しいものがあるのではないかと思われます。詳しいことはここではこれ以上お話しできませんが、史実はどうあれ私達真宗僧侶にとっても大切な存在がこの慈円という高僧になります。
さて、この慈円ですが父は保元の乱、平治の乱での主要人物となった摂関家の棟梁藤原忠通になります。藤原忠通と言われてもなかなかピンと来ないかもしれませんが、元木泰雄著『平清盛と後白河院』や『平氏政権と源平争乱』などを読んで頂ければ彼がいかに強い勢力を持ち、波乱万丈の人生を送ったかがよくわかります。
そしてその忠通の11男として生まれたのが慈円になります。兄には法然教団を助けた九条兼実がいます。九条兼実については加納重文著『九条兼実』という伝記がおすすめですのでこちらも合わせてご参照ください。
さて、慈円に話は戻りますが大貴族の11男に生まれた慈円。しかも慈円は正妻の子供ではありません。つまり元々家督を継ぐことはできない身として生を受けることになりました。ただ、平安中期の良源の頃から大貴族の子弟が続々寺院に入り始め、要職に就くという流れが生じていました。その流れに則り慈円も比叡山でめきめき頭角を現すことになります。
ただ、ここで注意したいのは慈円が単に仕方なく仏門に入って終わりという人物ではなかったということです。彼は回峰行や厳しい修行に自ら飛び込み、熱烈に仏道修行に邁進したのです。当時の比叡山や南都興福寺などでは仏教界が第二の世俗社会として権力闘争が行われていたのですが、慈円はそこに馴染もうとしませんでした。慈円自身は摂関家の生まれということでその摂関家の繁栄を祈るため、さらには摂関家の息がかかった子息を大寺院に置くために送り込まれました。しかし彼はそんな政治的な意図を嫌い、隠遁を望みました。兄の九条兼実に何度も「修行に専念したいのでここから離れてひっそり生きたい」と懇願さえしています。
慈円は単なる大貴族の息子ではありません。彼は真摯に、熱烈に仏道修行を求めた行者だったのです。
平安末期から鎌倉時代にかけての比叡山はとかく「堕落していた」「僧兵が跋扈していた」と批判されがちですが、そんな状態の中慈円はこの山にいたのです。この伝記を読めばわかるのですが、慈円はそんな制御不能な比叡山の中でできる限りのことをしようとしています。そして慈円なりに仏道を追求し、その結果生まれたのが日本最初の歴史書として名高い『愚管抄』になります。慈円はこの本で「世の道理」を見極めんとしました。
この伝記を読めばそんな慈円の孤独な戦いぶりがよくわかります。「比叡山は堕落していた」と大きく括られがちですが、ここに真摯に仏道を生きた仏教者がいたのです。そしてそこには彼だけでなく名もなき多くの僧侶たちもいたはずです。こうした大混乱の時期の中でも真摯に仏道を繋いだ僧侶たちがいたからこそ、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮など多くの祖師たちがこの山から生まれてくることになったのではないでしょうか。やはりこの山には圧倒的な何かがあるのです。
私はこの慈円の伝記に非常に強い感銘を受けました。親鸞聖人がおられた頃の比叡山を知りたいという思いから手に取った本書でしたが、実に素晴らしい作品でした。
当時の時代背景や慈円の熱烈な仏道修行、そして天台座主としての苦悩などさまざまな発見がある名著です。ぜひ手に取ってみてはいかがでしょうか。
以上、「多賀宗隼『慈円』概要と感想~『愚管抄』で有名な天台座主の真摯な求道に胸打たれる!親鸞が比叡山にいた頃そこで何が起きていたのか」でした。
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